14-6
私の小さき狼
君は今、どこで何をしているのだろうか。
まだ狼月に残っているだろうか。それとも我が友人の元にいるのだろうか。いずれにせよ、私の墓を守るような無意味な真似だけは止してくれ。
いいかい。もし本当にそうなら、直ちに止めるように。
それはさておき、君に謝らなければならないことがある。
君の故郷を救えなかったこと、幼い君を戦場に立たせたこと、直近ではギュネ族のことも──数え出したらキリがないが、君にとって最も腹立たしいのは、やはり私がこんな手紙を残して死んだことだろう。
すまなかった。この計画を話してしまえば、君は必ず私の後を追うと思ったのだ。だから何も話さなかった。
私の死を訝しむ心、怒り、憎しみ……〈白狼〉に主人の死を乗り越えさせるためには、そんな負の原動力に頼らざるを得なかった。
君には苦しい思いをさせたことだろう。だが、君がこの手紙を読めているのなら、私の計画は成功したと言ってよいのだろうな。
さて、フィルゼ。
この手紙を君に渡したのは、私の唯一人の娘だ。
名をアイシェ・ユルディズ・タネルという。
悪いが、私から詳細を語るのは控えておく。
どうか君の目で見極めてほしい。
あの子が、君の力を貸すに相応しい器だと思うのなら、そのときは助けてやってくれ。
私の半身であり、誇り高き銀色の狼よ。
首輪はもう外れているはずだ。
君が自由に歩めることを、心から願っている。
◇
ああ、そうだったのかと、フィルゼは脱力感と共に瞑目した。
(……陛下は、ずっと俺を心配していたのか)
幼く未熟で、獣神の意思のままに忠誠を誓ってしまった、危うげな剣士。自分の娘とさほど変わらない少年が、かつてのベルカントの騎士たちと同様の結末を迎えることを、ルスランは何年も前から危惧していたのだろう。
この手紙を読んで初めて主人の気持ちを理解したフィルゼは、確かに「首輪の付いた犬」でしかなく、自由とは程遠い存在だったに違いない。
だからルスランは自らの死をもって、少年の首輪をも外そうとしたのだ。
国と、民と、家族と──彼が守りたかったものの中に自分も含まれていたことに、フィルゼはひどく動揺し、そしてあまりの鈍さに失笑してしまった。
少し考えれば、自分が拾った少年に対してルスランが責任を持とうとすることなんて、容易に想像がついただろうに。
「は……」
「フィルゼさま? ああっ、大変……だ、大丈夫ですか?」
手紙を読む間じっと見守っていたアイシェが、慌ててフィルゼの頬に両手を添える。そうして彼女の指先が濡れたことで、フィルゼは自分が泣いていることに気が付いた。
「お父様が何か酷いことを仰ったのですかっ? ゆ、許せません、お父様と言えどもフィルゼさまを泣かせるなんて……!」
「ああ、いや……違う。大丈夫だ」
ひしっと抱きついてきたアイシェに苦笑しつつ、その肩をやんわり引き剥がそうとしたフィルゼはしかし、ややあって彼女を逆に引き寄せた。
「わ……フィルゼさま?」
ピンク色の頭がそわそわと傾くのを頬で感じながら、瞼を閉じる。
「アイシェ」
「! はいっ」
そうして静かに名を呼べば、アイシェが腕の中で軽く飛び跳ねた。そのまま何やら嬉しそうにふすふす笑っているので、フィルゼはひとまず華奢な背中を宥めるように優しく叩く。
「これからどうしたいか、あんたの考えを聞かせてくれ」
「わたくしの……」
「ああ。まだ記憶が全部揃ったわけじゃないとは思うんだが……今、聞いておきたい」
ここにはフィルゼとアイシェ以外、誰もいない。彼らの会話が狼月の民に漏れることは今後一切ないだろう。
ゆえに亡き主人の最後の願いに従って、アイシェ・ユルディズ・タネルの本音と決断を、フィルゼは今この場で聞かねばならなかった。
背中に回していた互いの腕を解けば、アイシェの淡い色の双眸が瞬く。
