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気付けば、空は黒々とした雲に覆われていた。
岩肌に囲まれた旧街道を駆け抜ければ、視界が開けると同時に雨粒が頬を掠める。湿った土の匂いとは別に、微かな焦げ臭さを捉えたフィルゼはぐっと目を細めた。
すると曇天の下に広がった草原の向こう、物々しい城壁と、両脇に双塔を備えた大楼門が見えてくる。あれがヤムル城塞都市──過去に狼月が諸外国から侵略を受けた際、幾度も危難を救ったと言われる場所だ。
ヤムル城にはいつしか騎士だけでなく多くの商人が集い、長い時を経て豊かな主要都市に発展したが……今、人々を守る城壁の内側からは、不穏な黒煙が上がっている。
このまま大楼門まで直行しても良かったが、フィルゼはふと、旧街道の終わりにある小さな宿場町に人集りを見つけて、大きく目を見開いた。
「……! 毛玉、しばらく出てくるな」
「えっ? はい!」
メティを宿場町まで走らせれば、その入り口付近に集まっていた人々がちらほらとフィルゼの方を振り返る。彼らの顔色は芳しくなく、フィルゼの服装を確かめては少しばかり安堵したように溜息をついた。
「ヤムルで火の手が上がってるように見えるが、何があった?」
フィルゼが鞍から降りつつ問えば、人集りの端にいた猫背の男がさっと片手を挙げる。大きな荷物とロバを引き連れていることから、彼は行商人のようだった。
「いやね、ちょいと大変なことが起きてまして……。ほれ」
猫背の商人が遠慮がちに指差したのは、人集りの奥で倒れ伏す──背中にいくつもの矢が刺さった青年だった。
既に息はないのか、その顔には布が被せられ、異国の修道士とおぼしき男女が矢をゆっくりと引き抜いている。鎧も身に着けていない丸腰の青年に対し、これだけ大量の矢を放つ必要性はどこにも感じられず、フィルゼは思わず眉を吊り上げた。
「誰がこんなことを……」
「〈豺狼〉ですよ。今、ヤムルに来てるんでさぁ」
「……〈豺狼〉?」
聞き覚えのない称号を反芻すれば、猫背の商人が鷹揚に頷く。
「三年前、ルスラン帝の四騎士がみんな辞めちまったでしょう? その後釜として、まず最初に指名されたのが〈豺狼〉……オルンジェック公ですよ」
オルンジェック公。その名はフィルゼもよく知っている。
しかし、彼が知るオルンジェック公とは、ルスランの右腕として活躍していたこともある老齢の男だ。頭がよく切れ、何事も一直線なティムールとは真逆の性格をしていたため、御前会議でよく衝突していた。
とはいえ決して悪い男ではない。彼が提案する政策は、常に狼月の発展と平和を念頭に置いたものばかりで、間違っても民を蔑ろにする人物ではなかった。
それに──。
「オルンジェック公は……三年前に亡くなったと聞いたが」
「ええ。元々お体の調子が良くなかったところに、ルスラン帝の訃報がトドメになっちまったらしいですね」
「……なら〈豺狼〉というのは」
「今のオルンジェック公爵ですよ。とっくの昔に勘当された息子を、デルヴィシュ帝が都に呼び戻したと聞いとります」
現オルンジェック公、ケレム・バヤット。
齢十二にして厳格な父から勘当された問題児の経歴は、それはもう凄まじいものだと猫背の商人は言う。
勘当後、ケレムは貴族からの暗殺依頼を請け負う怪しげな組織を立ち上げ、皇帝の目を盗んで違法な人身売買にも手を出したほか、借金苦に陥らせた客を利用して危険な薬を国内にばら撒いたという。真っ当ではない手段で巨万の富を築き上げた彼は、まさしく裏世界を牛耳る存在となったそうだ。
しかし、ルスランが即位してからは執拗な追跡に遭い、所有する隠れ家の殆どを潰されてしまったため、狼月での活動に限界を感じたケレム・バヤットはあっさり財産を捨てて国外へと逃亡した──はずだった。
「デルヴィシュ帝は何を考えてんでしょうねぇ。ルスラン帝と前公爵様が追い詰めた極悪犯罪者を、誉れある四騎士に召し上げるなんて」
