074 揚州
「許靖、よく来てくれたな。揚州はお前の思っている通り、中央近辺よりも安全だぞ。ここでゆっくり……」
陳温はそこまで言ってから、急に咳き込み始めた。強い咳で、なかなか治まる気配がない。
許靖はその様子に、猛烈に嫌な予感がした。孔伷がしていたのと全く同じ音のする咳だった。
許靖はその咳が落ち着くまで待ってから尋ねた。
「陳温、医者には診せているのか?」
「なに、大丈夫だ咳くらい。世には恐ろしい戦が満ちている。これくらいで医者にかかっていては揚州刺史など務められんよ」
陳温は白い歯を見せ、豪快に笑ってみせた。
まるで雷でも鳴っているかのような大きな笑い声だ。体格も良いので、咳をしているくらいでは病人には見えない。
しかし、許靖にとっては大切な知人を死に至らしめた咳と同じに聞こえるのだ。
「陳温、悪いことは言わない。早めに医者にかかってくれ。この戦乱の時代に、お前に何かあったら州の民はどうしたらよいのだ」
自分も揚州の民になる予定の許靖にとって、切実な願いだった。
が、陳温は大柄な腕を振って許靖の言葉をかき消した。
「心配などいらん。ただの風邪だよ。そもそも儂はこの齢まで風邪すら引いた事のないほど頑丈な身体をしているのだ。見ての通り、元気だよ」
「なら余計に今の咳には気をつけなければならないだろう。今までになかったことが起こっているわけで……」
許靖は口を動かしながら陳温の瞳を見て、どのように言えばこの豪快な善人を医者にかからせられるかを必死に考えていた。




