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090 酔い

「……美味いな」


 謝倹(シャケン)は酒に口をつけるなり、そう感想をこぼした。芽衣の持参した酒だ。


「でしょう?謝倹さんはお酒が分かってるねぇ」


 芽衣はコロコロと笑って手を叩いた。そして酒の瓶を持ち上げて前に突き出す。


 次を注ぐから杯を干せ、という意味だ。


 謝倹は芽衣の促すままに一気に飲んだ。しかし正直な気持ちとしては、急いで飲むにはあまりにもったいない酒だった。


「口当たりが優しく、滑らかだ。癖がなく、それでいて香り高い。特に鼻に抜ける吟醸香の豊かさはどうだ。酒だけで飲んでも美味いし、料理に合わせてもこれなら何でも合うだろうな」


「おーおーおー……語りますねぇ。いいですよぉ、酒呑みは語るものです。集まれば人とも語るし、一人の時は肴と語る。肴は干物でもいい、漬物でもいい、花でもいい、鳥でもいい、月でもいい。黙って語りながら、飲むのも楽しいんです」


「なかなか詩人じゃねえか。嫌いじゃねえよ」


 謝倹はまた杯を干しながら笑った。なかなか酒の分かる女だ。飲み仲間に欲しい。


「しかし、こんな酒は俺も飲んだことがない。一体どこで作ってるんだ?」


 芽衣は首を傾げてうなった。


「んー、許靖おじさんがくれた物だから分かんない。何でも昔、張飛とかいう強い武人さんと人里離れた山奥で作ってる所を見つけたとか言ってたけど」


 謝倹は『許靖』という人名に聞き覚えがあるような気がしたが、あまり気にせず流してしまった。


「なんだそりゃ、まるでおとぎ話じゃねえか。強い武人と冒険して仙人の里を見つけました、みたいな。実際、仙人が作ってんじゃねえのか?」


「さぁ?なんか(かわうそ)がお祭りしてたみたいなこと言ってた気がするけど」


 謝倹は危うく酒を吹き出しかけた。


 さすがに女に酒を吹きかけるわけにはいかなかったので、頑張ってこらえる。


「ははは、お前そりゃお祭りじゃなくて先祖を祭ってるんだよ。礼記(らいき)の一説にあるんだよ、そんなこと書いてあるところが」


 礼記は儒教の『礼』に関する事柄をまとめた書物だ。謝倹はこれでも育ちが良いため、その辺りの教育はしっかり受けていた。


「ぇえ?でも、それがお酒となんの関係があるの?」


「そりゃお前……俺も分からねぇけど。まぁ美味い酒が飲めるんだから、何だっていいじゃねえか」


「そうそう、酒が美味しければ何だっていいよねぇ」


 芽衣は笑い、卓に身体を溶けさせるようにしなだれた。


 謝倹も笑った。楽しい。そう思った。


(やっぱりこんな眠れない夜は、酒と女に限る。そいつをちょいと引っ掛けりゃ、眠れるようになるってもんだ)


 しかし、改めて考えると変な女だ。


 酔っ払って突然豪族の屋敷に押しかけ、一番偉い人間と飲ませろと言う。素面なら完全にやばい人間だろう。


「しかしお前、偉い人間と飲むのが好きだなんて変な趣味してんな」


「そうかなぁ。偉いものとか強いものとか、皆好きなんじゃない?」


(なるほど、こいつの好みはそういったところか)


