6-1
『……青い輪って何?』
バルコニーにだらりと寝そべる銀髪の少年は、一向に進まない読書を投げ出し、そこに立つ麗しい騎士に尋ねた。
億劫な、この行為に何の意味も見出していないと言わんばかりの表情を見て、レベント・コライはくすくすと肩を揺らす。
『一日一冊、だっけ?』
『うん』
『陛下も意地悪な御人だ。君が如何にも苦手そうな詩集を薦めるとは』
仰向けに倒れている少年の隣に腰を下ろすと、彼は笑みを引き摺ったまま詩集の見開きを指でなぞった。
『これは青い輪ではなくて、瑠璃の指輪さ。マーヴィ城と言えば分かるかな?』
『……南の山城?』
『ふふ、正解だ。さすがの記憶力だね』
『何でマーヴィ城って書かないんだ?』
『これは狼月以外にも広く知れ渡った、古い恋の詩なのだよ、フィルゼ。今から僕が訳してみせようじゃないか』
レベントは詩集を己の胸に押し当てると、芝居がかった仕草で片手をゆるりと空へ差し向ける。
『ああ愛しい人よ。僕は繊月の宵に現る誇り高き狼にはなれやしない。その代わり、七彩の花と瑠璃の指輪を貴女に送ろう。永遠に忘れ得ぬ瞬間を、貴女と共に分かち合いたい……とね!』
──さっぱり分からん。
あれこれと詩について熱く語り倒すレベントの隣で、少年は今日の夕食について考えることにした。
◇
「あの山の頂上が瑠璃の指輪だ」
白く濁った景色の中、ぼんやりと浮かび上がる山の尾根。指差す先には何もない。曇天と同化した白い靄が広がるばかりで、件の山城が悪天候により全く視認できないことを悟ったフィルゼは、静かに手を下ろして手綱を握った。
「わあ、待ってくださいフィルゼさま! わたくしまだ瑠璃の指輪がどれか分かりません!」
「見えるようになったらまた言う」
外套のフードを深く被り直すと、首の後ろから毛玉が這い出てくる。何ともくすぐったい感触にフィルゼが眉を寄せていると、正面から霧雨を浴びたであろう毛玉が「つめたっ」と再びフードの奥に引っ込んだ。
ハリットたちが無事に回復したことを見届け、ヤムル城塞都市を発ってから五日ほど。レベントから指定された「瑠璃の指輪」ことマーヴィ城を目指して馬を走らせたフィルゼは、いよいよ目的地へ到達するかといったところで雨に見舞われていた。
それほど雨脚は強くないものの、山道を進むのだから用心するに越したことはない。彼はマーヴィ城へ直行するのは諦め、ひとまず山麓の村へ向かうことにしたのだった。
「フィルゼさま、寒くありませんか?」
「ああ」
「本当に……? わたくし、一人だけぽかぽかしているような気がして申し訳なくて……」
そのためにフードの中に移したのだから、気に病む必要はないのだが。毛玉のくぐもった声に苦笑をこぼしたのも束の間、フィルゼは急に首の後ろをふわふわと撫でられて肩を跳ねさせた。
「!? 待て、あんた何してんだ」
「ヤムルで怪我人の治療に当たっていた方が、首を温めると体全体が温まると仰っていました! あ、ポケットの中で盗み聞きしただけですけど……えっと、こうやって擦るのが良いって」
「っく」
小さな足がうなじをすりすりと擦る。とてもじゃないが皮膚が温まる気配はなく、ただひたすらくすぐったい。一体何の拷問だろうかと、フィルゼはフード越しに毛玉をやんわりと押さえつけた。
「あぅ」
「動かないでくれ、手元が狂う」
「えーん……毛玉は無力です……フィルゼさまにぽかぽかしていただくことも出来ません…………と思いましたがフィルゼさま! わたくしが鳥さんになれば幾分かぽかぽかになりませんか!? ふんん!」
「やめろ、そんなところで絶対になるな」
やたらとぽかぽかにこだわる毛玉の変身を、彼が何とかして食い止めているときだった。
「旅人さん、どうかした? ずっと首押さえて、蛇にでも噛まれた?」
水溜まりを飛び越えメティの横へ駆け寄ってきたのは、羽織りを雨よけ代わりに被った少女だった。その細い腕には、木の実をいっぱいに詰め込んだ籠を抱えている。恐らく付近の──山麓の村に暮らす住人だろう。
「ああ、いや、大丈夫だ。……蛇ではない」
「そっか、なら良いけど……もしかしてグリの村に行く途中?」
「そのつもりだ」
少女はフィルゼの答えを聞くと、にぱっと笑顔を浮かべた。
「あたしも今から帰るところなんだ。案内してあげる! ね、おじさんもいーい?」
そう言って少女が振り返った先、茂みの奥から「おじさん」と呼ばれた男性が現れたのだが、フィルゼは思わず目を丸くする。
その男性は目許を包帯で覆っており、歩行を補助するためか杖を突いていた。服装はどことなくレオルフ王国の巡礼僧を彷彿とさせるもので、狼月の景色から少しばかり浮いて見える。
異質な存在を前にフィルゼがつい閉口してしまえば、男性はそれを分かっている様子で笑みを浮かべた。
「私は構わんよ。お嬢さんを守る人数が増えるのは良いことだ」
「だから大丈夫だって。あたし毎日この山に入ってるもの。守られてるのはおじさんの方よ! そんな怪我してるのに登山なんて、命知らず!」
「はは、そうかもな。というわけで旅人殿、村までの道中よろしく頼むよ」
「……ああ」
目の不自由な男と警戒心に欠けた少女を放置する謂れはなく、フィルゼは同行を承諾した。
その際、何気なく目を遣った巡礼僧は、こちらの視線を感じ取ったようにやわらかく微笑んだのだった。




