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「フィルゼ」
頬に触れた指先の感触を、今もまだ覚えている。
焦点の合わない瞳を追いかけて、いくら顔を割り込ませたとしても、彼にもう視力が残っていないことは分かっていた。
だからこそ何度も呼びかけたのだ。
自分はここにいると。まだここにいるのだと。
「フィルゼ。いけないよ。早く離れなさい」
そんな懇願が聞こえているのかいないのか、彼は静かに言葉を紡ぐ。
赤く汚れた唇に微笑を湛え、使い物にならない瞳を閉じて。
「小さき狼、どうか泣いてくれるな。私と共倒れなど、許しはしないぞ」
全てが仕組まれた新月の夜、喜びに満ちた足音が迫る。
消え入る命の鼓動とは裏腹に、それはひたすらに大きく育ち、やがて扉の前へと至った。
「逃げなさい」
主から下された最後の命令に、その狼はどうしても従うことが出来なかった。
◇
「──もし、そこの銀髪の、お若い旅人様!」
夜空に浮かぶ、細くおぼろげな三日月。
涼しげな虫の声と、揺れ動く木々のさざめきだけが支配する夜の森で、聞き慣れた定型文が投げ掛けられる。
「わたくし、今、とても困っているのです。どうかお助けください……」
それが自身へ向けられたものと知り、青年はゆっくりと足を止めた。
さっと辺りを見渡してみるも、物騒な事件が起きた様子はなく、どこかで火の手が上がっているわけでもない。
さほど緊急性は高くなさそうだが、助けを求める声には切実さが滲んでいた。
「もし!」
「聞こえてるよ。あんた、どこにいるんだ?」
「ああ良かった! わたくし、わたくし……」
高く、ふわふわとした声が徐々に小さくなる。
何か考え込むような間を置いてから、声が再び大きくなった。
「上の方にいます!」
「上?」
言われた通り顎を持ち上げてみたが、それらしい人影は見当たらない。
ぐるりと体を回転させてみても、ただ木々の群れが広がっているだけだった。
「いないじゃないか」
「え? いま確かに目が合いました! い、意地悪を仰っていますか……っ? それは、それは酷いことです! 怒りますよ!」
「あんたこそ言いがかりを付けるな。本当にどこにも……」
「あ、ほら今、しっかり目が合っています! そのまま前に!」
迫力のない声で怒ったかと思えば急に喜び、指示に従って進めば「行き過ぎです」と落胆する。
噛み合わないやり取りを続ける内に段々と、今話している相手が人間ではなく怪物の類なのではないかと疑う気持ちが青年に芽生えてきたが、その頃になってようやく声が「そこです!」と確信を交えて言った。
「真上を見上げていただいても? わたくしはここです!」
──ここと言われても。
何もない枝の分かれ目を凝視すること暫し。密集した葉の隙間から、淡いピンク色の糸くずのようなものが見えた。
青年がよく目を凝らしてみれば、それは至るところに引っ掛かっていることが分かる。ともすればビリビリに破けた布よろしく、大小さまざま無惨な状態で。
「……ひとつ聞いても良いか」
「何でしょう?」
聞こえる。
この千切れたピンク色の何かから、声が。
「あんた、人間じゃないのか?」
「え!?」
声はひどく驚き、この失礼な男を今すぐ叱らねばと息を吸い込んだようだが、すぐさま思い直した様子で勢いを失くした。
そして、逡巡。
「言葉は通じているのですから、人間にカウントしちゃ駄目ですか?」
「そうか。人語を話す危険な化物みたいだからここで燃やしとくか」
「えーん!! 何て物騒なことを! わたくし何処をどう取っても無害ではありませんか! お顔だけ見たら親切な御方かと思ったのに!」
「うるさいな」
