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「ご主人」と呼ばれた途端とんでもなく委縮してしまった毛玉を宥めながら、フィルゼは二階の執務室へとやって来た。
案の定、ここにも人影はない。使用人は自分に火の粉が降りかかる前に逃げ出したか、レオルフ王国に逃れようとしたセダに付いて行ったかのどちらかだろう。
彼らが狼月軍に捕えられていないことを祈りつつ、執務机の引き出しを開く。目ぼしいものが無いと分かれば次の引き出し、時には棚の裏まで探っていると、その遠慮のない手つきを見た毛玉がおずおずと声を掛けてきた。
「フィルゼさま、そんなに触って大丈夫なのですか……?」
「誰もいないからな。あんたも何か見つけたら教えてくれ。手紙の類を中心に」
「はいっ分かりました!」
毛玉を本棚の上段に降ろしてやると、並ぶ背表紙に身を寄せながらちまちまと歩き始める。そういえば高所は苦手だったなと途中で思い出したが、特に泣き言を漏らす様子はないので、そのままにしてフィルゼは作業を再開した。
しばらくして、壁掛けの小さな絵画を外したときだった。
「……?」
絵画の裏に隠されていたのは、謎の落書き。四騎士時代に仲間同士で用いていた暗号かとも思ったが、どうにも違う。そもそも文字というよりは、指につけた黒いインクをいたずらに押し付けたような印象を受ける。
指の痕と思われるものと自分の人差し指を比べてみると、それは非常に小さく、子供サイズと言っても差し支えがなかった。
「……陛下が子供の頃に付けたのか?」
ルスランにとって、トク夫妻は護衛騎士と乳母。両親と共にこの別邸に遊びに来たこともあっただろう。そしてルスランを迎えた夫妻が、こうして幼少期の痕跡を大事に残していても別に不思議ではない。
しかし、親バカなところがあるティムールなら──落書きされた箇所を装飾で囲むくらいのことはする。絶対にする。間違いない。
ゆえにこうして絵画の裏に隠すなど、少々彼らしくない行動に思えた。
「フィルゼさま~!」
突然、ばさ、ばさばさ、と後方が騒がしくなる。
本棚を振り返ってみれば、そこでは鳥に変身した毛玉が、その大きな嘴で何かを引っ張り出そうとしている最中だった。
「何してるんだ?」
「本の奥にお手紙が落ちているのですが、ふんん、取れません……えーん……」
本の隙間に嘴を突っ込んだまま、しくしくと落ち込む毛玉をスポッと引っこ抜き、ひとまず横に避ける。それから本を数冊ほど抜いていくと、毛玉の言う通り折り畳まれた手紙が現れた。
球体に戻った毛玉と一緒に、その手紙を開いてみると。
「………………」
「…………絵ですね!」
「絵だって?」
そこに書かれていたのは、ぐちゃぐちゃにペンを走らせた黒い線の集合体。ひとつも意図を汲めずに長いこと沈黙してしまったが、毛玉が言うにこれは「絵」らしい。
なおもフィルゼが目を眇めて手紙を回転させていると、毛玉が同じように横へ転がって言う。
「ほら、この黒い丸が目です! この……紅葉みたいなのが手で、たくさんのトゲトゲが、髪の毛でしょうか?」
なるほど、確かに言われてみればそう見えてきたが、毛玉の推測が正しければこの人間は耳から手が生え、目が最低四つはある。
他人のことを言える立場ではないものの、なかなか前衛的なセンスに黙り込んでしまったフィルゼは、ふと先ほど見た壁の落書きを思い出しては合点が行った。
「これも子供が描いたみたいだな」
「ティムール様にはお子様がいらっしゃったのですか?」
「え? あ……そういえば、陛下と同じぐらいの息子が一人いたな」
フィルゼはすっかり失念していた存在を思い出し、ふむと口元を片手で覆う。
ティムールとセダの息子──彼はトク家の男児では珍しく、騎士の道を歩まなかった。生まれつき左側の目が見えていないとかで、剣を振るには少々心許ないとティムールが渋ったらしい。
その代わりに彼は別の才能を開花させて、他の国へ留学していたのではなかったか。
そう、別の才能……。
「……毛玉」
「はい?」
「あんた、霊術に掛けられてその姿になった可能性はないか?」
元の角度に落ち着いた毛玉が、また再び横へと傾く。
「霊術?」
「ああ。俺も詳しくは知らないが……レオルフよりも更に東側の地域では結構いるらしいぞ。霊術師ってやつが」
フィルゼは手紙を折り畳むと、コロコロ左右に揺れる毛玉を掴んで執務机の方へ向かった。
手頃な筆記具を取り出した彼は、手紙の裏にさらさらと羽根ペンを滑らせる。
「ここが狼月で、右隣がレオルフ、そこから海が見えるまで東へ進むと……」
国の名前をそれぞれ丸く囲い、長い矢印を右へ伸ばす。海を挟んだ先、そこに浮かぶ群島こそが霊術師の集う神秘の地だった。
「星合の島々って呼ばれててな。そこに霊術師を育成する場所があるんだと」
「へえ~! 一体どんな術なのでしょう……!」
「さあな。爺さんの息子は、十代の頃から島にいたはずだ。……狼月に帰って来てるかは分からないが、もし会えたらあんたのことを聞いてみても良いかもな」
「わたくしのこと……。……わたくし、やっぱり妖精さんではないのでしょうか……」
心なしか残念そうな声音を受け、フィルゼは無言で毛玉を撫でておく。
霊術の詳細についてはフィルゼもよく知らないのだが、霊術師がレオルフや他国の宗教と対立したり排斥されたりといった事件が過去に起きたことからも、それが単なる占いやまやかしでないことは確かだ。人間の言葉を話す毛玉が出来上がる過程を考えると、未知数の霊術が関わっている可能性は視野に入れておくべきだろう。
ティムールの息子でなくとも、どこかに霊術師がいれば毛玉のことを尋ねてみるのも良いかもしれない。フィルゼは頭の片隅に留めておくことにした。
「……霊術師はともかく、セダ殿はここに立ち寄らなかったみたいだな」
「そうですね……でも、どうして門が開いてたのでしょう? 留守の間に泥棒さんが入ったとか?」
「それも有り得る。あとは狼月軍が襲撃してくる前に、ここの使用人が急いで荷をまとめて逃げたか」
「しゅ、襲撃……」
怯えたように縮んでしまった毛玉を肩に乗せ、フィルゼはもぬけの殻となった別邸の外へ出た。
結局セダの行方は分からずじまいだが、霊術師の存在を思い出したことで、毛玉の謎を解明するための方向性は少しだけ定まったと言えよう。もしかすると霊術ではなく全く違う可能性もあるが……そのときはそのときである。
フィルゼは城の外で大人しく待機していたメティの背に跨ると、ティムールのもう一つの別邸を目指し、ヨンジャの丘を後にしたのだった。




