4-6
──毛玉はかつてないほどの充足感に満ちていた。
危険を感じるといつもフィルゼの手のひらか内ポケットに逃げ込み震えていたが、今日の自分はひと味違うぞ、と。
フィルゼのように戦うことは出来ずとも、自分にだって人を助けることは可能なのだ。いや勿論、ここに至るまで多くの動物たちに助けてもらったが、毛玉が勇気を出さなければ彼らとて力は貸してくれなかったことだろう。
「えへへ……あわわわ」
やれば出来るではないかと自画自賛したのも束の間、やはり短い足では階段ひとつ乗り越えられず、ふわふわと下へ落ちていく。
すぐに後ろから押し返してくれたネズミに礼を述べつつ、今度こそ落ちないよう慎重に飛び跳ねた。
「ふう、他に地下通路へ逃げ込んだ方はいないみたいですね。案内ありがとうございます、ネズミさん!」
気にするな、といった具合にチューチュー鳴いたネズミたちは、そのまま地下通路の出口に向かって進み出す。
彼ら曰く、この鉄扉から外に出れば、ちょうど広場を見下ろせる建物──市庁舎の裏手に繋がるらしい。フィルゼの安否が気になるところだったので、毛玉は一も二もなく案内を頼んだのだった。
「フィルゼさまはご無事でしょうか……ううん、大丈夫に決まってます! ネズミさん、あと少しだけお付き合いいただけますかっ? 広場の様子を見たらすぐにここへ引き返しましょう!」
ネズミたちが各々返事を寄越したところで、毛玉は鉄扉の隅っこへ近付いた。
施錠された扉の横には、毛玉やネズミがちょうど通り抜けられそうな小さな穴が開いている。そうっと穴を覗き込んだ毛玉は、よしと気合を入れて腹這いになったが──。
「わあっ!」
突然、外から勢いよくネズミが戻ってきた。
ぽすんと後ろへ倒れた毛玉は、穴から次々と雪崩込むネズミを呆然と見詰めてしまう。
「ど、どうされましたか? 外で何か……」
そうして毛玉が戸惑いをあらわに問いかけた、直後。
──ドンッ、と重たい振動が地を揺らした。
ネズミの群れが波打ち、階段をぽろぽろと転がり落ちる。彼らよりも更に体重が軽い毛玉は、飛び上がる勢いのまま石壁にふわりと当たった。
「な、なに? えーん……」
空中をゆったりと落下しながら縮こまり、毛玉はおろおろと視線をさまよわせる。
何か大きな物が鉄扉にぶつかったような音だった。低い反響音が余韻を長引かせる中、ようやく着地した毛玉は恐る恐る扉を仰ぎ見る。
「……斧……?」
扉の上部、先程まで平らだったはずのそこには、血に染まった戦斧が突き刺さっていた。
鉄を貫通し、こちら側に露出した刃の鋭さを認め、毛玉は声もなく後退る。そのまま階段を一段転がり落ちれば、戦斧が乱暴に引き抜かれた。
僅かに開いた細い隙間から、広場の赤い光が射し込む。それを巨大な暗影がぬらりと遮れば、再び視界が闇に包まれた。
「……!」
戦斧に穿たれた穴を静かに覗き込んだのは、暗く陰った瞳だった。
暗闇に慣らすためか、ぐるりと黒目が回る。一度、二度と繰り返すたびに動きが遅くなり、最後にゆっくりと瞬いて。
瞼が閉じる瞬間、はっと我に返った毛玉は慌てて体を縮め、階段の陰に隠れた。
──見つかってはいけない。
誰かにそう言われた気がして、必死に息を潜める。
以前、記憶を掘り起こそうとしたときと同じ痛みに苛まれながら、毛玉は重苦しい沈黙に耐えなければならなかった。
長い間そうして縮こまっていると、扉が再び大きく音を立てる。二度、三度と叩きつける音が大きくなり、外にいる何かが扉を打ち破ろうとしていることを悟った。
いよいよ恐怖も頂点に達しようかという頃、毛玉が震える体に鞭打ち、慎重に階段を降り始めたときだ。
「……えー……あー……何を、してるんでしょうかね。さっきから扉殴りつけて……」
低めの声が聞こえた瞬間、ピタリと音が止む。
ふと赤い光が階段に射し込み、毛玉は再び物陰に収まった。
「ネズミでも出てきたら嫌なんで、ちょっと……やめてもらっても良いですかね。帰るんでしょう? ならさっさと行きましょう、こんな悪趣味な現場、長居したくないし」
一拍置いて、深い溜め息。
女性とおぼしき声は「聞こえてます?」と確かめた後、おもむろに鉄扉をコンコンと叩いた。
「これ何か分かります? 地下通路の入り口です。つまり奥には牢屋しかない。絶対ネズミだらけに決まってます。お願いだから本当にやめてください。はい、斧下ろして。行きますよ」
コツコツと靴音が遠ざかる。しかし依然として扉の前には何か、大きな気配が残ったまま。
根競べを強いられた毛玉がじっと固まっていれば、やがてゆっくりと、重たい影が扉の前から消えた。鎖を引きずるような音が段々と小さくなるのを聞きながら、毛玉は細い息を吐き出す。
危機が去ると、同じように隠れていたネズミたちが毛玉の元へ戻ってきた。今にも体がほどけてしまいそうな毛玉を見てか、彼らが心配そうに鳴く。
しかし、そんな彼らの声を捉えることも儘ならず、毛玉は自分の足がぽろぽろと崩れていく様を見詰めるばかり。
『逃げなさい』
『貴女には何もできません』
『言うことを聞いて』
『いいから』
『──逃げるのか?』
ブツリ、毛玉の意識はそこで途切れた。




