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065 心

 その後、許靖は周毖(シュウヒ)の親族たちに明朝の脱出についての話をした。


「大変だとは思いますが、耐えてください。しばらく旅になるから今日はしっかり休んで。食べたくなくても何か口にして、眠れなくても横になって目を閉じておくようにしてください」


 そう言う許靖にあからさまな憎悪の視線を送ってくる女もいた。


 仕方ないことだろう。事情はどうあれ、許靖は彼女らの夫や息子、兄弟、父親をその手で殺したのだ。


 彼女たちは皆、許靖が悪いわけではないことを頭では理解していた。それどころか、自分たちが今生きていられるのは許靖のおかげであることを分かっているだろう。


 しかし、見てしまったのだ。許靖がその手で愛する者を(あや)めるところを。その記憶は理性と感情の壁を崩すのに十分な破壊力があった。


 許靖自身もそのことは理解できている。


(私は仕方がなかったとも、悪いことをしていないとも思ってはいない。今回の事は自分にもっと力があれば避けられていた事態かもしれない)


 そう考えていた。


 であれば謝罪の一言ぐらい出てよさそうなものだが、それが出なかった。


 何か言うべきだろう、とは思った。しかし謝罪を口にしようとした途端、喉が糊で貼り付いたように言葉を発せられなくなった。


(罪があまりにも大きすぎるからか……謝罪程度で彼女らの傷が癒えるわけはないからか……それとも私自身がまだ現実を認められないからか……)


 むしろその全てだろう。


 しかし理由が分かったからといって、許靖の喉が開くわけではなかった。


 ただ、やはり気持ちはきちんと伝えておいた方がいい。そう思った許靖は親族たちに向かって床に手をつき、頭を下げた。


 何も言わず、無言で床に額を押し当て続けた。そうしていると、だんだんと許靖の瞳から涙があふれてきた。


 それが止まらず顔を上げられなかったので、平伏したまま無言の時が過ぎていった。


 女性や子供たちもどうしていいか分からず、ただそれを見つめていた。


 部屋には許靖の嗚咽が響き、それに釣られた女子供たちの泣き声が重なっていった。


 人は泣くことで精神的な負荷を減らす事ができる。また、泣くことで気持ちが一段落ついて現実が受け入れられることもある。


 この場にいる全員にとって、泣くことは決して悪いことではなかった。


「あの……もういいですから」


 女たちの一人、一番齢を重ねているであろう老婆がそう声をかけて許靖を抱き起した。


 この老婆はあの惨殺があった時、子供たちをひとまとめにして抱き寄せ、惨劇を見せないよう計らってくれていた。


 抱き起こされた許靖は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げて、まだ泣き続けた。


 涙が止まらないのでいったん部屋を出て、心を落ち着かせ、顔を洗ってから部屋に戻ってきた。


「……失礼いたしました。もうすぐ妻が食事や衣服を用意してくれると思います。それまで少しお話させてください」


 そう言って許靖は一人一人の瞳の奥の「天地」を見て、その人がこれから強く生きられるような言葉を考えながら声をかけていった。


 当然ながら、自分を憎んでいるであろう者もいた。そういった人にはその憎しみには逆らわず、それを力にしてでも生きていけるよう話をした。


「あなた方の縁者を殺した私は、これからも生き続けます」


 憎い仇が生きていくのにあなたは死んでいいのか、仇よりも幸せになることがせめてもの抵抗ではないのか。


 そこまで言わずとも、言いたいことは伝わったはずだ。


(女性は強い。子供がいれば、それだけで生きていけるはずだ)


 子供たちが無事だったことだけは、許靖にとっても親族たちにとっても本当に大きな救いだった。子供を守るためなら、女性はどこまでも強くなれる。


 しかし子供たち自身はというと、やはり強い衝撃を受けているようだった。


 十歳程度の男の子で言葉を発せなくなっている子がいた。


(このぐらいの歳ならば、恐らくある程度の事情も大人の話す言葉も理解できているはずだ)


 許靖はその子の瞳の奥の「天地」を見て、ゆっくりと話しかけ、最後に一言、


「父上はもういない。母上と妹は君が守りなさい」


そう言うと、男の子は火が付いたように泣き始めた。


 母親の胸に顔を埋めてしばらく泣いた後、涙をぬぐってから許靖の前に立った。


「守る」


 そう宣言してから、母親と妹のところへ駆けて行った。


 その背中を見ながら、許靖は心に決意の刃を刺した。


(男だって強い。私も妻と息子を守るため、あの子くらい強くならなくては)

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