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追放剣士とピンクの毛玉  作者: みなべゆうり
5.雨後の便り
30/92

5-4

「──……ふふ。うふふ」


 鼻の頭をふにふにと撫でられる。

 仄かに鼻腔をくすぐる甘い匂い。それは萌芽の瞬間を思わせるような、爽やかな瑞々しさをも内包していた。


「初めてフィルゼさまより早起きしました……えへへ、嬉しい」


 えへえへと囁く声は、目と鼻の先から発せられているようだった。

 この優しい匂いの持ち主が、とんでもない至近距離に座っていることと、あの短い足でフィルゼの鼻を撫でていることは確実である。

 これは決して彼を足蹴にしているわけではなく、本人としては「撫でている」のだ。何せ手が無いから。多分。


「ふふ………………えーん……寂しい……早く起きないかなぁ……」


 早起きの喜びは大して長続きしなかったようだ。寂しがり屋な声の主がしくしくと顔面に擦り寄ってきたところで、フィルゼは瞼を持ち上げる。


「ちか……」

「あ! おはようございますフィルゼさま!」

「おはよう」


 思った以上に視界を占領していたピンク色をやんわりと引き剥がせば、毛玉がひょこひょこと足を動かして喜んだ。

 まだ意識が覚醒しきっていないフィルゼは、毛玉の足が上下する様を寝ぼけ眼に追いかけつつ、固まった体をほぐす要領で仰向けになった。

 質素な生成色の天井と、それを補うように取り付けられた幾何学模様の刺繍が色鮮やかなカーテン。その下からは明るい日差しが射し込んでおり、寝台の外へ投げ出した彼の足先を白く照らしている。


「……ああそうか、ベッドには移動したのか」


 夜半、寝返りを打つうちに顔面に陣取ってしまった毛玉に窒息させられそうになったことで目を覚まし、半分寝ながらベッドまで移動したことを思い出す。

 今後、横になるときは毛玉を顔の近くに置くのは避けた方が良いかもしれない。フィルゼはそれなりに重大な気付きを得て、ゆっくりと体を起こした。

 すると彼の緩慢な動きを見た毛玉が、ころりと横に傾いて問う。


「フィルゼさま、お疲れですか……?」

「ん? ……いや、昨日、酒を飲んだからだろうな。寝過ぎただけだ」


 安心させるように手のひらで軽く撫でてやれば、ぺたりと座った毛玉が嬉しそうに足を交互に跳ねさせる。

 機嫌も体調も良さそうな毛玉を肩に乗せ、フィルゼは欠伸を噛み殺しつつベッドを降りた。


「とりあえず水飲むか」

「はいっフィルゼさまもご飯食べましょうっ! それからメティを迎えに行かなきゃ! わたくし昨日の夜から会えてません……一人で寂しがってるかも……」

「メティならマフムトが連れて来てくれたはずだ。後で厩舎に行こう」

「本当ですか!? わーい!」


 と、毛玉が大喜びで跳ねたのも束の間、扉がコンコンと叩かれる。

 何かと思って開けてみれば、そこに見覚えのある顔が二つ、緊張した様子で並んでいた。



 ◇



 ヤムル城塞都市の第二広場、通称「水の庭」。

 近辺に河川がないヤムルでは、遠方にある豊富な水源から長い長い上水道によって水を引いている。

 第二広場にはその上水道から供給された水の一部が使われ、武骨な石造りの庭でしかなかった広場を、優美な水の庭園へと生まれ変わらせた。

 市民の水汲み場、もとい憩い場としても機能しており、そこには朝早くから昨日の騒動で疲弊した人々がちらほらと集まっていた。


「メティ、お水美味しいですかっ? うふふ」


 広場の隅、水を貯めた桶に顔を突っ込むメティの傍ら、宿屋から拝借した浅い陶器皿の中にぷかぷかと浮かぶ毛玉。

 彼らの階段に腰を下ろしたフィルゼも、黒パンに肉と甘辛いソースを挟んだものにかぶりつく。

 不思議な光景を前に視線をあちこちへ散らすのは、先程フィルゼを訪ねてきた二人の兄妹──ハリットとメリエムだ。血縁なのだから当然と言えば当然だが、よく似た顔立ちをしている。

 彼らは頭や腕に包帯を巻き、ところどころに痛々しい火傷の痕を残してはいるものの、人々の治療の甲斐あって重篤な状態には陥らなかったらしい。

 残念ながら仲間の中には、快癒に少々時間を要する者もいるとのこと。さりとて、治療の途中で命を落とした者はいなかった、とも。


「……悪いな。食いながらで」

「い、いいえ! 我々こそ朝早くに訪ねてしまって、すみません」

「動けない者の代わりに、お礼を申し上げないとと思って……気が急いてしまいました」


 慌てたようにかぶりを振った兄のハリットはともかく、決まり悪く俯いた妹のメリエムに関しては、兵士に向かって啖呵を切っていたときとはえらく印象が違う。

 彼女の短い茶髪をちらりと一瞥したフィルゼは、たっぷりと水を飲んで満足した様子のメティを撫でつつ口を開いた。


「礼はいい。……それより、あんたたちの状況を聞かせてほしい。まず、そうだな……」


 フィルゼは陶器皿から出られずにぱしゃぱしゃと暴れていた毛玉を拾い、日当たりの良い場所に座らせる。その場で彼女がコロコロ転がったり足を振ったりと水気を切る傍ら、言いたいことをまとめたフィルゼは顎を持ち上げ。


