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その小さな村は、雨が降るたびに山々を靄が包み込むことから、「灰色」を意味するグリと呼ばれるようになったという。
山奥の貧しい集落が一転して景勝地として名を馳せるようになったのは、時の皇帝によってマーヴィ城が築かれて以降のこと。
空の色よりも濃く鮮やかな青色の屋根を持つドームは、狼月の宝飾品ではあまり主流ではない瑠璃石に例えられ、多くの吟遊詩人に歌われた。
雄大な山の頂に聳え立つ美しき城を一目見んと各地から人が押し寄せたことで、グリの村もまた栄えていったのだ。
「今日は雨だから、村からお城は見えないの。あなたたち運が悪いわ」
村生まれの少女ルマは、メティの鞍にちょこんと腰掛けたままケラケラと笑った。
少女の背凭れとなっている旅の巡礼僧シューニヤは、柔和な笑みを湛えたまま白い景色へ鼻先を向ける。視界と足場が悪いことは包帯越しにでも分かるのか、薄い唇が苦々しく笑った。
「……フィルゼ殿、歩かせてすまないな」
「気にしないでいい」
二人を乗せたメティの手綱をゆっくりと引きながら、フィルゼはかぶりを振る。
ルマの案内に従って山道を進んでいくと、やがて広く浅い谷が眼前に現れた。谷底にうっすらと見える民家の群れが、目的地であるグリの村だろう。
落ち葉で満たされた緩やかな勾配を下りつつ、フィルゼはちらりと馬上を見上げた。
「シューニヤ」
「何かな?」
「……その目は大丈夫なのか?」
「ああ、これか」
少し躊躇いがちに尋ねてみれば、思いのほか軽い反応が返ってくる。シューニヤは視界を塞ぐ包帯に指先を滑らせると、自嘲するように肩を竦めて見せた。
「立ち寄った村で負傷した若者の手当てをしていたら、反乱軍の仲間と勘違いされてしまってな。違うと説明したんだが、まあ……そのまま剣でザクッとね」
「……そうか。視力は?」
「傷が癒えないことには何とも」
シューニヤの話を聞いて、彼の前に座っているルマがきゅっと目を瞑り、痛そうな顔をして瞼を手で覆った。
「目を斬るなんて酷い……。おじさん、如何にも戦えなさそうなのに、そこまでしなくても」
「慰めてるのか貶してるのかどっちだい、お嬢さん」
「慰めてるよ!」
幼子の相手は慣れているのか、シューニヤは笑いながら少女の頭を撫でる。
彼の目を負傷させた犯人──つまり狼月軍の兵士に対して、ルマはその後もしばらくブツブツと非難を漏らしていた。
「動物だけかと思ったら、人間にも酷いことするのね! ますます軍への印象が悪くなったわ!」
「動物?」
フィルゼが聞き返すと、ルマは「そうよ」と大きく頷き、黒馬のたてがみを優しく撫で下ろして言う。
「この辺りは三年前まで禁猟区だったのに、新しい皇帝になってからは密猟者がどんどん山に入ってきてて。狼月軍が全然取り締まってくれないから、そのつど村の皆で追い出してるんだけど……最近は本当にキリがないの!」
「……まさかそいつら、狼を狙ってここへ?」
「そうよ! 恥知らずな奴らよね」
憤慨する少女と同様、フィルゼも微かに眉を顰めた。
すると彼の首元から、もぞもぞと毛玉が這い出てくる。フードの陰からは出ないようにしつつ、彼女は小さな声で尋ねてきた。
「フィルゼさま、クルトって何ですか?」
「……狼のことだ。縄張りはマーヴィ城を越えた先の山奥だけどな」
「まぁ……!」
わくわくしている毛玉には悪いが、狼はあまり人前に姿を見せない。
特に狼月の固有種──クルトと呼ばれるものは非常に警戒心が強いと言われており、一度や二度山に入ったところでまず遭遇することはないだろう。
しかし、貴重だからこそ狼月のクルトを所望する者は多い。
非常に珍しいと言われる穢れなき白銀の毛皮は高値で取引されるほか、その肉を喰らえば神の知恵を授かるという言い伝えも相俟って、絶滅が危惧されるほど乱獲されてしまった時期もあったと聞く。
狼を神聖視する帝室はこの事態を重く見て、クルトが棲息する地域を禁猟区に指定し、一切の狩猟を禁じたのだ。
しかし──少女の話を聞くに、その規制も今や無意味なものとなっているようだった。
「ふむ……デルヴィシュ帝は神聖なクルトが狩り尽くされようがお構いなし、ということか。帝室の人間とは思えない振る舞いだな」
シューニヤの言葉はもっともだ。
ルスランの代と同じように取り締まりを続けていれば、密猟者がこの近辺をうろつくことはなかったはず。三年前は政変の混乱に乗じたものだったとしても、それが現在に至るまで続いていることはすなわち、密猟者が完全にデルヴィシュと帝室を舐めていることの証左に他ならない。
「宮殿の工事しかやらないなら、皇帝じゃなくて親方でもやればいいのにね」
「手厳しいお嬢さんだ。……フィルゼ殿も同意見かな?」
「まあ、概ね」
デルヴィシュが皇帝の器でないことは既知の事実。民の暮らしも帝室の矜持も投げ出して、己の懐ばかり温める男に、この広大な地を治めることは不可能だ。
民はそれに気付いている。そして当然──各国の王たちも。
「……このままだと他国に攻め込まれるかもな。狼月の支配下にある部族民が、再び独立を掲げて蜂起しても何ら不思議じゃない」
「えっ……せ、戦争になるの?」
「それぐらい危うい状況ってことだ。今すぐにというわけじゃない」
みるみる青褪めてしまったルマにやんわりとフォローを入れつつ、フィルゼは靄の晴れてきた山々に視線を投じた。
「今の狼月はバラバラだ。貴族も平民も、皆が何かしらの不満を抱えて対立してる。……そういう国を外から突き崩すのは簡単なんだとさ」
クルトの密猟はその始まりと言っても過言ではないだろう。デルヴィシュ帝は、自らが治める地を土足で踏み荒らされても、帝室の象徴たる神聖な狼を狩られても、宮殿に籠りきりで何も言わないのだから──攻め入る隙は十二分にある。
内情をよく知るレオルフ王がその気になれば、あっという間に狼月は陥落させられるだろう。幸いにもそんな状況に陥っていないのは、ひとえにレオルフ王がフィルゼの結論を待ってくれているからだった。
『もしもそなたが何も為さずに私の元へ戻るなら、そのときは遠慮なく狼月を頂こう。──そなたも加勢してくれて構わぬぞ』
至極楽しげに笑う王の姿を思い浮かべ、フィルゼが少々苦い面持ちで溜息をついたときだ。
「……あ……止まって! あいつら、昨日見た密猟者だわ!」
ルマが大声と共に指差した先を見れば、木々に覆われた山の斜面を駆け上がる人影を捉える。向こうも少女の声が聞こえたのか、そそくさと森の中へと飛び込んでゆく。
「昨日の今日ということは、この付近に居座っていたみたいだな」
「もう! 軍がしっかりしないからよ!」
シューニヤとルマの会話を横に聞きながら、フィルゼは密猟者たちが消えた森を一瞥し、ひとまず村へと急ぐのだった。




