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白と黄色、それから深く濃厚な青。幾何学模様を描いたタイル仕上げのアーチをくぐると、白い水盤を備えた中庭に出た。
長方形のシンプルな庭には植物ひとつ置いておらず、一見して殺風景にも思えるが──この庭を手がけた職人曰く、主役は庭にあらず、とのこと。
セダは華美なものを好まぬゆえ、彼女の心を賑わせる庭ではなく癒す庭にしてほしいという、ティムールの曖昧な要望に応えた結果であった。
「フィルゼさまっ、見てください。ちょうどお水にお日様が映っていますよ」
人の気配がしないせいか、ついさっきまで怯えていたはずの毛玉が肩までよじ登ってきた。そして水盤に刻まれた月とオオカミの紋様を片足で指しては、「また狼さん!」と嬉しそうに言う。
この中庭にまつわる話を思い返していたフィルゼは、宙に投げていた視線を水盤へ移す。
「夜はそこに月が映るんだと」
「まあっ素敵です!」
「セダ殿がバルコニーからよく眺めてたらしい」
指差した先には、中庭の奥にある本館二階、透かし彫りの欄干に囲まれたバルコニーがある。
あそこで読書や編み物に耽るセダの姿は、フィルゼも何度か見たことがあった。
「ねえフィルゼさま」
「ん?」
バルコニーと水盤を交互に見た毛玉が、不思議そうに呼び掛ける。
「手織絨毯にもたくさん描かれていましたけど、狼月ではお月様や狼さんに何か大切な意味が込められているのですか?」
「ああ……それはまぁ、国の名前になったぐらいだしな」
そこで話を終わらせようとしたフィルゼはしかし、毛玉の好奇心に満ちた期待たっぷりの視線が頬に刺さるのを感じた。
暫しの沈黙の後、特に続きがないことを悟った毛玉がしゅんと着席したので、フィルゼは仕方なく、非常に億劫な気分で口を開いた。
「……。有名な神話があるんだよ。口減らしのために山に捨てられた子供が、狼の姿をした神に助けられる話だ」
「神話!」
繊月の宵に現れた狼は、骨と皮ばかりの少年を自らの住処へと連れ帰り、その命を繋ぎ止める。
立派な戦士に成長した彼は故郷へ帰ると、人々に圧政を敷いていた愚王を討ち果たし、狼の祝福と共に新たな王となった──。
「それが狼月の始まりだったらしい。建国神話ってやつだ」
「へえ~っ! じゃあ、この水盤や絨毯に描かれてる狼さんは……」
「子供を助けた狼がモデルだろうな」
少年を助けた狼はその盛大な即位式を見届けると、人知れず姿を消してしまったというのが最も一般的な終わり方だ。
というのも、神話の正しい結末を明記した文書が未だに見つかっておらず、これを補完する形で後世の創作が吟遊詩人によって唄われたのだ。心優しき狼の行く末を想像した彼らは、少年と狼が結ばれただとか、別れ際に狼の力を受け継いだだとか……とかく様々な物語を紡いだのである。
それゆえ歴史学者の中には、帝室に神の血が入っていると主張する者もいれば、狼がもたらした全ては一時の気まぐれな慈悲であり、帝室はあくまで只人の家系であると主張する者もいるそうだ。
フィルゼが初めてこの神話を聞いたのは十代前半の頃、彼の主だったルスランから教わったとき。そのため、歴史学者の議論に口を挟めるほどの深い造詣は持ち合わせていないが──神の血が通っていると言われても不自然ではないほど、ルスランが優秀な統治者であったことは事実だと断言できる。
今の狼月の惨状を鑑みれば、なおさら。
「あっ! フィルゼさま! わたくし気付きました!」
うんうんと頷いていた毛玉が突然ぴょんと飛び跳ね、合点が行ったとばかりに頬へぶつかってきた。
「もしかしてフィルゼさまの〈白狼〉という称号も、その狼さんに肖っているのでは!?」
「……」
──だからこの話はしたくなかったのだと、フィルゼは思い切り顔を顰めてしまった。
「……覚えてたのか、その話」
「覚えてますよっ! イーキンさまに詳しくお話を聞きたかったのに、気付いたらわたくし、小川に浸けられてて何も聞けずじまいでした!」
「仕方ないだろ、あんた体調悪かったんだから」
「えーん! でもそうなのでしょうっ? フィルゼさま、前の皇帝陛下からとっても信頼されていたのではっ?」
すごいすごいと飛び跳ねる毛玉を片手で押さえつつ、話題を逸らせないことを悟ったフィルゼは小さく溜息をついた。
毛玉の推測通り、〈白狼〉とは神話に登場する狼そのものを指す。王の器を有する者の前に現れ、助け導く存在として、その呼び名が用いられるのだ。
歴代の四騎士において〈白狼〉の称号を戴いた者は数えられる程度しかおらず、そのどれもが皇帝の忠実な右腕であったと記されている。
そんなひどく大層なものを与えられたと知ったとき、フィルゼは少しばかりルスランを恨んだものだ。
何故、長くルスランを守ってきたティムールでもなければ、自分より知識も経験も豊富な〈鷹隼〉や〈鷺鷥〉でもなく、剣を振り回すことしか能のない自分なのかと。
賢君と謳われたルスランだが、その一点だけは判断を誤ったと言わざるを得ない。
なぜなら──。
「……〈白狼〉がもっと優秀な奴だったら、目の前で陛下を死なせることはなかっただろうにな」
意図せず口からこぼれ出た情けない独り言は、毛玉にもしっかりと聞こえてしまったらしい。
みるみる縮んでいくピンク色に気付いて目を見開けば、毛玉が小さな声で告げた。
「ごめんなさい、フィルゼさま……辛いことを思い出させてしまいましたか……?」
「……。気にするな。もう終わったことだ」
「でも……フィルゼさま、悲しそうなお顔をしています」
そう言う毛玉の方が今にも泣きそうな声をしていて、フィルゼは苦笑をこぼす。
先代の四騎士において、三年前のあの日を「終わったこと」として片付けられた者はいないだろう。だからこそ彼らは四騎士の座を追われ、ティムールを除く三人は宮殿を去った。
それは新たな皇帝となったデルヴィシュに対する抗議であり、ルスランの死が病に依るものなどではなく──明確な意図をもって行われた、暗殺の結果であるという主張でもあったのだから。
「……俺がデルヴィシュと直接対峙したのは、陛下が死んだ後だった。すぐに分かったよ、コイツが陛下を殺したんだと」
「え……!」
「奴はその場に居合わせた俺に殺害の罪を着せて、陛下と一緒にまとめて処分しようとしたんだろうが……」
フィルゼは鼻を鳴らして笑った。
「錯乱した俺が愚かにも斬りかかったもんだから、そんなことする必要もなくなった」




