3-2
──初めは子供の泣き声だと思った。
その少し前にも哀れっぽい悲鳴が木霊していたから、きっと同一人物だろうと当たりを付け、少年は黙々と川沿いを歩いた。
付近には険しい山と古城の他に、東の方に小さな集落があったはずだ。幼子が迷い込んだとしたら、きっとそこの住人に違いない。早めに保護して送り届けなければ。
なんて考えていたら、川上からピンクの毛玉のようなものがどんぶらこと流れてきた。
少年は唖然としてしまった。さっきから聞こえていた「えーん」という声が、あの毛玉から生じているのだから。
しばらく毛玉を凝視したのち、ぞっと背筋が冷える。幼子の声を真似て人を誘き寄せるなど、寓話に登場する妖怪や魔物がすることではないかと。架空の存在と高をくくっていたのに、こんな爽やかな朝に現れるなど聞いていない。
どうする。今すぐ逃げるべきか。それとも集落の人々のためにも、今ここで自分が燃やすべきか──。
「えーん…………」
まずい、気付かれた。
顔は無いが、確実にこちらを見ている。
清らかな水に乗ってさらさらと運ばれていく毛玉は、少年の前を経由して、左から右へと流れ。
「あっ、あ、あの、そこの淡い金髪の御方! どうか引き揚げてくださいませんか!? わたくし! とても! 困っております!!」
「──ああっ助かりました、ありがとうございます! もう永遠に陸地に上がれずにお魚さんとして生きていくしかないのかと……!」
「……大丈夫だよ。もう少し先に行ったら橋があるから、そこに引っ掛かったと思う」
結局、あまりにも懇願されたので助けてしまった。
ちょうどいい岩場に飛び移ってピンク色の毛玉を掬い上げてやれば、大層喜んでお礼を言ってくる。その声は泣いていたときと違って、幼子というよりも十代の女性に近い。
少年が皿のようにした両手の上できゃっきゃと弾んでいた毛玉は、そのうち「ふんん」と体を揺らし始め。
「えいっ」
にょき、と小さな足を生やした。
少年の中でこの生き物の危険度が再び急上昇したことなど露知らず、呑気に両足を生やし終えた毛玉は「ふう」と腰を下ろして。
「えへへ、本当にありがとうございました。もう滝から落ちたくはありませんね」
「滝から落ちた……? 大丈夫なの?」
「はい! はあ、でも今度お水を飲むときはちゃんと小石を並べないと……メティも驚かせてしまったでしょうし……」
しおしおと反省を口にした毛玉は、そこでおもむろに川上の方を向いた。釣られて鼻先をそちらに向けてみれば、小規模ながらそこそこ勢いのある滝が遠くに見える。
「上に同行人がいるなら連れて行こうか?」
「まぁ! よろしいのですか!?」
毛玉がぱやぱやと綿を散らして喜んだ。感情豊かな毛玉が段々と可愛らしく思えてきた少年は、ついついピンク色の表面を指の腹で撫でてしまう。
くすぐったそうに笑っていた毛玉はしかし、いきなり何かを思い出した様子でハッと首を──体を横に振った。
「ごめんなさい。申し出は大変嬉しいのですが、陸地に上がったらそこで待っているように言われたので……」
「ああ、迎えが来るなら良いけど」
少年は近くの木陰に歩み寄り、そこに毛玉を降ろしてやった。同行人は川沿いに毛玉を捜すだろうから、ここにいれば見つけてもらえるはずだ。
そう考えて草むらに座らせたのは良いものの、いつの間にか毛玉が一回り小さくなったような気がした少年は、「あれ?」と首を傾げる。
さっきは水を含んでいたから膨張していたとか……などと仮説を立てつつ、とりあえず少年は立ち上がった。
「じゃあ、僕はこれで。もう川に落ちないように気を付けなよ」
「はい……ありがとうございました……」
手の代わりにふりふりと片足を動かす毛玉にくすりと笑いをこぼし、少年は踵を返したが。
「──えーん……」
姿が見えなくなるギリギリのところで、再び聞こえてきた泣き声に、少年もまた振り返り。
◇
「セリルさまと仰るのですね! うふふ、わたくしのことは毛玉と呼んでいただければ!」
「そのままじゃん」
