4-8
市庁舎の裏手に回ったとき、少し、胸騒ぎがした。
柵に囲まれた階段の下、そこで半壊した鉄扉を見てしまえば、不確かな胸騒ぎは警戒へと形を変えて。
段差を全て飛ばして降り立ったフィルゼは、尋常でない力で叩きつけられ大きく歪んだ鉄扉に触れる。全盛期のティムールや〈鷺鷥〉であってもこれほどの馬鹿力は出ないだろう。彼は剣呑な眼差しで周囲を見渡した。
「〈豺狼〉がここまで凶暴とは聞かなかったが……」
ぽつりと呟き、扉の上部に穿たれた穴を覗き込む。それはもはや小窓のような大きさで、フィルゼが少し身を縮めれば通り抜けられそうな具合だった。
怪訝な表情で奥の暗闇に視線を遣ると、階段の一番手前、馴染みのあるピンク色がちらりと見える。
「! 毛玉っ?」
呼びかけるも、応じる気配はない。
フィルゼは扉の持ち手に片足を掛けると、勢いをつけて穴をくぐり抜けた。
そうして扉の内側に着地しては、すぐさま毛玉を拾おうと手を伸ばし──硬直。
「……」
階段に蹲っていたのは、ひとりの人間だった。
白いベールに、優美な金糸の刺繍が施された衣装、足首まで届きそうな長いピンク色の髪。薄い瞼を固く閉ざして縮こまる彼女を、フィルゼは暫し呆然と見詰めてしまった。
しかし、その顔が病人のように青褪めていることに気付いては我に返り、華奢な肩を控えめに揺する。
「……毛玉」
人間に対して毛玉と呼びかけることに抵抗は覚えるものの、フィルゼには彼女の名前など分からない。広場にいる者たちに尋ねたところで、彼らもイーキンと同様、彼女の詳しい素性については知らされていないことだろう。
フィルゼは逡巡の末、諦めて「毛玉」と再度呼びかけ、冷たい壁に凭れていた彼女の背中を抱き起こした。自身も階段に腰を下ろしつつ、脱いだ上着で冷え切った体を覆う。
暫しの間そうして体温を分け与えていると、彼女の傍にいたネズミたちが少しずつ姿を消してゆく。いつの間にか扉の穴を覗き込んでいた鳥も、示し合わせたかのように空へと帰った。
彼らの動きに気を取られたのも束の間、腕の中でふと、彼女が身じろぐ。
「けだ、ま」
しかし鼻先を戻した直後、丸みを帯びた白い頬に一筋の涙が伝った。やわらかな眉が不安げに寄り、青褪めた唇が噛み締められる。身を固くする彼女は、息遣いすらも押し殺して泣いていた。
──誰にも見つかってはならないとばかりに。
ただならぬ恐怖をそこに見たフィルゼは、逡巡を挟む余裕もなく、彼女の頭を掻き抱いた。
「毛玉、聞こえるか。……どうしたんだ。何が怖い?」
彼女は役割を果たした後、ここから地下通路の外へ出ようとしたのだろう。そこで──運悪く、鉄扉を半壊させた何者かと遭遇した可能性が高い。幸い怪我はしていないようだが、この姿と怯えようは一体どうしたことか。
フィルゼは困惑と焦りのようなものを覚えながらも、彼女の強張った手を上から握り締めた。
「……敵はいなくなった。あんたが逃がした奴らも無事だ。だから……こんな暗いとこ、さっさと出よう」
静かに語りかけても、彼女は何も答えない。否、その耳は何も捉えていないようだった。フィルゼが傍にいることも分からず、暗闇の中でただ一人、途方もない恐怖に身を震わせている。
そのことに気付いたフィルゼは、彼女の背中を抱く腕はそのままに、左手のグローブを外した。もどかしげにそれを投げ捨て、少しの躊躇を経て白い頬に触れる。
やわらかな皮膚を指先で撫で、手のひらを押し当てる。じわりと体温が共有される中、またひとつ涙が転がり落ちれば、ようやく彼女の瞼が開いた。
現れたのは、冬の晴れた空を彷彿とさせる、淡いブルーの瞳。そこに髪と同じピンク色が混ざり込んだ不思議な色彩は、溜まった涙によって輪郭をおぼろげなものにしていた。
「…………フィルゼ、さま」
ふっくらとした唇から紡がれる、聞き慣れた声。
なれど彼が知っているのは、もっと──。
「!」
ふ、と彼女の瞳が虚ろになり、再び瞼が閉ざされる。乗じて体ごと傾いたのなら、フィルゼが咄嗟にこれを抱き止めた。
しかし彼女の額が肩にぶつかると同時に、回した腕が空を切る。感じていた重みごと彼女の姿が消えてしまい、フィルゼは少しの間固まった。
やがて、膝元に落ちた上着をそうっと持ち上げてみれば、案の定、ピンク色の毛玉がそこに包まれていて。
「……毛玉」
「うんん……」
くたりと投げ出されていた小さな足が、呼びかけに応じて持ち上がる。毛玉はどこか眠そうな声を出しつつ、体を左右に揺らして周囲を確認した後、不思議そうにフィルゼを見上げた。
「……フィルゼさま……? わたくし、お外に出ようとしたのに……あのぅ、迎えに来てくださったのですか?」
「……ああ。何も覚えてないのか?」
手のひらで掬い上げてやれば、どこかホッとした様子で毛玉が親指に擦り寄る。悪夢の余韻から逃れるように、ゆっくりと息を吐いて。
「えっと……ネズミさんたちが、広場を遠くから見下ろせる場所があるよって教えてくれて……わたくし、フィルゼさまが心配だったから、そこに行こうとしたんです。それで」
それで……と小さく繰り返した毛玉は、しかし何も思い出せなかったのか、不可解そうに体を傾ける。
「え……まさか、こ、ここでお昼寝をしていたのでしょうか……っ? フィルゼさまが皆様のために戦っているというのに、わたくしと来たら……えーん……」
毛玉が涙声で己の不甲斐なさを嘆く傍ら、フィルゼは開きかけた口を静かに閉ざした。
代わりに毛玉の足を指先でトンと叩き、こちらを見上げるのに併せて頭を撫でてやる。
「走り回って疲れたんだろ。……あんたはちゃんと役目を果たしたんだから、気にしなくていい」
「でも……」
「あとで助けた奴らに会わせてやる。それと……」
上着ごと毛玉を抱えたフィルゼは、赤い内ポケットにその体を半分ほど埋めてやりながら告げた。
「……泣くときは大声で泣いてくれ。その方が、助けに行きやすい」
間違ってもこのような場所で独り、誰の助けも期待せずに縮こまることはしないでほしい。当人に声を届けるつもりがなかったら、フィルゼは動くことが出来ないのだから。
──彼の主人が毒に苦しむ間、誰にも助けを求めなかったように。
フィルゼが上着に顔を埋め、深い溜息をそこにぶつければ、毛玉が少し困惑した様子ながらも頷く。
「きゃあ、えっと、えっと、いつも通りということでしょうか?」
「そうだな」
「分かりました! フィルゼさまに助けてほしいときは大声でお呼びします! えへへ」
ふわふわと頬に擦り寄ってきた毛玉を見遣り、フィルゼはその丸い体を再びポケットの奥に押し戻したのだった。




