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──セダ・トクという人物について、フィルゼはあまり深く知らない。
若かりし頃の彼女が母后との茶会に招待された際、たまたま宮殿で鉢合わせたティムールに一目惚れされ、二年にも渡る死ぬほど暑苦しいアプローチの末に結婚したことは、多くの人から聞いたことがあるが。
ただ、セダがティムールとは対照的に寡黙な人物であることはよく知っている。そしてルスランの乳母に指名されるに当たり、彼女がその豊富な知恵を彼に惜しみなく分け与えたという話も。
あとは──。
『フィルゼ殿。こちらに』
フィルゼが怪我をして宮殿へ帰還するたび、襟首を引っ掴んで椅子に縛り付け、黙々と手当てをしてくれた記憶は今もなお鮮やかだった。
『そのような血みどろの姿で謁見すれば、陛下が心配なさいます。もう少し配慮なさい』
『……爺さんもそうだった?』
『あの人は担架で運ばれて陛下に医務室までご足労いただいたことがあります。反面教師にするように』
『はい』
心底呆れた声で夫の醜態を語る一方、包帯を巻く手は終始、フィルゼを労わるように優しかった。
◇
ちゃぷ、ちゃぷ。
夕暮れ時。小川の浅瀬に半分ほど浸かったピンク色の毛玉は、心なしかぐったりとしていた。
時折、心配そうにメティが鼻先を近付けると、もぞもぞと擽ったそうに体を揺らしてはいる。
見た目がただの毛玉ゆえに分かりづらいが、この反応の乏しさが、先程記憶を無理やり呼び起こそうとした代償であることは確かだった。
「……まぁ、やっぱり森で産まれたんじゃなくて、記憶を失った上で毛玉になったってとこか……」
フィルゼは小さく呟き、浅瀬から毛玉を拾い上げた。
イーキンを安全な場所まで送り届けた後、ぞろぞろと付いて来てしまった三頭の馬を草地に逃がすと、毛玉が急に「暑いです」と言い出したので、偶然見つけた小川で休息と相成った。
よくよく聞いてみれば、暑さというよりは渇きのようなものを覚えていたらしく、ならばと水に浸してみたが……。
「毛玉、どうだ?」
「冷たくて美味しかったです」
「あれで飲めてたのか……」
独特な水分補給の方法が判明したところで、フィルゼは傍らに置いた外套の上に毛玉を乗せる。そうして自身も清流に手を突っ込み、冷たい水を口に含んだ。
日が落ちてきたため、今日はこの辺りで寝てしまおう。日の出と共に出発すれば、明日の夜までにはティムールの所有する別邸に到着できるはずだ。
フィルゼが携帯食の干し肉をかじりながら明日の予定を組み立てていると、後ろから「ふんん」と声が聞こえてくる。
見れば、毛玉が足を生やしている真っ最中だった。
「……。毛玉、あんた手は生やせないのか」
「えっ?」
にょき、と生えた短い両足を持ち上げ、毛玉が不思議そうに傾く。
「うーんと、手……ふんん」
そして暫く前後に揺れていたのだが、手らしきものは生えてこない。
やがて毛玉はピタリと動きを止め、フィルゼの方を見上げたかと思うと、悲しげに泣いた。
「えーん……生えません……」
「誰でも得意不得意はあるからな」
あまりフォローになっていない言葉を返しながら、フィルゼは毛玉をおざなりに撫でておく。
しかしそのとき、彼らの頭上を覆う樹冠から、数羽の小鳥が羽ばたいた。キュルキュルと鳴きながら枝から枝へ飛び移る姿を、フィルゼと毛玉が何気なく仰ぎ見た瞬間。
「ふふ、可愛い小鳥さんですね」
毛玉に触れる手のひらが、明らかにいつもとは異なる質感を捉える。
視線を下に戻せば、ピンク一色の鳥がそこにいた。
「は!?」
「どうかされましたか? フィルゼさま……まあ! わたくしの足がとっても鋭利になっています!」
毛玉も自分の姿が変わっていることに気付き、鳥類特有の枝のように細く長い三前趾足をぴこぴこと動かす。
そこだけならフィルゼも普通の鳥として見ることができたのだが、問題はそこから上だ。
今しがた頭上を飛んでいた小鳥と比べると、毛玉は全体的に縦長だった。ひょろっと伸びた首の先、小さな顔には少々不釣り合いな大きな嘴が生え、焦点が合っているのか微妙な眼球らしき窪みもある。
何と表したものか、簡潔に述べるのなら──嘴と足の比率がやけにデカい鳥もどきか。
「え、な……何を見てその姿になったんだ、あんた……」
「わあ、わあ! フィルゼさま見てください、羽も付いてます!」
毛玉は自分の新しい姿に大興奮で、先程までの不調も吹っ飛んだようだった。
背中に折り畳まれていた羽をワサワサと動かし、鳥にしてはだいぶ大股でその辺を歩き始める。
何故か抜き足差し足でおっかなびっくり歩いては、その歩幅が球形のときとは段違いに大きいことに感激し、また熱心に大股で歩く。
飛べよ、という言葉を飲み込み、フィルゼはピンクの鳥もどきを両手で抱き上げた。
「きゃあ」
「手を生やそうとしてたんじゃなかったのか?」
「小鳥さんを見てたら、羽は生やせないのかなぁって思ってしまって。えへへ」
つまり鳥を見て念じただけで、姿を真似たということだろうか。ついさっき「元々は人間説」が浮上したというのに、ここへ来て毛玉の謎の生き物っぷりがまた強調されてしまった。
フィルゼは顔を顰めつつ、ばたばたと足を動かす毛玉の下に腕を添えてやる。ガッ、と趾が引っ掛かって地味に痛かったが、やはり重さはあまり感じなかった。
「あっ……メティ、大丈夫だ。毛玉だぞ」
「メティ~! わたくし鳥さんになりました~!」
そして、謎の鳥に怯えていつの間にか遠くへ避難していたメティを呼び戻したのだった。




