14-4
「フィルゼさま……!」
前のめりになった体を、アイシェが慌てて両手で支える。正面から抱き止めてくれた彼女の体は小さく、されどひどく温かい。
フィルゼは三年越しに明かされた主人の思惑と、事を成すために己の命さえも捨ててしまえる覚悟を前に、暫く何も考えられなかった。
ややあって、全てを知っていながら誰にも真実を話すことが出来なかった、当時のアイシェの不安定な状態に合点が行く。彼女は父の死から立ち直れなかったのではなく──父が本当に計画を実行してしまったことと、それを止める力が自分に無かったことを、強く悔いていたのだろう。
フィルゼは震えた息を吐き出し、細い背中に両腕を回す。
「……悪かった」
「えっ?」
「もっと早く、戻るべきだった」
口をついて出たのは、謝罪の言葉。
アイシェは驚いたように息を呑むと、彼の肩に顔を埋め、小さく首を振った。
「お父様は、フィルゼさまをとても心配していました。〈白狼〉に選ばれた騎士はみんな、主人の死後、自らも後を追ってしまったから……」
だから、と彼女は抱き締める腕に力を込める。
「わたくしは、あなたと出会えただけで、幸せです。だって、ずっと…………」
そこでピンク色の頭がふと持ち上がり、途切れた言葉の続きを探すように傾く。フィルゼがそっと抱擁を解けば、視線を彷徨わせていたアイシェと目が合う。
彼女は残念そうに眉を下げて微笑んだ。
「えへ……記憶、まだ全部は思い出せてないみたいです」
「……そうか。……痛みは?」
「平気です」
傾いた頬を右手で掬い上げると、アイシェは自らそこに顔をすり寄せる。その双眸がホッとしたように細められるのを見ていれば、おもむろに視線が寄越されて。
「フィルゼさまは大丈夫ですか……?」
いつも通り、自分のことを二の次にして問う彼女に、フィルゼは小さく苦笑した。
「ああ。……今思えば……おかしかったんだ。三年前、どうして陛下が暗殺を予期できなかったのか……不思議に思うことはあった。あの人がデルヴィシュの思惑に全く気付かないなんて、そんなこと有り得るのかって」
だが結局それは、〈白狼〉の役目を全う出来なかった役立たずのせいなのだと、当時のフィルゼは自己嫌悪に陥るばかりだった。
蓋を開けてみれば、全てを仕組んだのは殺された当人で。狼月の民は彼に導かれるがまま、各々の平穏を取り戻さんと動き始めた。
何も語ってくれなかった主人を恨むつもりはない。むしろ。
「……どこまで行っても狼月の皇帝なんだな。あの人は」
変わらぬ畏敬の念を吐露すれば、アイシェは誇らしげな、それでいて悲しげな笑みで頷いた。
二人が暫し無言でいれば、おもむろに黒い頭が間に割り込む。メティだ。二人の様子を心配してか、近くまで寄って来たらしい。
「メティ。うふふ、大丈夫ですよ。わたくしは元気です」
彼女が黒馬と戯れる姿を眺めながら、フィルゼはふと尋ねてみた。
「……それで、〈豺狼〉には何を聞いていたんだ?」
「あ……えっと」
アイシェは黒馬の顎を撫でつつ、昨日の記憶を振り返るようにして宙を見つめて言う。
「ケレム・バヤットは……お父様のことがとても好きだったみたいで」
「は?」
「あっ違います、あの、何でしょうか、人としてというか、お気に入り? だったみたいです!」
開口一番に気色悪い話が飛び出し、フィルゼは思わず低い声を上げてしまったのだが、アイシェが冗談を言っているようには見えず。他人の気持ちに敏感な彼女がそう判断したのだから、恐らくは事実なのだろう。全くもってフィルゼには理解できないが──。
「あの方はお父様の死に対して、真っ先に疑問を抱いた人でした」
「!」
「先程フィルゼさまも仰った通り、お父様が暗殺を予期できないはずがなかったと……。だから、デルヴィシュの求めに応じる形で、狼月に戻ってきたのだと言っていました」
「まさか……陛下の死の真相を探るために?」
呆気に取られたフィルゼが問えば、アイシェは静かに頷いた。
ケレム・バヤットは最初から、デルヴィシュのために動くつもりなど更々なかったのだ。愚かな皇帝は彼のことを友人と認識していたようだが、ケレムの関心は良くも悪くもずっとルスランにしか向いていなかったのだろう。
「オルンジェック公爵家が持つお屋敷や、お父様がかつて所有していた城を中心に買い取って、いろいろと調べていたみたいです。……わたくしは、あの方がお父様の病について勘付いていないか……それだけ確かめたくて」
「……どうだった?」
