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追放剣士とピンクの毛玉  作者: みなべゆうり
14.クローバーの約束

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14-3

 ヨンジャの丘は、変わらず美しい景観を保っていた。

 瑞々しいクローバーの緑色。日差しを浴びて煌めく湖。丘の上に聳え立ち、穏やかな風を受ける城。

 黒馬の鞍から降り、細道に敷かれたタイルを踏みしめる。そのまま上着の内ポケットに収まっていた毛玉を地面に降ろしてやれば、程なくして人間の娘がべしゃりと転がった。


「うう、わたくしはいつになったら転がらずに戻れるのでしょうか……」

「大丈夫か?」

「はい」


 毛玉の腕を引いて立たせてやると、彼女は外套を軽く払いながら周りを見渡した。

 足元に広がるクローバーの絨毯を見詰め、淡いブルーとピンクの瞳が寂しげに揺れる。以前、まだ何一つ記憶が無い状態で訪れたときは、こんな表情は見せなかった。

 フィルゼは何と声を掛けようか迷ったが、元からそこまで口達者ではないことは自覚している。結局、気の利いた言葉は思い浮かばず、彼女に手を差し出すことしか出来なかった。

 しかし、毛玉はその手を握りはしたものの、城の方へ歩こうとはせず。


「……ここで大丈夫です」


 毛玉はそこでゆっくりと息を吐き出すと、少しの間を置いてフィルゼを見上げた。


「フィルゼさま。わたくし、ここでお父様と……ある約束をしたことを、思い出しました」

「……陛下と?」


 思いのほか掠れた声で問えば、彼女は浅く頷いた。


「風吹き砦で狼の姿になったとき、一面のクローバーが見えました。そこにはお父様が立っていて……わたくしにこう告げたのです」



 ──内緒にしておいてくれ。……私と、アイシェだけの秘密だ。

 ──全てが終わる、その日まで。



 己の名を自ら口にした彼女は、僅かな驚きと共に黙り込むフィルゼに、やわらかく微笑む。


「アイシェとお父様の、誰にも言ってはいけない秘密です。……ですが、昨日一日悩んで、やっぱりあなたには告げないと駄目だって、思いました」


 亡き父が選び、傍に置き、大切に育てた小さき狼。

 隠された皇女を助け、再びここに連れて来てくれた誇り高き騎士には、秘密を知る権利があるはずだ。

 毛玉──否、アイシェはそう語ると、繋いだ手を両手で包み込む。

 そうして、静かに打ち明けた。



「お父様は病に侵されていました。例えあの日(・・・)、デルヴィシュの手によって殺されずとも、その生涯は間もなく閉ざされていたことでしょう」



 強い風が吹き抜ける。

 クローバーが微かな音を立てて揺れる様を後目に、フィルゼはただ硬直していた。

 碧色の双眸が次第に見開かれてゆくのを見たアイシェは、一瞬だけ泣きそうな顔をしたものの、手を強く握ることで堪えたようだった。


「病だと?」


 フィルゼは口の中で呟き、まさかと頭を振る。

 ルスランが病に侵されていたなど、一度も聞いたことがない。否、だからこそ父娘だけの秘密だったのだろうが──にわかには信じられなかった。

 いつも人前では悠然とした態度を崩さなかったルスランを思い返し、それと同時に、彼が語った言葉がふと脳裏をよぎる。


『そう見せかけているだけだよ』


 皇帝たる者、隙を見せれば付け入られる。形だけでも取り繕わねばならないのだと、自嘲気味に笑う主人の背中が。


「……お父様は、ご自分の死期が近いことを察しておられました。でも、お父様には堂々と跡を継がせられる子供がいません。まともに人前に立つことが出来ない、わたくししか……」


 ギュネ族の血を受け継ぎ、自力では人の姿すら保てない、曰く付きの皇女。

 例え身近な者たちがそう思っていなくとも、世間からの評価は分からない。ルスランは統治者として客観的に自分の娘を見たとき、それが新たな皇帝に相応しいかどうかを考えたのだろうと、アイシェは弱々しい笑顔で言った。


「このまま病で倒れてしまえば、帝位は順当にデルヴィシュのものになる。そして彼を傀儡として、お母様を殺した貴族たちが台頭することも、目に見えていました」


 事実、今の宮廷はルスランが想像した通りの勢力図になっているのだろう。デルヴィシュは皇帝の器にあらず、かつてエジェを糾弾し、帝室の血統を声高に訴えた者たちが実質的な権力を握り、狼月を内側から腐らせている。

 ルスランは己の余命と、娘の進む道、そして狼月の未来を考え、ある計画を企てたという。


「お父様は、狼月の民に疑念の種を撒くことにしました。自らの死をもって、わたくしやフィルゼさま、あるいは名もなき英雄が帝位を覆すときに、その大義名分を与えようとした」

「……!」

「だからフィルゼさま。三年前、あなたはお父様を助けられなかったのではありません。あの日、お父様は──デルヴィシュを罠に掛けるために、絶対にあなたを呼ぶわけにはいかなかったのです」


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 迫る歓喜の足音は愚者の行進でしかなかった。賢帝を慕う者たちによって疑念の種は広く撒かれ、過ちに気付かぬ貴族たちはまんまと皇女を殺しにかかった。今、狼月はデルヴィシュ帝の退位を求める声で埋め尽くされ、民は帰還した四騎士と謎に包まれた皇女に期待を寄せている。

 賢帝の企ては、目論み通りに実を結ぼうとしていた。


『小さき狼、どうか泣いてくれるな』


 主人の声が木霊する。


『私と共倒れなど、許しはしないぞ』


 ここでお前が立ち止まれば、誰が皇女を支えるのかと。


『逃げなさい』


 ベルカントの騎士に、二度と濡れ衣など着せてはならないのだから。


『……頼むよ、フィルゼ』


 息絶える間際、囁かれた懇願の声がよみがえり、フィルゼはとうとう膝をついた。



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