ピンク色の何かは失礼なことを言ってぴぃぴぃ泣き始めた。その声が全ての布切れから生じているせいで、何重にも重なって声が聞こえてくる。
例えその声が愛らしさを感じるものであってもだいぶ気色悪いので、青年は渋々と樹皮に触れ、よじ登れそうな箇所を探すことにした。
「はっ……助けてくださるのですかっ?」
「これで助かるのかは知らないぞ。しばらく静かにしてくれ」
スンと声が止まった。
またぺちゃくちゃ喋り出す前にと、頭上の枝を跳躍して掴み、軽く勢いをつけて両脚を宙へ蹴り上げる。そうして丈夫な枝の上へ飛び乗ってみれば、更に多くの布切れがあちこちに散っていた。
試しにひとつ触れてみると──不思議なことに、ほとんど感触がない。
シルクのように滑らかな手触りが訪れた直後、水か砂のように指を滑り落ちるのだ。掴み損ねた布はまた枝先に引っかかり、ぷちりと千切れて、引っかかって。
非常に、面倒臭い。
「あっ、きゃー! 落ちるー! えーん!」
手で掻き集めるのは早々に諦め、枝を揺らして布切れを振り落とす。悲鳴を無視して足を上下させ続けること暫し、視界から全てのピンク色が消えたところで青年は地上へ飛び降りた。
そうして地面に落ちた布切れを両手でかき寄せてやると、手元から困惑の声が上がる。
「あ……!? な、何だか体がくっつきそうです! 両手でぎゅっとしてくださいますか!?」
「こうか?」
「えーん! もう少し優しく!」
我儘な布だ。
我儘な布とは?
首を傾げつつ、鷲掴んでいた布の塊を一旦離し、優しく包み込むぐらいの力加減でピンク色をぎゅっと両手で丸める。
手の中でふわふわぱやぱや、毛羽立ったピンク色の球体は、さながら。
「毛玉みたいだな」
「毛玉?」
声の重なりが不意に解消されたことに気付き、両手を離す。
ピンク色は崩れることなく、それなりに綺麗な球形を維持したまま、コロンと地面に転がった。
「あっ、ああ! 助かりました旅人様! やっと自分の意思で動けそうです!」
「それでか?」
「え? 多分……見ててください。ふんん」
布切れ改め、ピンクの毛玉がうごうごと動き出す。
まさかここから何か別の姿に変身するのかと、青年がつい固唾を飲んで見守ってしまったのも束の間。
「えい!」
にょき、と毛玉から小さな両足が生えた。
しっかり膝関節がありそうなピンク色の二本足はバタバタと空を蹴った後、すっくと直立してみせる。
衝撃的な姿に青年が絶句する傍ら、毛玉はぴょんぴょんと両足で跳ねたり駆け回ったりと、一頭身を最大限に使って喜びを表現していた。
「わー! ありがとうございます、お優しい旅人様! この御恩は必ず返しま」
「いい。いいからこっちに来るな」
「そう遠慮なさらずに! 旅人様のお名前を伺ってもよろしいですか?」
ブーツの爪先に乗り上げ、キャッキャと嬉しそうにじゃれつく毛玉。そのあまりの無邪気さに、青年は振り払おうとしていた足を辛うじて地面に縫い付ける。
偽名を伝えるか、そっと木の上に戻すか、走って逃げるか──いろいろ考えを巡らせた青年だったが、本人の言う通り害意は感じられないし、別にそこまで警戒する必要もないかと溜息をつき。
「……フィルゼだ」
「フィルゼさまですね! 覚えました! あ、わたくしは」
恩人の名前を聞けて大喜びの毛玉は、自己紹介に移ろうとしたところでピタッと動きを止めた。
顔も何もない、足だけ生えたのっぺらぼうの毛玉と見つめ合うことしばし。
フィルゼが怪訝に眉を上げたなら、毛玉がブーツの爪先からころりと落ちて。短い足を投げ出したまま虚空を見詰めたかと思えば、ようやく結論が出たように立ち上がった。
「わたくし、多分さっき産まれたので……! 名前はありません!」