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045 花神の御者

 許靖が「花神(かしん)の御者」と呼ばれるようになったきっかけは、全く偶然の出来事だった。


 許靖がまだ豫州で働いていたある日、昼食を摂るために役所近くの食堂に入った。そこの店主が突然意識を失い倒れたのだ。


 この店主が後に習平(シュウヘイ)の妻となった美雨(ミウ)の父親だった。


 美雨はその時手伝いで店に出ていたが、ぐったりと床に伏す父親にオロオロするばかりで何もできないでいた。


 許靖は急いで店主の口と鼻に手を当てたが、息をしていない。


 幸いにも毛清穆(モウセイボク)の診療所がそう遠くなかったため、許靖は吐きそうなほどの全速力で走って呼びに行った。


 毛清穆は素早く現場に駆けつけ、蘇生措置を施してくれた。幸いにもそれは上手くいったようで、店主は息を吹き返した。


 その後、毛清穆は店主の身体をあちこち調べた。


 娘の美雨はなんの病気かと尋ねたが、毛清穆は何の診断も口にしなかった。その代わり、毛清穆は外科医なので信頼できる内科医を紹介してくれた。


 そして、そこで告げられたのは余命一ヶ月ほどという宣告だった。複数の臓器が腫瘍に侵されており、手の施しようはないとの事だった。


 数日後、許靖がまた店の前を通りかかったので中を覗いたところ、美雨は誰もいない暗い食堂で一人涙を流していた。


 さすがに素通りすることもできず、許靖は中に入って話を聞いた。


 父親は意識ははっきりしているものの、体は言うことを聞かず寝たり起きたりを繰り返しているとのことだった。


 その病床で、


「俺が死ぬのは構わないが、一人残されるお前が不憫でならない。父親として、縁談の一つぐらいまとめてやりたかったが……すまない」


そうしきりに謝っているそうだった。美雨としては、それが辛いのだという。


 母は早くに亡くなっており、父一人、娘一人の家庭だった。


 美雨は二十歳をいくつか過ぎている。結婚の早い時代だ。父としては行き遅れた独り身の娘を置いていってしまうのが不安なのだろう。


 父親はこれまでに何度も縁談の話を持ってきたが、全て先方から断られていた。


 原因は分かりやすい。美雨の見た目と性格だ。


 猫背で、ぼそぼそとした話し方で、前髪に隠れた目元が暗い。人の目をまっすぐに見られず、会話も弾まない。


 申し訳ないが、許靖も複数の縁談がまとまらなかったことに関して少し納得してしまうほどだった。


 許靖は美雨の瞳の奥の「天地」に、どしゃぶりの雨を見た。


 今まさに悲しいことが起こっているためこれほどの豪雨になっているのだろうが、おそらく平常心でもこの『雨の天地』こそが美雨の人格なのだろうと想像できた。


 暗く、湿っぽい。雨自体が悪いというわけではなかったが、美雨のそれは雨の悪いところばかりが目立つような「天地」だった。


 許靖は話を聞きながら美雨の瞳を見ているうちに、ふと王順の店の三番番頭である習平の「天地」を思い出した。


(そう言えば習平さんの「天地」は乾いた砂漠の街だったな。本人は常にどこか満たされない渇きを感じていて、それが店でのちょっとした不正につながっていたはずだ。もし渇きを癒してくれるような女性がいたら、相性が良さそうに思っていたが……)


 許靖は早速、美雨を連れて王順の店へと足を運んだ。


 しかしすぐに習平のところへは行かず、まず小芳を訪ねた。小芳の技術で美雨を見目良くしてもらうためだ。


 性格上合いそうな人間でも、あまりに暗い見た目をしていては当然印象が良くない。進む話も進まないものだ。


 許靖は美容などよく分からなかったが、小芳に任せれば何とかしてくれるはずだと思った。


 小芳のところには花琳もおり、女連れの許靖に対して一瞬鋭い目つきを向けた。


 が、事情を話すと美雨の肩にそっと手を置き、むしろ親身なって話を聞いてくれた。たくさんの縁談が決まらずにいることに関して、自身の経験上感じるものがあったのかもしれない。


