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追放剣士とピンクの毛玉  作者: みなべゆうり
5.雨後の便り
29/92

5-3

 背後から、抑揚をつけた低い声が降る。

 弾かれたように振り返れば、そこに見慣れた壮年の紳士が立っていた。右肩に垂らした黒茶の髪、常に微笑を湛えた口元。西方のタシュ王国で流行し出したという黒いベストとパンツスタイルに、狼月の伝統衣装であるカフタンをコートかマントのように肩に掛けた彼は、事務官から見ると奇抜としか言えないファッションセンスなのだが、なかなかどうして様になっていた。

 しかしやはり、この宮殿然り、狼月の伝統を軽視するような行動は少々……いやいや、今は不満を垂れ流している場合ではないと、事務官は速やかに頭を下げる。


「〈豺狼〉様。此度の失態、申し開きのしようもございません」

「構わないよ。何だったか、若い狼が乱入したんだろう? たった一人でヤムルにいた兵士を全滅させたそうじゃないか」


 〈豺狼〉──オルンジェック公爵ケレム・バヤットは、ひらりと右手を払った。それぞれの指に嵌った趣の異なる指輪が、彼の動きに乗じて煌めく。

 黄金に比べれば控えめな輝きなれど、各国から取り寄せたであろう高価な装飾品の総額は一体どれほどなのか。事務官は考えるのをやめた。


「はい。ルスラン帝の四騎士を務めていらっしゃった、フィルゼ・ベルカント殿でございます」

「ああ、そう、それ。親父が可愛がっていた孤児だ」


 親父。三年前に病で儚くなった先代公爵を思い浮かべた事務官は、次いで彼とケレムの殺伐とした関係を思い出し、ピシリと硬直してしまう。

 何と言葉を返せばよいのやら、スルーして良いものかと迷っていると、その葛藤を見たケレムが噴き出すように笑った。


「おいおい、俺をいくつだと思ってるんだ? 死んだ親父に可愛がられてたからって、顔も知らない子供に嫉妬したりしないさ」

「さ、さようですか。ちなみにベルカント殿は既に成人していると思われます」

「おっと、そうなのか。それは失礼したな」


 ケレムは曖昧な笑みを浮かべたまま顎を摩ると、おもむろに中庭を振り返る。日が落ちて暫く経つが、外では未だに小雨が降り続いていた。

 何を見ているのかと不思議に思っていれば、やがてケレムが静かに口を開く。


「……エルハン」

「はい」


 名前を呼ばれるとは思わず、事務官のエルハンは少し驚きながらも返事をした。


「その狼と面識はあるか?」

「……いえ、自分は三年前に登用された身ですので。直接お目にかかったことはありません」

「ふむ。残念だな。親父を抜きにしても、賢帝やレオルフ王までもが注目していた剣士だろう? どういう人間か気になってね」


 エルハンは逡巡の末、記憶にあるフィルゼ・ベルカントに関する功績を並べようとしたが、それは他らなぬケレムに制された。


「彼が賢帝の命を幾度となく救ったことは知ってる。人質にされた母后を単身で奪い返したっていうバカみたいな実話もな。俺が知りたいのは、んん……そうだな、境遇や人柄とでも言おうか」


 エルハンは暫し沈黙した。

 この〈豺狼〉と呼ばれる男は、時折こうして誰かの情報を聞きたがる。とりわけ、毒にも薬にもならなさそうな情報を。

 つい最近で言えば、〈大鷲〉のティムール・トクに関しても詳しく尋ねてきたことがある。その数日後、現役を退いたと言えども並の騎士では太刀打ちできぬ豪傑が、あっという間に牢屋に押し込まれたと知ったときは驚いたものだ。

 恐らく、いや十中八九、この謎めいた男がティムールの抵抗を抑え込んだのだろうが、一体何をしたのやら。エルハンは不気味さを感じつつも、上官から聞かれたのなら答えなければならないと口を開く。


「ベルカント殿は孤児でした。奴隷商によって狼月軍の下働きとして連れて来られた当初は、非常に警戒心が強い子供だったそうです。……もしかすると、他国の生まれである可能性もあるかもしれません」

「ほう、なかなか過酷な道を歩んできたんだな」

「ええ。しかし……好きものの貴族や娼館ではなく、あえて正規ルートで軍に売りつけた奴隷商の目は確かだったのでしょうな」


 当時、狼月の後宮(ハレム)に側妃は一人もおらず、身寄りのない子供を労働力として引き取り、とりわけ優秀な子供を皇帝の臣下として教育する取り組みが行われていた。

 ルスラン帝の二代前から始まったその取り組みは、人身売買の取り締まりに伴って、結果的に行き場を失った孤児や奴隷が浮浪者となってしまう事態を受けての施策だった。

 教育を受けた彼らが皇帝の側近として取り立てられた事例もあり、家柄に囚われず優秀な人材を獲得できるという点でも評価されたという。一方で、素性の定かではない子供を取り込む以上、他国から間者を送り込まれる懸念は拭えなかった。

 エルハンが聞いた話では、少年と共に下働きとして雇われた者たちの中に、他国の刺客が混ざり込んでいたのだという。刺客は数人の仲間と連携し、皇帝ルスランの首を取るべく内廷に忍び込もうとしたのだが……。


「ちょうど水汲みを頼まれていたベルカント殿が、怪しげな動きをしている刺客に気付き、たった一人で取り押さえたそうです」


 刺客はすぐさま悲鳴を上げ、少年の蛮行を大声で非難した。騒ぎを聞きつけて兵士たちが集まり、取り押さえた理由を少年に問えば、「いつもと違う動きをしていたから」と一言。

 続けて、刺客が向かおうとしていた先が内廷であることが判明したなら、すぐさま兵士は少年ではなく刺客の方を拘束した。

 当時の騒動を知る者は皆、「あの日が『小さき狼』の始まりだった」と口を揃える。


「ふうん……」


 ケレムが興味深そうな相槌を寄越した。


「それをきっかけに賢帝の目に留まり、あれよあれよという間に四騎士になった、と」

「そうですね。小姓として内廷で教育を受け、歴代最年少で叙勲を賜った後は、〈豺狼〉様もご存じの通りかと」

「ちなみに、刺客を取り押さえたのは何歳だったんだ?」

「……。ええと、お幾つでしょう。かなり幼かったと思いますが」

「だよな」


 淡々と答えていたエルハンは、はたと目を見開く。

 気付かないうちに、ケレムの口角が先程より上がっていた。石畳に跳ね返る雨粒を見詰める眼差しは、どこか仄暗く愉快げで。ヤムル城塞都市で狩りを行っているときだって、こんな顔はしていなかったというのに。

 エルハンが人知れず背筋を冷やしていると、彼の横を緩慢な動きでケレムが通り過ぎた。


「良い話を聞かせてもらった。エルハン、豚の飼育係を辞めるなら俺の元に来ればいい。歓迎しよう」

「え。は、はあ……光栄でございます……」


 飼育係──酷い言い様だが、否定できない自分が情けない。ケレムの背中を見送ったエルハンは、もう一度深い溜息をついたのだった。



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