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060 董卓

 宦官の大粛清が行われた二日後、早くも許靖は庁舎へ出仕した。


 事態が落ち着いたので出仕するよう、主だった役人の家には前夜に連絡が来ていた。


 庁舎に着くと、さすがに死体は転がっていなかったが所々に血の痕が残っていた。生々しい。


(きっと許相(キョショウ)の血も残っているだろうな……)


 許靖は自分の執務室に行くのが嫌になった。


 憂鬱な気分で歩いていると、中庭前の広い通路でたまたま袁紹に出くわした。


(先日のことを謝っておかねばなるまい)


 許相には申し訳ないが、連座して罪を受けるのは避けねばならない。


 こうなった以上、おそらく政治の実権を握るのは袁紹だ。身を守るためにも押さえるべき所は押さえておかなければならないだろう。


「袁紹殿、先日は大変申し訳ございませんでした」


 そう言って頭を下げながら歩み寄る。


 袁紹は考え事をしていたようで、声をかけられるまで許靖に気づかなかったらしい。多少驚きの表情を見せ、それから袁紹の方からにじり寄ってきた。


 顔を近づけ、小声で話してくる。


「許靖殿、頼みがある」


「は、はい。何でしょうか?」


 袁紹の意外な行動に、許靖はたじろいだ。


董卓(トウタク)の人柄を()てほしい」


「……董卓?董卓というと、并州(へいしゅう)牧(州の長官)の董卓殿ですか?」


 許靖はその人名をおうむ返しに聞き返した。


 董卓は并州を治めるべき立場の役人だが、実質的にはその隣接地である涼州(りょうしゅう)の軍閥であると思った方が間違いないだろう。并州への赴任命令を受け入れず、涼州で軍勢を保持し続けている男だ。


 今は宦官勢力への圧力にするため亡き何進(カシン)に呼び出され、涼州兵を率いて洛陽郊外に駐屯していた。


 戦に強く、特に異民族の討伐などで定評があったが、前述の通り帝の勅命すら無視することもある扱いづらい男だった。


「許靖殿はまだ聞いていないのか?宦官に連れ去られて城外をさまよっていた帝を、董卓が保護したのだ。それから董卓は帝と軍事力とを抱えているのをいいことに、朝廷を取り仕切ろうとしている」


「なんと」


 許靖は驚愕した。


 当然軍事力も厄介だったが、帝を抱えているというのは恐ろしい。


 宦官も結局のところ帝に近かったことで権力を持つことができ、また守られていたのだ。


(帝を抱えていれば様々な命令を出すことができる。帝を(そそのか)すなり、脅すなり、偽の文書を作るなりすればいいだけだ。周囲が排除しようにも、帝を盾にすればそれも難しい)


 許靖は恐怖した。


 もちろん宦官であってもそれほど派手に『帝を使う』ことはしなかった。


 しかし、董卓は涼州にいる時から何度も勅命を無視している。忠義心などまるでないのだろう。帝を使うことに躊躇(ためら)いを覚えるとは思えなかった。


「そこでだ、董卓の人柄を鑑て私に教えてほしい。敵を知り、己を知れば百戦危うからずだ」


「私にも教えてほしいな」


 突然背後から声をかけられて、袁紹と許靖の心臓は跳ね上がった。


 ぎょっとして振り向くと、二人から五歩ほど離れたところに曹操が立っていた。


「二人とも、それほど驚かなくていい。他には聞こえていないぞ。袁紹は私の地獄耳なのを知っているだろう?」


「曹操殿、お久しぶりです。お変わりないでしょうか」


 曹操は黄巾の乱の褒賞により地方の宰相を務めていたが、そこで多くの功績を残した後、若くして官を辞した。


 その後はしばらく故郷で隠遁生活を送っていたが去年、皇帝直属の部隊を率いる『西園八校尉(せいえんはちこうい)』に抜擢され、また洛陽に戻っていた。


 許靖とも何度か会っていたが、忙しい身なのでここしばらくはご無沙汰だ。


 こんな状況で律儀に挨拶をした許靖へ、曹操は朗らかに笑いかけた。


「許靖どのは相変わらずだな。今は有事のようなものだぞ。袁紹の言うように、まず敵のことを知る必要がある」


 袁紹に続いて曹操も董卓を『敵』と言った。中央政府にいる多くの役人にとって、その認識で間違いはないのだろう。


(しかし、曹操殿は普通にしているな……)