「あんたたちは〈大鷲〉の爺さんが幽閉された後、狼月軍から急襲を受けた。その際、いくつかの班に別れて逃走し、それぞれがレオルフ王国を目指す手筈だった……って理解で合ってるか?」

「……はい」

「そしてあんたたちの最大の目標は、セダ殿とある女人を狼月の外へ逃がすことだが──どちらともの行方が分からず、思うように身動きが取れない状態にある」


 彼の淡々とした言葉を聞くや否や、ハリットとメリエムが一様に顔を強張らせた。

 大方、ピンク髪の女の居場所が割れたのではないかと危惧しているのだろう。彼らの不安を取り除くべく、フィルゼは片手を軽く挙げた。


「女人についてはイーキンという男から聞いただけだ。あんたたちの仲間だろう?」

「あっ、イーキン……! 彼と会えたのですね、良かった……」


 ハリットは胸を撫で下ろすと、緊張を引きずったまま小さく息をつく。


「彼はつい二か月前にトク家に雇われたんです。それなのに早々にこんなことになってしまい……もしや命を落としたのではないかと、気が気でなかったんです」

「……そうだったのか」


 イーキンが新人だったことに少しの意外さを覚え、フィルゼは彼との会話をふと思い返してみる。

 あの熱意溢れる青年は、ティムールのことを「爺さん」と呼んだフィルゼに怒ったり、ピンク髪の女について言及した途端にナイフを向けてきたりと、事情を知って間もない新人には見えなかったが──。


(……考えすぎか?)


 フィルゼはいそいそと隣に座った毛玉を何となしに掴み、そのまま彼女を上着の内ポケットに収納した。

 無言で行われた一連の仕草を、ハリットとメリエムが不可解げな顔で見ていることに気付いては、小さく咳ばらいを挟んで。


「それで、セダ殿が少しでも自由に動けるよう、あんたたちは替え玉を用意して各地を逃げ回っていたんだな?」

「は、はい。ご婦人のお顔は存じ上げなくても、御髪の色はとても印象的ですので……そこだけ似せてしまえば、狼月軍を攪乱できると思いました。しかし……」


 ピンク色に染めたウィッグを装着し、実際に替え玉として行動していたメリエムが、どこか歯切れ悪く答えた。


「替え玉は他に複数人いて、皆、私と同じトク家のメイドたちでした。……今回、〈豺狼〉の策によってヤムルに誘い込まれたことで、全員が殺されてしまったと、思います」


 兄妹の眼差しに滲むのは、後悔と謝罪の色。恐らくこの二人は、急襲で散り散りになったトク家の使用人たちを率いる立場にあったのだろう。

 セダの行方が分からなくなった後、何とか仲間を生き延びさせんと策を練ったのだろうが──〈豺狼〉は狼月軍の執拗な追跡によって彼らを心身ともに疲弊させ、冷静な判断力をも奪った。その上で「ヤムル城塞都市にセダ・トクがいた」などという怪しい噂を流し、まんまと彼らを罠に嵌めたということだ。

 獲物の思考を縛り、思い通りに誘導し、狩る。なるほど、確かに〈豺狼〉と呼ばれるだけのことはあるなと、フィルゼは忌々しい気分で溜息をついた。


「……必要以上に自分を責めるなよ。自棄になれば、それこそ〈豺狼〉の思うツボだ。今は生き残った仲間のことを考えてくれ」

「…………はい」


 〈豺狼〉および狼月軍の任務は、あくまでピンク髪の女──すなわち毛玉を手中に収めることだ。

 トク家の使用人たちを残忍な方法で殺して回ったのも、生き残った者たちの口を割らせるために行ったパフォーマンスだった可能性は否めない。ただでさえ実戦経験に乏しいハリットたちを、これ以上セダの捜索に当たらせるのは危険だろう。

 再び捕まれば最後、セダと毛玉の居場所を炙り出すための材料として、干からびるまで利用されるのは目に見えていた。


「ハリット、メリエム。あんたたちは……仲間の回復を待って、レオルフに逃げた方が良い。俺が入国したルートなら狼月軍にも見つかりづらい」

「! し、しかし」

「〈大鷲〉の爺さんも、セダ殿も。自分のためにあんたたちが犠牲になることを望んでいないはずだ」


 フィルゼが知る限り、あの夫婦はそういう人たちだ。せっかく助かった命を、勝算も無しに散らすような真似は決して許さないだろう。

 思い当たる節があるのか、兄妹はひどく気まずそうな顔で沈黙した。


「それでも逃げたくないと言うなら、機を待て。あんたたちが動くのは、セダ殿の安否が分かってからでも遅くない」


 助けたい相手がいるのに何も出来ないもどかしさは、フィルゼ自身がよく知っている。だがハリットたちにはまだ希望が残されているのだから、ここは慎重に動いてもらわねばならなかった。

 セダが生きている可能性に賭け、彼女を守るための用意を水面下で整える。それがトク家の使用人たちに出来る最大限の備えだと説けば、兄妹は先程よりも幾分か生気を取り戻した表情で頷いた。


「……分かりました。仲間が目を覚ましたら、皆を連れてしばらく身を潜めようと思います」

「ああ。どこか良さそうな場所はあるのか?」

「はい。まだ軍に見つかっていない拠点がいくつかありますので、そこに。──そうだ」


 不意にハリットは思い出したように懐を探ると、フィルゼに白い封筒を手渡した。


「少し前にマフムトという商人を通じて、これが送られてきたのです。ですが我々には解読が叶わず……もしかすると四騎士様がたが使っていた暗号文ではないかと……」

「何だと?」


 思わぬ展開にフィルゼは目を丸くして、封筒の中身を取り出した。



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