 浅はかな気もするが、そういった女は今まで腐るほど見てきた。謝倹としては分かりやすくて嫌いではない。


「俺はな、偉いだけじゃなくて腕も立つぜ」


「えー、そうなの?あんまりそうは見えないけど」


 芽衣は冗談めかして笑ったが、謝倹はむっとした。


 女から好かれたい下心で言ったことだが、あながち嘘ではない。


「本当だよ。俺の仲間内は荒っぽいのも多いからな。多少喧嘩慣れしてねぇと、そいつらはまとめられねぇよ」


「そうなの?じゃあ、証拠を見せてよ」


「証拠?」


「そうそう、証拠。私の目の前で、誰かをぼこぼこにしてみてくださいー」


 さすがに謝倹は冗談だろうと思ったが、それにしても芽衣の言うことに呆れた。


「ぼこぼこって、お前……」


「何よー。ここで一番偉いんだから、一人や二人ぼこぼこに出来るでしょー」


「馬鹿言うな。俺はな、仲間内では身内を大切にすることで有名なんだよ。屋敷の人間を殴れるか」


「えー……この屋敷には身内しかいないの?」


 そう言われて、謝倹はふと思い出した。


(そういえば……王朗の付き人を捕まえてたな)


「あぁ、北の離れにいるにはいるな。身内じゃないやつが」


 謝倹の言葉に芽衣の瞳が一瞬細くなった。


 しかし謝倹はそれには気づかず、笑いながら言葉を続ける。


「でもあいつは駄目だ。すでにもう殴るところがないくらい、ぼこぼこにされてるからな」


 次の瞬間、謝倹は痙攣したように立ち上がった。芽衣に向かって身構える。


 しかし、芽衣はただそこに座っているだけで指一本動かしてはいなかった。


「……なに?」


 芽衣は今まで通りの笑顔で尋ねた。


「いや、お前が急に……八面六臂(はちめんろっぴ)の化物に見えてな」


「えー?何それー?」


 コロコロと笑われて、謝倹は自分でも自分のしたことが馬鹿らしくなった。


 今しがたこの小娘から死を覚悟するほどの殺気を感じたような気がしたが、どう考えても幻覚だろう。飲みすぎたのかもしれない。


 謝倹は再び席につくと、さり気なく芽衣の手を握った。


 芽衣の動きがピタリと止まる。


「なぁ……俺はお前の好きな、偉くて強い男だぜ?」


 謝倹に見つめられ、芽衣もそれを見返しながら答えた。


「んー……本当はね。偉くて強い男が好きってのは嘘なの」


「……何?」


「本当はね、優しくて頭が良くて気が利いて、でも気が弱くて押しに弱くてたまにちょっと抜けた所がある、素敵なお兄ちゃんみたいな人が好きなの」


 芽衣のまくし立てに、謝倹は鼻白んだ。


「……何だそりゃ。そんだけ具体的って、もう好きな男がいるんじゃねぇか」


 芽衣の手を離し、頭を掻いた。


 しかし次の瞬間には、今度は芽衣の肩を掴んでいた。


「……でも、わざわざここまで来て男とサシで飲んでるってことは、嫌じゃねぇんだよな。お前から誘ってきてんだ。乗っかってやるよ」


 その言葉の通り、謝倹は芽衣に乗っかろうとして押し倒してきた。


 芽衣は謝倹の袖を掴み返したが、押し倒してくる力に抵抗はしなかった。いや、むしろ自分から思い切り後ろに倒れようとして謝倹の袖を強く引く。


「残念でした」


 急激な力で引かれた謝倹は驚いたが、態勢的にもうそのまま倒れ込むしかなかった。


 倒れ込みながら、芽衣は短い気合いとともに謝倹の股間を強く蹴り上げた。巴投げの要領、倒れ込む力と蹴りの威力とで、謝倹の小さくない体が投げ飛ばされる。


 謝倹は高く宙に浮いてから地面に叩きつけられた。あまりの苦痛に股間を押さえてうずくまる。低いうめき声が部屋に響いた。


「悪いけど、私に乗っかれる男は世界でただ一人だけなの」


 芽衣は苦しむ謝倹に背後から近づくと、その首筋に素早く手刀を叩き込んだ。


 謝倹はその姿勢のまま昏倒した。


「まぁ……私は乗っかられるより、乗っかる方が好きだけど」

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