 花琳からも頼まれた小芳は期待以上の働きをしてくれた。髪を切り、化粧を施してから服を見繕って着せてやると、美雨は全くの別人のように美しくなった。


 本人も鏡の自分を見て信じられないといったような表情をしていた。


 花琳は猫背は体にも良くないと、中庭に出て背筋を伸ばすための運動まで指導してくれた。背中だけでなく首、肩、腰、腹の筋肉を動かしたり伸ばしたりする。


 そこへたまたま習平が通りかかった。


 それは本当に、ただ通りかかっただけである。何をしているのだろうと思いながら近くを通り過ぎる時、習平と美雨の目が合った。


 驚くべきことに、それだけで二人とも恋に落ちてしまった。


 許靖としては王順に話を通してから正式に見合い話を進めていく予定だったのだが、そのような形式ばったものがなくともトントン拍子に縁談がまとまっていった。


 そして、出会ってから半月もしない内に輿入(こしい)れとなった。


 美雨は最愛の人と結ばれることができた。そして父親は亡くなる前に娘の花嫁姿を拝むことができた。


 中国の婚礼の儀式は『礼記(らいき)』という儒教の礼をまとめた書物に記されている『六礼』が基本となる。六礼には多くの段階があり、通常は手間と日数がかかるものだった。


 しかし煩雑すぎて後漢時代にはかなり省略されていたし、父親の体がいつどうなるとも知れない状況だ。可能な限り簡略化した婚儀となった。


 しかし、父親たっての希望で『花車』だけは行うことになった。


 これは花で飾った馬車に新婦を乗せて新郎の家まで行くというもので、娘を持った父親としてはどうしてもそれを見送りたかったらしい。


 習平は大店(おおだな)の番頭だ。その主である王順は従業員夫婦のために結構な銭を使い、しばらく街の噂になるほど見事な花車を用意してくれた。


 そして縁あって関わった許靖は、花車の御者を勤めてあげることにした。少し前まで馬磨きを生業としていたのだ。馬の扱いには間違いがない。


 美雨の父親は満面の笑みで、号泣しながら娘の花車を見送った。これ以上の幸せはなかったろう。


 そしてその三日後、娘と義理の息子に看取られながら、とても幸せな顔をして逝くことができたのだという。


 結婚後、美雨の多すぎる雨水を習平の砂漠が吸ってくれたのか、その目元から見違えるように暗さが消えた。


 元が元なので明るい、というほどにはならなかったが、それでも物静かで落ち着いた、魅力的な女になった。


 習平の砂漠も美雨の雨で乾きを癒やされたようで、結婚前からは考えられないほど人当たりが優しく、よく笑うようになった。結婚後は小さな不正を働くこともなくなった。


 もともと商人としては仕事のできる男だったので、王順の信頼も日ごと増していった。そして最終的に、洛陽に店を起こすにあたっての経営者として抜擢されたのだった。


 この二人の結婚の話が瞬く間に街中に広まった。


 余命わずかな父親、見違えるように美しくなった花嫁、人当たりが良くなった新郎、大店の肝いりの縁談、華やかな花車。


 どうしても人の口に上るし、話題になるのも当然だろう。


 しかし、誰もが予想だにしなかったことがある。


 これ以降、許靖のところへ結婚相手を見繕ってほしいという依頼がひっきりなしに来るようになったことだ。


 許靖は何度も縁談を断られてきた娘に相思相愛の相手を見つけてくれた。さらにそれだけでなく、新郎新婦ともに人格が改善されるほど相性の良い相手を見つけてくれたのだ。


 月旦評の許靖ならばそれが出来るのだという噂が、気づけば街中に広まっていた。


 そもそも許靖は人物鑑定に関して名の売れた男だ。


「月旦評の許靖は男女の相性も鑑ることができるらしい」


というのが世間の持った認識だった。


 男女問わず、連日のように親や本人たちが許靖の家を訪れた。


 許靖としては、正直迷惑な話だった。


(私から言わせると、結婚などはそう簡単なものじゃない。確かに人の相性はある程度予想できるが、それが男女間のものとなると私では想像が至らないことも多い。それに相性の良い男女でも、ちょっとしたすれ違いなどで揉めることはよくあるだろう。だいたい結婚となると、本人同士の問題だけでは済まないことも多いのに……)


 習平と美雨に関してはたまたま関わってしまったことと、美雨の境遇が不憫だったことでつい世話してしまう事になっただけだ。本来なら男女間の問題はできるだけ避けたい事案だった。


 とはいえ、断っても断っても次から次へ人が訪れて、縁談を求める男女の詳細を書いて置いていく。


 それらの竹簡や紙が積み重なり、部屋に男の山と女の山、二つの山ができた。


 この状況に喜んだのが小芳だった。

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