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のんびりとした足取りで帰路へ着いたサーリフ医師の背中を見送り、アイシェが文へ視線を落とす。
それはおおよそ帝室の人間が用いるような封筒には見えず、ひどく質素な印象を受けた。玉璽とは別の、ルスランが過去に愛用していた封蝋印が無ければ、これが皇帝の遺した文書だとは誰も信じられなかったことだろう。
「……読むなら中に入るか?」
フィルゼがちらりと城を振り返って問えば、アイシェも釣られるようにして後ろを見遣り、逡巡の末にかぶりを振った。
「いいえ、見たところ厚みもありませんし……ここで読んでしまいます」
ぱき、と遠慮なく一通目の封蝋を割った彼女は、折り畳まれた手紙を広げながらフィルゼの方へ体を寄せる。
その少しばかり不安げな横顔に気付いたフィルゼは、控えめに彼女の背中を摩っておいた。
「……」
しかし、アイシェが亡き父の言葉を読み終えるまでに、さほど時間は掛からなかった。
彼女は手紙を元通りに折り畳むと、何も言わずにフィルゼのほうへ頭を預け、暫し無言でクローバーの海を見詰めていた。
静かに息を吸い込み、吐き出して。呼吸を二度ほど繰り返した後、彼女は小さく口を開いたのだった。
「……わたくし、過去に一度だけ……お父様にお願いをしたことがあるのです」
「お願い?」
「はい。もしもわたくしが獣神の力に呑まれて、人の姿に戻れなくなったら──その時は、わたくしを捨て置いてください、と」
フィルゼは目を見開き、弾かれたようにアイシェを見遣る。
視線を感じた彼女はこちらを仰ぎ見て、困ったように微笑んだ。
「生き物たちの声が、はっきりと聞こえるようになった頃でした。どうしてか皆、わたくしを何処かへ連れて行きたがっていて……それぞれの声に耳を傾けている内に、気付いたら毛玉の姿で数日、長いときは一週間以上も過ごしてしまうことが増えていたのです」
獣たちの言葉には、人間の言語のような決まった順序や構造が無い。今でこそアイシェは滑らかに彼らの意図を汲み取れているが、当時はその無秩序な言葉の羅列にひどく混乱していたと語る。
それでも彼らが何かを訴えかけていることは確かだったから、一つ一つ理解しようとしたのだが──生来ののんびりとした性格が起因してか、如何せん咀嚼に時間が掛かり過ぎたとも。
「そのうち、わたくしが聞いているのは本当に生き物たちの声なのか、不安になってしまって……。その不安が皆にも伝わって、余計に騒がしくなっての繰り返しで、えっと……とにかく、よろしくない状況が続いていました」
「……それで陛下に、もしものときは捨て置けって?」
「はい。とても、悲しそうなお顔をさせてしまいました」
過去の発言を悔いるように俯き、アイシェは胸に抱いた手紙を見下ろした。
「その日のことは、お互い口にしませんでした。お父様が亡くなるまで」
「……」
「でも、きっと、ずっとお父様の心に傷を付けたままだったのだと思います。わたくしは、お父様に負担を掛けたくない一心でしたが……」
亡き妻の忘れ形見を守るべく奔走していたルスランにとって、アイシェの発言は確かに堪えるものがあったことだろう。
だが、それに対して憤るような男ではないとフィルゼは知っている。ルスラン・ジェム・タネルは、目の前に突きつけられた課題に泣きも喚きもせず、ただひたすら己のすべきことを探すような人だった。
そんなフィルゼの評価は、果たして妥当だったと言えよう。
「……お父様の手紙にはこう記されていました。──彼らの声を恐れる必要はない。君が人として生きる道は、決して閉ざされたわけではない。今は多くを語ることはできないが、これが単なる気休めの言葉でないことを約束しよう」
父の言葉を復唱する声が、かすかに震えた。
「獣神の導きがあらんことを。愛する娘、私とエジェの子よ」
溢れた涙が顎を伝って落ちたなら、アイシェはごしごしと袖口で顔を拭う。そして残るもう一通の手紙を、おもむろにフィルゼへ差し出した。
「こちらは、フィルゼさまに宛てたお手紙でした」
「え?」
「小さき狼に渡してほしい、と」
フィルゼは戸惑いを露わにしつつ、手紙を受け取る。
彼は暫しそのまま動けなかったが、やがて錆びついた動きで封蝋を割った。
中に入っていたのはアイシェに向けたものと同じ、一枚の手紙。主人から私的な手紙を貰ったことなど一度もなかったせいか、フィルゼの手はほんの僅かに震えていた。
それでもゆっくりと折り目を開いた彼は、そこに並ぶ見慣れた筆跡に小さく息を吐く。狼月に吹く東風を彷彿とさせる、流麗な文字。されど、はじめに書かれたフィルゼへの呼びかけは、彼の秘めたる迷いを感じさせた。
──私の小さき狼
低く、やわらかな声が何処かから聞こえた気がした。