 許靖はそんなことを考えながら袁紹と曹操を見比べた。


 曹操はいつも通り快活な様子でいるのに対し、袁紹はバツが悪そうに曹操の方を見ようとしない。


(大宦官の孫である曹操殿は、袁紹殿が行った宦官の大粛清に賛成できるはずはない。心の中でどう思っていようと、この様子の差はやはり器の差か)


 曹操は大宦官と呼ばれた曹騰(そうとう)の孫に当たる。当然、宦官が権力を持つ社会が続けば、その伝手で自動的に出世していっただろう。


 しかしそうしてくれるはずだった宦官たちはつい一昨日、袁紹が皆殺しにしてしまった。


 曹操が何も思っていないはずはないのだが、その瞳を見ても何の屈託も見て取れない。それとは対照的に、袁紹の天秤は不必要なほどに揺れていた。


「おお、噂をすれば、だな。本人の登場だぞ」


 曹操が顔を向けた方を見ると、輿(こし)に乗せられた少年とその周囲を護衛する屈強な男たちが近づいてきた。


 輿の少年は現帝の劉弁(リュウベン)だ。


 そしてその周囲にいる男たちの内、先頭のとりわけ体格の良い男が董卓だった。衣服などが他の護衛に比べて明らかに豪華なものなので、簡単にそれと分かる。


 董卓は五十過ぎの恰幅の良い男で、どこか野性味を感じさせる目つきをしていた。


 曹操が袁紹と許靖に耳打ちをした。


「董卓は護衛と称して、常に帝のそばにいるらしい。誰かさんが大虐殺を行ったのをいいことに『物騒な時世だから』とか言っているらしいぞ」


 そう可笑しそうに囁いた。


 その言葉に袁紹は眉をひそめ、口をへの字に曲げた。


 しかし、ここは端役の官吏も使う庁舎の一隅だ。普通なら帝が通るような所ではない。


(おそらく帝に董卓殿がついているのではなく、董卓殿がいるところに帝がついて行かされているのだろう)


 許靖は状況をそう推察した。これだけでも董卓が帝を純粋な力として扱おうとしているのが分かりそうなものだ。


 周囲に耳打ちをされた董卓が許靖たちに歩み寄ってきた。


「これはこれは、袁紹殿、曹操殿、許靖殿、ですな。并州牧の董卓です」


 鷹揚な口調で自己紹介し、笑いかけてくる。


 三人は帝がいるためひれ伏したが、結果として董卓に向かって(ひざまず)くような格好になった。


「顔をお上げになって結構ですよ。あなた方の有能なことはよく聞いています。これからもよく働いてくださいますように」


(お前のために働くわけじゃない!)


 許靖は特に何の感情も湧かなかったが、そんな袁紹の心の叫びが聞こえるようだった。


 董卓の言葉通り、許靖は顔を上げた。そして董卓の瞳を遠慮なく直視する。


(これは……まずいな)


 瞳の奥の「天地」を見た第一印象は、それだった。


(状況から考えると、大変なことになりうるぞ……)


 董卓はその後も上から目線で二言、三言、言葉をかけていったが、許靖はほとんど上の空で聞いていた。


 何を聞いてもまともに耳に入らないほど、唖然とした気持ちで瞳の奥の「天地」を眺めていた。


「では、後で百官を集めての朝議がありますので必ずご出席ください」


 最後にそう言い残すと、董卓は帝と共に去っていった。


 袁紹はその背中を苦々しい思いで見送ってから、許靖に声をかけた。


「後日、董卓と許靖殿とがしばらく話をできる環境を整えよう。そして、許靖殿が鑑た董卓像を聞かせてほしい」


 許靖はかぶりを振って答えた。


「いえ、今ので大体のことは分かりました」


「な、なにっ?今の、ほんのわずかな時間でか?」


 袁紹は驚きに目を見開いたが、曹操はその様子にうんうんと頷いている。


「許靖殿、何が見えた?」


 曹操に尋ねられた許靖は口を開こうとしたが、その口が重くなったように感じられた。


(現実を受け入れたくはないが、受け入れなくとも現実は降りかかってくる)