長い白金の髪を後ろで三つ編みにした少年──セリルは毛玉の隣に腰を下ろし、自分は何をしているのだろうかと遠い目で川を眺めていた。
先ほど、いきなり泣き出した毛玉を放置しておくことが出来ずに戻ってみれば、曰く、「一人で待つのが寂しい」とのことだった。セリルが呆気に取られたのは言うまでもない。
何でも、同行人と知り合ったのはここ最近で、一日たりとも離れたことがないだとか。
そもそも自分が生まれた瞬間に出会った人なので、こうして離れていると非常に落ち着かないだとか。
離れるときは毎回メティという友人が側にいてくれたものだから、ここまで寂しいと思わなかった、とか。
寂しさを紛らわせるためかぺちゃくちゃと喋り倒す毛玉の話を要約すると、そんな感じだった。
「……ていうか生まれたって? 最近生まれたの?」
「はい! あ、えっと……わたくしの感覚ではそうなのですが、うーん、それ以前の記憶が全く無くて……」
「へー……毛玉も大変なんだね」
生まれて間もないというわりには流暢に話しているので、記憶がないと聞いて納得する反面、少し可哀想な気持ちが芽生える。
少年が毛玉をそうっと撫でてやれば、小さな足がバタついた。
「でも平気です! わたくし、記憶が無くても毎日楽しいですよ。セリルさまみたいにお話してくれる人もいますし」
「ふーん、そう。……毛玉は、誰とでもすぐに打ち解けられそうだもんね」
羨ましい、という言葉を飲み込んだセリルは、代わりに苦笑を滲ませる。
その子供っぽい表情を見られたくなくて、顔を背けたはいいが──他人の機微に鋭いのか、毛玉はひょこひょこと歩いて正面に回ってきた。
「セリルさま、どうかされました……? はっ、お悩み相談なら乗りますよ! 助けてくれたお礼に!」
「ええ……話してもどうにもならなさそうだし」
「いえいえ、吐き出すだけでも楽になるかもしれませんっ」
伸ばした左足によじ登り、膝小僧を踏み台にぴょんと跳躍。反射的に手を差し出してしまえば、毛玉はそれを分かっていたようにふわりと手のひらに着地した。
聞く気満々の毛玉を前にセリルは暫し悩んだが、相手は人間ではないのだし、と口を開く。
「……僕さ、その……同年代の友達がいないんだよ」
「うんうん」
「周りが年の離れた大人ばっかりだから、あんまり打ち解けられないというか……」
「まあっ、それはちょっと心細いですね……! ちなみにセリルさまはおいくつなのですか?」
「僕? えっと……」
セリルは考え込むように虚空を見詰め、指折り数えてから「十五ぐらいだったかな」と曖昧な答えを返した。
「正確に数えてないんだよね。誕生日も分からないし」
「そうなのですか? じゃあ、今日を誕生日にしましょう! それから、わたくしがセリルさまのお友達になります!」
「へ?」
これで解決と言わんばかりに、毛玉が花びらのような綿を散らせて弾む。
再び呆気に取られたセリルはしかし、これまで漠然と悩んでいたことが途端に馬鹿らしくなり、ついつい笑ってしまった。
「毛玉って面白いね。でも確かに、誕生日なんて勝手に決めればいいか」
「はい! というわけでお誕生日おめでとうございます、セリルさま!」
「あはは、ありがとう」
セリルは礼を述べながら、ふっと肩を竦める。誕生日が分からないなどと告げたら、返ってくるのは大半が憐れみの目だというのに、こんな反応は初めてだ。
誰からの愛情も得られず、誕生日すらも祝ってもらえなかった「可哀想な子供」として認識される瞬間は、何度味わっても慣れなくて、訂正のしようもないから余計に不快だった。
しかし、この生後何日かしか経っていないらしい毛玉は、セリルの傷をいたずらに抉ることをしない。
予想外のことに戸惑いつつも、彼が毛玉に対して覚えた安心感は、存外心地よかった。
「……毛玉、僕のこと呼び捨てでいいよ。様付けされるの慣れてないから」
「あっ、そうですか? じゃあセリルとお呼びしますね、えへへ」
この毛玉、連れて帰ったらダメかな……と、子犬を拾う感覚でセリルが考えたとき。
「よぉボウズ、迷子か?」
ふと、大きな三つの影が少年の体を覆った。




