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小川の傍で一夜を明かし、翌日の早朝。
手織絨毯を敷いた上、手頃な木に寄りかかり毛布に包まっていたフィルゼが目を覚ますと、すぐそばで腹這いになったメティが顔を寄せてきた。
挨拶代わりにその顎を撫でつつ、上着の内側を覗き込む。赤色の内ポケットには球形に戻った毛玉が収まっており、微かな寝息を立てていた。
「……ん、ふふ」
むにゃむにゃと何か寝言をこぼしているが、毛玉が目覚める気配は無い。フィルゼはそっと上着を脱ぐと、その上に毛布を被せて顔を洗いに向かった。
「──えいっ! やあ!」
フィルゼが身支度を終える頃になって、いきなり気合いの入った声が上がる。
見れば、上着と毛布がぽすぽすと音を立てながら控えめに隆起している。程なくして外へ這い出した毛玉は、フィルゼを見付けると嬉しそうに跳ね、短い足でふわふわとスキップをしながらこちらへやって来た。
「フィルゼさま! おはようございます!」
「おはよう」
一晩を経てすっかり元気になった様子を確認したフィルゼは、傍まで近寄ってきた毛玉を鷲掴み、小川の浅瀬にバシャリと浸からせる。
「きゃ~! 冷たい!」
「今のうちに水分補給しといてくれ」
「はぁい」
そのまま流されないように大きめの石を半円に並べ、毛玉を設置する。両足でぱしゃぱしゃと水飛沫を立て始めた毛玉を一瞥し、フィルゼは敷いたままだった手織絨毯を片付けた。
「フィルゼさまっ、今日はどちらに向かうのですか?」
「〈大鷲〉の爺さんが所有する別邸だ。ここから一番近いのは……ヨンジャの丘だな」
「よんじゃ?」
「爺さんがセダ殿を怒らせたときに贈った城らしい」
「まあ! お城を? ティムールさまは奥様のことが大好きなのですね」
毛玉がまだ見ぬ老夫婦の仲にぽやぽやする傍ら、フィルゼは視線を他所に飛ばした。
──怒らせるたびにティムールが城を贈るものだから、三つめ辺りで「無駄遣いをするな」とセダが本気でブチ切れたらしいことは、黙っておいた方がいいだろうかと。
◇
ヨンジャの丘とは、大きな湖を囲む辺り一面のクローバーがその名の由来だった。
ティムールの別邸は湖のすぐ傍に建てられ、その真っ白な城壁と淡い黄色の円筒ドームは遠くからでもすぐに視認できる。
騎士を多く輩出するトク家の城は、戦時下において城塞の役割を果たすものが殆どだ。しかし近辺に要衝地がないヨンジャの丘はそれに当てはまらず、かの城はティムールとセダが休暇を過ごすことを主目的にして建てられた、数少ない例だった。
「まあっ綺麗な場所! えーい!」
毛玉がメティの頭からぽーんと飛び込めば、その体はふわりと緑色──細い煉瓦道の外に広がる、無数のクローバーに受け止められた。
きゃっきゃと楽しげにクローバーの海を泳ぐ毛玉はさておき、フィルゼは青空を背景に聳え立つ静かな丘へと視線を移す。
「……争った形跡はないな」
ヨンジャの丘へ至る道中にも、戦闘が起こった様子は見受けられなかった。この別邸に籠城できるほどの蓄えが無いことを考慮して、あらかじめ包囲網から弾かれたのか、それともまだ捜索の手が伸びていないだけなのかは不明だが。
ひとまず内部を確かめようと、フィルゼは鞍を降りた。
「毛玉、行くぞ」
「はい!」
クローバーの上をふわふわ跳ねていた毛玉は、こちらへ戻ろうとして不意に立ち止まる。
そして何か閃いたように「ふんん」と体を縮こまらせたかと思えば。
「えい!」
「うッ」
ピンク色の鳥もどきとなった毛玉が勢いよく飛び立ち、フィルゼの鳩尾に激突した。
それなりの硬度と鋭さを再現した嘴は、やはりそれなりの衝撃を標的に与え。ひとつも身構えていなかったフィルゼは不覚にも崩れ落ち、衝突に驚いて墜落した毛玉を辛うじて受け止めた。
「あうう、ごめんなさいフィルゼさま……! 鳥さんの姿ならフィルゼさまの元に一直線で行けるかもと思って」
「ぶっつけ本番はやめてくれ」
ということで毛玉はしばらくメティの背中で羽ばたきの練習に勤しむこととなり、フィルゼは胸部を擦りながら城へ向かった。
丘の上までやって来ると、果てがないように思われたクローバーの景色から一転、真っ青な湖が眼下に広がる。
羽ばたき練習に疲れてぐったりとしていた毛玉が、むくりと頭を起こしては「わあ~っ」と足をばたつかせ。
「高ぁい……」
その高度に怯え、メティのたてがみに体を埋めてしまった。
仮にも今は鳥類なのに高所が苦手という致命的な欠点を抱えた毛玉に、フィルゼはもはや何のフォローも浮かばなかった。
「……メティに乗るのは怖くないのか?」
「はい! フィルゼさまの肩も怖くありません!」
ぽんっと球形に戻った毛玉が、鞍からフィルゼの肩に飛び移る。そのまま首筋にふわふわと擦り寄られたフィルゼは、「そうか」と適当な相槌を打ちながら城を振り返った。
「お城、どなたかいらっしゃいますかね?」
「どうだろうな」
普段ならトク家の家令や使用人が、別邸の管理および維持を任されるはずだが、今は当主夫妻がどちらも不在という特殊な状況だ。
それも主人が反乱軍のリーダーという汚名を着せられた以上、使用人が我が身惜しさで逃亡していてもおかしくはない。
フィルゼは城を囲む鉄柵を見上げ、次に正面の門を確認しては眉を顰めた。
「開いてる」
「え!」
門の内側に備え付けられた大きな閂が外されており、よく見れば錠前も打ち捨てられている。誰かが急いで外へ出たような、少々不穏な空気を感じさせる痕跡だった。
「だ、誰かが忍び込んだのでしょうかっ? えーん、怖いです!」
「……入ってみないことには分からないな」
フィルゼが門に手を掛けると、毛玉が慌てて腕を滑り落ち、上着の内ポケットに潜り込む。じたばた動く両足に人差し指を添え、奥まで押し込んでやりつつ、彼はゆっくりと門を開いた。
「はっ! メティ! 知らない人に付いて行ってはいけませんよ! ここで待っててくださいね!」
目覚めるや否や知らない男に付いて行った奴が言うことではないが、優しいメティは応じるように尻尾を振ったのだった。