 仕方なく、努力して許靖は口を開いた。


「……董卓殿は若いころ、羌族(きょうぞく)などの異民族の間で暮らしていたと聞いたことがあります……その影響もあるのかと思うのですが……」


「なんだ、何が見えるというのだ」


 言いづらそうにする許靖を袁紹が急かした。


「董卓殿の瞳には、広い草原で胡服(こふく)を着て馬に乗り、羊を連れて生きる人々の様子が見えました」


「それは……羌族や匈奴(きょうど)などの遊牧民族の生活か?」


「私も直接見たことはないのでおそらくは、としか言えないのですが。少なくとも遊牧を生きる糧とした民族ではあるかと」


 曹操は許靖の様子を不思議に感じた。


「それだけ聞くと、別段問題のある人格だとは感じられないな。しかし許靖殿はあまり良いことではないように思っているようだが?」


 許靖は重い息を吐いてから答えた。


「遊牧民が生活している様子だけでなく、彼らが戦をしている様子も見えました。というか、董卓殿の瞳の奥の「天地」は、八割方が戦の「天地」です」


 曹操は眉を曇らせた。


「……なるほど、要は『勝利』と『略奪』か」


 さすがに曹操は頭の回転が違った。これだけで許靖の言いたいことをほぼ理解している。


 許靖はそのことに驚きながらうなずいて肯定した。


 しかし袁紹は二人の言うことをよく理解できない。口調に苛立ちが混じった。


「どういうことだ?もっと分かるように説明してくれ」


「漢帝国の国境付近、特に北と西は羌族や匈奴などの異民族にたびたび町を襲われて問題になっています。彼らはなぜ町を襲うのでしょうか」


 袁紹は優秀な学生が模範解答を口にするように、淀みなく答えた。


「理由は様々あるだろうが、最も大きいのは略奪を行うためだ。奴らの国にはない我が国の文物や家畜を奪い、人もさらっていく」


 古代中国において、異民族による略奪は慢性的な問題となっていた。こちらから攻めるなどして一時的に落ち着いても、しばらくするとまた起こる。


 もちろん漢民族が異民族を攻めた際にも略奪を行うことはあるので、一概に羌族や匈奴を責められるものではない。


 しかし、一般的に遊牧民族よりも定住民族のほうが物を蓄えているし、移動生活をしているほうが当然狙われにくいだろう。どうしても奪う側、奪われる側に傾向ができ、そうなると戦って奪うということが当たり前になってくる。


 当たり前になれば、略奪の戦果すら部族内では誇りになるだろう。


「おっしゃる通りです。聞いたところによると、彼らは指導者の入れ替わりなどで民族内で争った際にも略奪を行うそうです。略奪は同じ民族内でもある。つまり『勝者が敗者のものを奪うのは当たり前の権利だ』という認識があるのでしょう。董卓殿の瞳の奥からは、そのような意識が強く感じ取れました」


 倒した敵、襲った街の物を嬉々として奪っていく兵たちの様子が目についた。


(奪うために戦っているのだ)


 それは瞳の奥の「天地」でのことだとしても、気分が悪くなるような光景だった。


 袁紹はしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「つまり……今回帝を手にしたことは董卓にとって勝利であり、それで得られる大果を何のためらいもなく己の懐に入れていく、ということか?」


「おそらくは、そうなります。地位的な立場にせよ、資産的な財貨にせよ、人的な資源にせよ、手に入れられるものは何でも己のものにしようとするでしょう。董卓殿はそこに躊躇がないはずです」


 袁紹は愕然とし、曹操はどこか遠くを見る目になった。


「そんな男が、国の頂点に立とうとしている……」


 曹操のつぶやきは、董卓が去っていった空間に向かって消えていった。


 許靖は二人を交互に見ながら静かに、しかし強い口調で言った。


「曹操殿、袁紹殿。今からでも洛陽を脱出する算段をつけておいた方がよろしい」

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