やわらかな眼差しの奥、かつて自身が仕えた男と同じ鋭い光が垣間見えた瞬間、フィルゼの背中にぴりりと緊張が走った。
「……望みは一つです」
やがて狼月の皇女は告げた。
「わたくしは狼月の未来を守るために、帝位に就きます。だから、あなたの力をもう少しだけ貸してください──フィルゼ・ベルカント」
差し出された小さな手には、怯えも迷いも見られない。
まるでこれこそが己の使命であると確信しているような──否、ヨンジャの丘に隠されていたときからずっと、彼女はこの使命を背負いたかったのかもしれない。
もはや今までの旅路を思い返す必要はなかった。フィルゼはおもむろに片膝を付くと、差し出された手を掬い、己の額へと寄せる。
昔、光に満ちた宮殿で、賢帝に忠誠を誓ったときと同じように。
「俺の剣を、あんたに捧げよう。アイシェ」
腰に佩いた宝剣を帯から引き抜き、アイシェの両手に乗せる。ずしりとした重みに彼女が少しだけ前のめりになったのも束の間、緊張を滲ませた眼差しがこちらへ寄越された。
「叙任のやり方、分かるか?」
「叙任……! お、お父様から昔教わりました! でもあの、自分からお願いしておいてなんですが、本当によろしいのですか……っ?」
「前にヨンジャに来たときも言っただろ。あんたみたいな主人も悪くないって」
アイシェが不意を突かれた様子で、瞳をぱちぱちと瞬かせる。そしてすぐに思い出した様子で笑顔を浮かべたが、いやいやと頭を振っては最終的に難しげな表情に落ち着いた。
どうにも彼女は、記憶を取り戻してもなお自己評価が低いようだ。フィルゼは苦笑まじりに彼女の手を支え、しっかりと宝剣を握らせて告げる。
「俺はあんたが毛玉でも皇女でも、剣を捧げるに相応しい相手だと思ってるぞ」
「フィルゼさま……」
「あんたの優しさと勇気はきっと、狼月の新しい風になる。俺はその風がどこまでも行き届くように、立ちはだかる壁を取り除こう。それがどんなに強固で分厚くとも、決して折れぬ剣となろう」
この心優しき皇女に捧ぐ剣は、敵を屠るためだけの刃であってはならない。かつての自分との決別の意も込めて、フィルゼは己が選んだ新たな主君へ誓いを立てた。
「俺は今この時から、あんたの〈白狼〉だ。アイシェ・ユルディズ・タネル」
アイシェが小さく息を呑み、ようやく首を縦に振る。そして彼女は宝剣を鞘から抜き放つと、その刃をフィルゼの肩に恐る恐る乗せた。
もう二度と感じることはないと思っていた懐かしい重みに、彼は静かに頭を垂れたが。
「……フィルゼ・ベルカント。わたくしを助け、導いてくれた強き狼よ。あなたの信頼と忠誠に応えることを、ここに約束しましょう」
ふ、と重みが離れ、不思議に思ったフィルゼが微かに鼻先を持ち上げる。
するとそこには、彼と目線を合わせるように膝を付き、宝剣を差し出すアイシェがいた。作法を崩したことを詫びるかのように、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「これからも頼りにしています。お父様のようになれるかは分かりませんが……どうか、わたくしと共に歩んでください。フィルゼさま」
柔らかな声音に滲む、微かな不安。彼女が何を気にしているのかは薄々感じ取れる。
これから彼女は亡き父の背を追う傍ら、かつて父に仕えた者たちを失望させまいと覚悟を決めていることだろう。だが──フィルゼは彼女の手を覆うように、宝剣を一緒に掴んでみせた。
「陛下の真似はしないで良い。あんたの思う道を進め、アイシェ」
「……! はい!」
蕾がほころぶように笑ったアイシェは、剣の受け渡しが終わるや否や、膝立ちのままいそいそとフィルゼに抱きついた。
記憶が戻ってもこの無邪気さは健在なのかと、彼は苦笑と共に抱擁を返したのだった。




