5-1
ヤムル城塞都市で行われた〈豺狼〉による非道な狩りは、犠牲者こそ出たものの、当初の想定よりも遥かに少ない被害で終息した。
外出禁止令によって暮らしの全てを停止させられ、半ば強制的に若者たちを見殺しにしなければならなかったヤムルの住人は、その償いも込めて死者を丁重に弔う。
併せて、証拠もなしに反乱軍という汚名を着せられた者たちに対する同情は、この一件で更に高まったと言えよう。
「おい、こっち手伝ってくれ!」
「包帯が足りないわ!」
「薬なら商人さんが譲ってくれるから……」
しとしとと降り続く雨にも構わず、広場では大勢の人間が忙しなく動き回っている。
簡易テントの下には怪我人が寝かされ、その周囲を町医者やら大工やらが固めており、治療に必要なものをあれやこれやと相談する姿が見えた。
軒下には何も分かっていないであろう幼子たちが不思議そうに突っ立っているが、大人の深刻な顔と話し声を見てか、悪戯にはしゃぐ様子はなく。
「──皆、おかしな空気だとは思っとるんですよ。表立って言えねぇだけで」
宿の二階にて、敷き詰められた色とりどりの手織絨毯に胡座をかき、欄干から広場の様子を見守っていたフィルゼは、「よっこらせ」という声に振り返る。
ローテーブルに酒と食事を並べたのは、宿場町で弓を売ってくれた猫背の商人──マフムトだった。
「ルスラン帝の急な崩御に、デルヴィシュ帝の終わらない宮殿大改造、狼月軍は頼りにならないどころか信用すら出来ねぇ……そこへ降って湧いた『反乱軍』でさぁ」
付いて行けませんわ、とマフムトは肩を竦める。
「何が起きてるのか、誰か詳しく説明してくれいって思っても、貴族で唯一信用できそうな〈大鷲〉様は幽閉されちまってるし。他の御三方もいつの間にか四騎士を辞めさせられててねぇ」
ちらりと投げかけられた視線には少しばかり詰るような色が含まれていて、フィルゼは苦々しく笑うことしか出来なかった。
「……悪かったよ」
「いやいやぁ、ヤムルをあっという間に解放してくださったんだ。皆、貴方様のご帰還に安堵することでしょうよ」
その言葉に明確な返事をせずにいれば、マフムトが盃に水を注ぐ。透明の酒がみるみる白く染まってゆくのを見て、フィルゼは小さく呟いた。
「ラクか?」
「へえ。先代の四騎士様がたが、戦勝の際に嗜まれていたと記憶しとります」
「俺はこっちだったけどな」
隣に置かれた冷水のグラスを揺らして見せれば、マフムトは少し考え込むような間を置いてから、あっと目を丸くして笑う。
「やや! 意外と律儀な御方ですな、見栄を張った子供がラクを飲んでぶっ倒れるのは、狼月に生まれた男児の通過儀礼でしょうに」
「俺の素行を見守る大人が何人いたと思ってるんだ?」
「ああ……少なくとも五人以上はいらっしゃいましたなぁ……」
くつくつと丸い背中を揺らしたマフムトは、酒と食事の用意を終えるや否や、おもむろに立ち上がった。
彼は臣下の礼を取ると、頭を下げたままゆったりとした口調で告げる。
「後始末は住人の皆にお任せを。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくだされ」
そうしてゆっくりと閉ざされた扉を見詰めること暫し。
せっかく用意してくれたのだからと、ラクに口を付けたフィルゼが大きく頭を傾けたとき、上着の内側がもぞもぞと動き出した。
「ふんっ、あれ? 届かない……ふん!」
水を飲みつつ合わせを開いてみれば、内ポケットに埋まった毛玉が両足を振っていた。視界が開けるや否や、毛玉はパッと花びらのような綿を散らして外へ飛び出てくる。
「フィルゼさまっ、皆さんのお手伝いはしなくてよろしいのですか?」
「あー……俺が行くと、無駄に気を遣わせるからな。大して役にも立たないから引っ込んでた方がマシだ」
フィルゼは欄干の上に毛玉を移動させてやりつつ、一緒に騒々しい広場を見下ろす。
