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068 心

「なに、許靖を逃がしただと?あれだけ監視をしっかり付けておけと言っただろう!」


 董卓の叱責に、部下が小さくなって頭を下げた。


「申し訳ございません……監視はしっかり付けておりましたし、洛陽を出る門の役人にも人相書きを渡して注意させていたのですが」


「それでなぜ逃がしてしまうのだ。そいつらはよほどの無能者なのか?」


 董卓は剣に手をかけようとした。


 この男は処刑を命じる時、剣を抜き放つ癖がある。それで周囲の人間も恐れさせようという計算があるのだった。


 部下は手を振って監視者と門番をかばった。


「い、いえ。決して無能な者たちではないのです。二人とも、顔中に包帯を巻いた男が出ていくのを見ているのですが、その男が許靖だと気づかなかったそうでして……」


 董卓は部下の発言に口を大きく開けて呆れた。


 どこから指摘すればいいのか分からなくなり、すぐには言葉が出てこない。


「……なんだと?顔中に包帯を巻いた男など、普通にそこらを歩いていても怪しさの塊ではないか。包帯を取って中身を確認しなかったのか」


「もちろん確認いたしました。しかし、中の顔は許靖とは似ても似つかなかったそうです。それに、本当に包帯だらけでおかしくないほど顔中が腫れ上がっていたとのことでして……ですが、その包帯男が後から城外で許靖の妻らしい女と合流していたという目撃情報が入り、恐らくあれが許靖だったのだろう、という結論に至りました」


 董卓は部下の回答に唸った。


「むぅ。ということは、許靖は顔の原型がなくなるほどに、自分で自分の顔を打ったということか……あの臆病者にしては、なかなかの度胸ではある」


「いえ、それが……おそらくですが妻の方が許靖を殴ったのだろう、とのことです」


「なに?妻が?」


 董卓は驚きに目を見開いた。


 この時代の儒教社会では、夫を家長として立てるのが常識だ。基本的に妻は夫を敬わなければならない。


 ましてや顔の原型がなくなるほど夫を殴るなど、考えられないことだった。


「なんでも許靖の妻は武術の強い女傑として、洛陽ではちょっとした有名人だそうです。ならず者や賊を懲らしめたこともあるとか」


 董卓は部下の言葉を聞いてしばらく唖然としていたが、やがて大音声で笑い声を上げた。


「なんだその女は!いいな、いいではないか。許靖から奪って、俺のものにしておけばよかった」


 哄笑を上げる董卓に部下はホッと胸を撫で下ろした。この様子ならおそらく董卓の機嫌は直るはずだ。


 部下も追従するように笑顔を作った。


「しかし、許靖の妻は四十も手前ということです。相国(しょうこく)がわざわざ自分のものにするほどのことはないでしょう」


 この時代は結婚が早い上に寿命も短い。四十手前となると、結構な年齢だった。


「なんだと?お前、今いくつだ」


 董卓は部下をじろりと見た。部下は一瞬緊張に身をすくませたが、即座に答えた。


「三十です」


「ふん……三十ではまだ艶の熟した女の価値は分からんか」


 董卓はそう言ってから、椅子の背もたれに体重を預けて許靖のことを考えた。


(正直なところ、惜しい)


 あれだけの人物眼を持った人間はそういない。


 反董卓連合などという包囲網を計画し配置したのは周毖だが、その実行には配置する人材を誤りなく評価できている必要がある。


 人材はおそらく有能なだけでなく、清廉で、胆力のある人間ということで選んでいたのだろう。


 そして、許靖に選ばせた人材はその多くが周毖の計画通りに動いてくれている。


(期待していた通りに動いてくれる人材ほど、上の人間が欲しい物はない)


 国の頂点に立つ董卓が日々思うことだ。


 許靖さえいれば、望む人材が正確に手に入るはずだった。それがこの手の中からすり抜けていってしまったのだ。女傑だという妻のせいで。


「惜しかったな……」


 董卓の小さなつぶやきを、部下が勘違いして言葉を返した。


「私はまだ未熟で女のことはよく分かりませんが、董卓様でしたら望めばどんな女でも手に入れられましょうに」


「ん?いや、許靖のことだぞ」


 部下は自分の勘違いに首を撫でた。


「ああ、これは失礼いたしました。しかしあのような臆病者、使えましょうか?」


 董卓の部下は戦での叩き上げが多かったため、このような発想を持つ者がほとんどだった。


 この部下もそうで、先日の周毖親族の殺戮の際、おびえる許靖を目にしていたので低い評価を持ってしまう。その思慮の浅さが董卓には歯がゆい。


 それに関して文句を言おうと思ったが、ふとその殺戮の光景を思い出して別のことを口にした。


「……いや、許靖は兵になったとしても、鍛え方次第ではなかなかの大物になったかもしれんぞ」


 部下は董卓が冗談を言っているのだと思って笑った。


「そうでしょうか?私には犬が震えているようにしか見えませんでしたが」


「いや、奴が男たちを殺すと決めてからの動きは決して悪くなかったぞ。三人目あたりからは正確に急所をついていたし、躊躇もなかった」


 部下はあごに手を当ててあの日の様子を思い返してみた。


「……言われてみれば確かに。意外にも手早く殺しておりましたな。殺された十人とも、あまり苦しまずに死ねたでしょう」


「十人?そうか、奴は十人殺したか」


 董卓は若い頃から戦の中で生きてきた。今さら何人殺そうが何とも思わなかったが、あの臆病な男には十人分の命は堪えるだろう。


 恐らく十人の重さで、これから死ぬまで苦しむことになるはずだ。


(いいだろう、この董卓を裏切る代償だ。一生苦しむぐらいで勘弁してやるとしよう)


 董卓はそう結論付けて、反董卓連合の対処へと頭を切り替えた。

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