「……同感だ」
跪いた修道士がレオルフ式の追悼を行う姿を後目に、フィルゼは一度、ゆっくりと息を吐いておく。
それなりに長い間ルスランの元にいたはずだが、ケレムの名を聞いたのは初めてだった。数々の罪を犯した男ゆえ、何かしらの調査を頼まれてもおかしくなかったが──恐らく、ルスランは最初からこの件にフィルゼを関わらせるつもりなどなかったのだろう。
人身売買の標的になりやすいのは、いつだって親のいない子供だ。ルスランは、彼らと同じ境遇にいたフィルゼを重ねてしまったのかもしれない。
「……。それで、その〈豺狼〉が彼をあんな風にしたと?」
気持ちを切り替えるように尋ねれば、猫背の男は遺体をちらりと見ながら、気の毒そうに肯定した。
「奴の悪趣味な狩りは有名でしてね。追い回した獲物をヤムルのような檻に閉じ込めて、そこでまた死ぬまで追いかけっこをさせるんだそうです。あのお兄さんの仲間も、今頃……」
「仲間? 待ってくれ、もしかして彼は」
「ああ、言ってませんでしたね。巷で噂の反乱軍の一員でしょう」
フィルゼはようやく合点がいった。
いくら〈豺狼〉が非道な男であろうと、国外にも名前と顔が知れ渡る四騎士の座に就いた以上、大っぴらに民を虐げたり犯罪行為に走ることは出来ないはず。
しかし、相手が「皇帝が敵と定めた者」ならば、遠慮などするわけもあるまい。
ヤムル城塞都市では今、ティムールとセダを慕う者たちが狩りの対象とされているのだ。
それは「反乱軍の一掃」と銘打った、一方的な虐殺に他ならない。
「ヤムルに仲間がいるっていうデマを掴まされたみたいですねぇ。可哀想に」
「まずいな」
「え? 剣士殿?」
猫背の商人が引き留めるのを無視して、フィルゼは息絶えた青年へ歩み寄る。修道士によって矢は全て抜かれたが、体の背面はべったりと赤く染まったまま。
仲間を置いて一人で逃げたというよりは、他の仲間がこれ以上ヤムルに集まらないよう、商人たちを通じて情報を広めようとしたのだろう。恐らくは、こうして惨たらしく殺されることで、商人たちの同情を引くことも織り込み済みに違いない。
『聞いたか、手配書の女がヤムル城塞都市で目撃されたらしいぞ』
先日、狼月兵たちが交わしていた話が反乱軍を呼び寄せるためのデマだったのか、それとも真実だったのかはまだ分からない。
だがこのまま放置すれば、ヤムルで無辜の命が散らされるのは確定事項だった。
「……毛玉。どうする? ここに残るか?」
自分がこれから何をしに行くのか明言はしないまま、フィルゼが小さく尋ねると、上着の内側でびくりと毛玉が震えるのが分かった。
暫しの沈黙の末、脇腹に小さな足がぽすっと当たる。
「わ、わたくしも行きますっ。フィルゼさま、わたくしを置いて行く方が手間だと仰いましたもの」
「それは逃げるときの話だろ」
「……それでもです」
消え入るような、されど確かな憤りを秘めた声だった。
辺りに立ち込める血の匂いは勿論のこと、猫背の商人が〈豺狼〉の狩りについて語ったことで、ここで何が起きているのかは毛玉も察しているのだろう。
そして今、ヤムル城塞都市で命を脅かされている者たちが、先日出会ったイーキンという青年の仲間であることも。
「ヤムルに閉じ込められた人たちは、とても、とても怖い思いをしているはずです。早く助けて差し上げないといけません……」
「……そうだな」
一際悲しそうに呟いた毛玉に同調し、フィルゼは死体の傍に置かれた矢の束を強引な仕草で掴み取った。
「──誰か、弓を売ってる者はいるか」
振り向きざまに問えば、固まった商人たちが一拍置いてどよめく。
彼らが正気を疑うような視線を寄越す中、やはり真っ先に歩み出たのは猫背の商人だった。彼は皆と同様、明らかな困惑を滲ませてはいたものの、にこりと口角を上げて見せたのだった。
「ちょうど良いものがありますよ、剣士殿」