四騎士時代、とりわけ戦場でよく見た光景だが、当時もやはりフィルゼやティムールが医療テントを仕切ることは少なかった。
地位はあれども専門的な知識を持たない者が現場を取り仕切ると、かえって混乱を引き起こしてしまうこともあるからだ。ゆえに少々居心地の悪さはあれど、日頃から連携の取れている者たちに処置を任せて、フィルゼたちは近くで待機することが殆どだった。
それに今現在、ヤムル城塞都市の領主は沈黙を維持したまま。彼は荒れた町を修復するという名目で、市民の行動を黙認しているのだろうが──これ以上フィルゼがヤムルに干渉すれば、狼月の貴族である領主もその立場上、動かざるを得なくなる。
要らぬ衝突を起こさぬためにも、ここで大人しくしているのが賢明だろうと、フィルゼは溜息まじりに体を倒した。
「結構強いな、あの酒……」
四騎士時代、周りの大人全員から「ラクはまだ早い」と固く禁じられていた所以を知れたところで、広場を見下ろしていた毛玉がぴょんと飛び跳ね、ふわりと彼の胸に着地する。
そのまま絨毯にふわふわと転がり落ちた毛玉を目で追い、フィルゼは静かに口を開いた。
「……毛玉」
「はい!」
部屋の隅に設置されたソファにぶつかった毛玉は、逆さまの状態で元気よく返事をする。フィルゼは彼女の足が下へ来るように転がしつつ、手近なクッションの山に凭れさせた。
「あんた、眠くないのか」
「え?」
「いつもならもう気絶……寝てる時間だろ」
未だに雨天が続いているおかげで分かりづらいが、既に日は落ちている頃合だろう。暗い空を指して問えば、毛玉は不思議そうに雨雲を見て、体を左右に振った。
「言われてみれば、眠くありませんね……! 何だかちょっと体がピリピリしてるから、そのせいかもしれません」
「ピリピリ?」
フィルゼはやおら頭を起こし、のんびりと揺れている毛玉を凝視する。
「……痛むんじゃなくて?」
「はい」
言葉にすることで違和感が増したのか、毛玉がおもむろに短い足をばたつかせる。その場で後転したり屈伸したりと忙しない毛玉を、フィルゼはひとまず掴んで引き寄せた。
「んんん、何故でしょうっ? お昼寝したからでしょうか?」
「さあ……とりあえず落ち着かないのは分かった」
彼は仰向けに倒れたまま、少し考えてから首元に毛玉を置く。そうして頭上のソファから膝掛けを引っ張り落としては、適当に体を覆った。
その際、布の端を毛玉の下半分が隠れる程度に引き上げて。
「わあっ、うふ、ふふ、温かいです! フィルゼさま、もうお休みになるのですかっ?」
「休憩だ。あんたも寝とけ」
「はい! えへへ、お隣で寝るのは初めてです、ふふ……」
毛玉は暫く楽しそうにふすふす笑っていた。たまに落ち着きなく足を動かしてはいたものの、フィルゼの呼吸を近くに感じたせいか、次第に笑い声が小さくなる。
やがて、雨の音に混ざって彼女の寝息が聞こえて来たなら、しゅるりと小さな足が消えて。
フィルゼは眠りに落ちた毛玉を片目で見遣ると、静かに溜息をついた。
『──……フィルゼ、さま』
そうして再び閉ざした瞼の裏、思い起こされるのは当然、地下通路で見た彼女のこと。
周囲を窺わんと見開かれた瞳。
寒さとは異なる要因で青褪めた唇。
震えるばかりで一向に握り返してこなかった、細く頼りない指。
あのとき、彼女にはきっと過去が見えていた。
彼女が忘れてしまった、何かとても──恐ろしい記憶が。
それがたとえ幻であろうとも、抗えぬほどの強いトラウマ。
声も上げず、ただ身を縮めて怯える姿は、見ていられないぐらい痛々しかった。
「……」
フィルゼは顔の横ですやすやと眠るピンク色を見遣り、その丸い表面を指先でくすぐる。
「……あんたが人間に戻るときは……嫌な記憶も全部、思い出すことになりそうだな」
それが彼女にとって良いことなのか悪いことなのか、フィルゼには分からない。
少なくとも今はまだ、彼女は記憶の無い毛玉でいた方が安全だろう。
──今は、まだ。