「幸い、お父様の診察記録などは全て処分してあったみたいです。だから何も」
アイシェはかぶりを振って、「でも」と遠慮がちに付け加える。
「……あの方は多分、お父様の病と三年前の計画を知っても、何も言わずに狼月を去っていたような気がします。『対話』の相手はもういないから……」
「なら一生教えてやるなよ。奴には死ぬまで罪を償う義務があるからな」
「は、はい……!」
ヤムル城塞都市やブルトゥルの惨状は言うまでもなく、ケレムには数えきれない前科がある。せっかくのこのこと狼月に戻ってきたのだから、この機を逃す謂れはない。況してルスランに不気味な執着心を抱いていたというのなら──その娘であるアイシェに関心が向く可能性だって大いにあるのだ。
二度と外に出してはならないと念を押すフィルゼに、アイシェはこくこくと神妙な面持ちで頷いた。
と、そのとき。
「おやぁ、これはこれは……」
のんびりとした、嗄れた声が二人に掛けられる。
メティの体でちょうど遮られてしまっている人影を確かめようと、二人がそれぞれ上体を傾けたなら、そこには見知らぬ老人が立っていた。
腰の曲がった小柄な老人は、優しげな笑顔で自身のたっぷりとした髭を撫でつけ、「ごきげんよう」と挨拶を寄越す。
フィルゼが怪訝な顔をする一方、アイシェは「あ!」と慌ただしく立ち上がった。
「あ、あなたはもしかして、えっと……」
アイシェが両手で目元を覆い、沈黙する。
やたらと長い熟考の末、ようやく彼女は該当する記憶を掘り当てたようだった。
「サーリフ先生!」
「ほほ。はいはい、サーリフですよ。お久しぶりでございますな、アイシェ様。お元気そうで何より」
人の良さそうな笑顔で肯定したサーリフ医師に、アイシェは喜びを露わにその場で小さく飛び跳ねたのだった。
◇
「陛下の侍医⋯⋯」
湖とクローバーを一挙に見下ろせる、ゆるやかな丘の上。そこに立つ一本の大きな木を日除けにして、フィルゼたちは長閑な景色を眺めていた。
「⋯⋯あんたと面識はなかったと思うんだが、俺が忘れてるだけか?」
草地に胡座をかいたフィルゼは、すぐ後ろで腹這いになっているメティに軽く背を預けて問う。
彼の傍らには、素朴な長椅子に座るアイシェとサーリフがいる。身長も体格もそれほど変わらないばかりか、のんびりとした空気まで似ている二人は、ヨンジャの丘の穏やかな景色に溶け込むかのようだった。
「ふむ、どうでしたかのぅ⋯⋯フィルゼ殿は昔っから、お怪我をしても自ら医者の元には来ませんで。たまぁに血みどろで気絶した貴殿を手当てしたぐらいですかな」
──これは相当世話になったことがあるなと、フィルゼは苦い面持ちで額を押さえた。
彼が当時の礼を述べる傍ら、アイシェはおろおろとサーリフ医師の手を握る。
「ち、ちみどろ⋯⋯!? サーリフ先生、フィルゼさまが血みどろで気絶って……?」
「ほほ。ティムール殿との長過ぎる手合わせに疲れて、顔面に木剣をガツンと食らったんだったかの? その後も訓練を続けたもんだから、案の定バタンと倒れて」
「フィルゼさま、そんな大怪我を負ったら真っ先にお医者様に行かなくちゃ駄目です!」
「返す言葉もない」
アイシェがフィルゼの危なっかしい過去を嘆く傍ら、サーリフ医師は彼女の手をやんわりとひっくり返す。爪の一つ一つをじっくりと眺めた彼は、安心した様子で眦を下げた。
「サーリフ先生?」
「うん? 何でもないよ」
アイシェのほっそりとした指を温めるように揉みほぐし、ぽんぽんと甲を軽く叩く。不思議そうに首を傾げた彼女はしかし、サーリフ医師に微笑まれたことで釣られて笑み崩れた。
──幼い姫が不安がらぬよう、昔からこうして触診をしていたのだろう。
今まで出会ったアイシェの関係者の中でも、サーリフ医師は最も彼女と気が合ったのではなかろうか。のほほんとした空気を前に、フィルゼが微かに眠気を覚え始めたときだった。
「ところでサーリフ先生、どうしてお一人でこちらに? お父様の侍医を引退なさってから、もう随分と経ちますよね……?」
「ほほ。巷の噂を聞いて、そろそろ姫様がいらっしゃる頃かと思いましての。老体に鞭打ち、ヨンジャの丘までやって来た次第でございますよ。ちょうどお目見えできて良かった」
「えっ」
サーリフ医師はゆったりとした所作で懐に手を差し込むと、二通の文を取り出した。
彼はどこか懐かしむような笑みで文を見詰め、恭しくアイシェに手渡したのだった。
「陛下のご生前に託されたものでございます。どうぞお読みください、殿下」




