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043 劉備

道標(みちしるべ)?」


「そう、道標です。あなた方三人は、三人だけで一つの世界を作り出せる、類い希な相性と力をお持ちです。しかし、世界は世界としてあるだけで、良いも悪いもないのです。自分たちの世界を良い方向へ導きたいなら、その世界の進むべき道を示してくれる『標』(しるべ)を手に入れることです。そうすれば、あなた方は自分たちの世界を望むべき方向へと動かすことによって、現実世界をも大きく動かしていけると思うのです」


 劉備は呼吸を忘れて許靖の言葉を聞いた。その言葉が終わってからも、しばらく黙っていた。


 そして大きく息を吸い、しばらく止めてからゆっくりとそれを吐き出した。


「なるほど……なるほど……何となくだが、分かる気がする。道標、か……確かに我らに足らないものだ。上手く言葉にできないが、そう感じる」


 つぶやきながら何度もうなずいた。


「しかし我らの道標になりそうな人物が、そう簡単にいるものだろうか?もしいたらぜひ紹介してほしいが……」


 許靖は申し訳なさそうに首を横に振った。


「申し訳ありませんが、私の知人には適当な人物が思い当たりません」


「そうか……だが、道標でなくともよいから、許靖殿がこれはと思う人物がいたら紹介してくれないだろうか?これからきっと乱世が来るし、色々な人の力を借りねばならなさそうだ。それに、そこから広がる人の輪もある。もしかしたらいつの日か、道標にも出会えるかもしれない」


「分かりました。それはお約束しましょう」


「助かる。今日のことで分かったが、許靖殿が勧める人物なら間違いはない」


 助かる、という言葉と共に向けられたら笑顔に、許靖は心が溶かされるような思いがした。


(これが……この笑顔が劉備か。これは恐ろしいな)


 世には『人蕩(ひとた)らし』と呼ばれ、自然に多くの人間から愛され支えられる人物がいる。劉備はそういった種類の人間に思われた。


 きっと関羽や張飛だけでなく、多くの人間が劉備のために命を投げ出し、その能力を振るうようになるだろう。


(そういえば漢の高祖、劉邦(リュウホウ)も結構な人蕩らしだったと聞く。もし本当に劉備が中山靖王劉勝ちゅうざんせいおうりゅうしょうの血を引いているのなら、その影響はあるのだろうか)


 理性では血による人格的な遺伝など否定しながらも、許靖はそんな事を考えた。


 三人は許靖の言にそれぞれ思うところがあったのか、その後しばらくは口数が少なくなった。


 が、少しすると張飛が軽口を叩き始め、それを劉備と関羽がたしなめたり合いの手を入れたりで、すぐに和やかな雰囲気へと戻った。


 つい先ほどまで真剣な話をしていたのに、気づけば自然と許靖も笑い声を上げていた。


(この三人といると、とても心地が良い)


 それはこの三人が作り出す世界のせいばかりではなく、許靖ともどこか相性が良いのだと感じさせた。


 普段の仕事では腐った上司にも、それにへつらう同僚にも辛い思いをすることが多かったが、それでも家族や民のためと思って頑張ってきた。


 しかし、もしこの三人と仕事ができるのなら、何のためと思わずに自然と頑張ることができるだろう。


 そうして談笑している内に気付けばかなりの時間が経っていった。


 劉備たちは本当に暇なようで、なんと夕食まで食べていった。


 許靖も『なんでしたら夕食でも』と言った時、本当に食べていくとは思わなかった。


 しかし三人ともごく自然に快諾した。そして、許靖もそれが素直に嬉しかった。


 食事を用意する側の花琳はさすがに焦ったが、急いで買い物に行き、近所に住む小芳にも応援を頼み、立派な夕食を作ってくれた。


 夕食には許欽も同席し、張飛は許欽を大いに笑わせてくれた。許欽は割と人見知りをするほうだが、三人のことはすぐに好きになったようだった。


 三人が帰る頃にはすっかり日は沈み、明るい満月が夜の洛陽を照らしていた。


 帰り際、土産に花琳から酒を手渡された張飛は小躍りして喜んだ。


「許靖殿の奥方は素晴らしいな。気が利くし、料理も美味いし、腕っぷしも強い。俺もこんな妻が欲しい」


「こら、失礼なことを言うな」


「褒めてるんだよ」


 悪びれない張飛の様子に劉備はため息をつき、花琳は笑った。


 張飛は酒の入った壺を大事そうに抱え、我が子のように撫でた。


「俺の大地には酒で命が増えるんだ」


「馬鹿をいえ。酒で増えるのはお前の失敗と関羽の小言ぐらいだ」


「違いない」


 三人は月明かりの下で笑い、許靖と花琳、許欽も一緒に笑った。


 劉備は許靖に丁寧に礼を伝えた。


「許靖殿、今日は本当にありがとう。随分とためになるお話をいただけたが、最後に何か付け加えるべき助言があればいただきたい」


 許靖は三人の瞳を順番に見てから答えた。


「では一点だけ。今後もできるだけ三人が離れないようにしてください。あなた方三人はそれぞれとても強い力をお持ちだが、強過ぎて一人一人ではうまく均衡が保てません。義兄弟三人が揃って、健やかにお過ごしください」


「分かった。我らは生まれた時こそ異なるが、死ぬのは同じ日、同じ時が良いと普段から話している。これからもきっと一緒だ」


 そう言って笑う劉備の顔には、月明かりが透けそうなほどの澄んだ笑みが浮かんでいた。


 それが逆に許靖の心へ不安とも心配とも取れないような感情をもたらした。


(誰しも大切な人間とはずっと一緒にいたいと思うものだ。しかしそれが叶わない状況もあるだろうし、ましてや共に死ぬことなど難しいだろう。これほどまでに相性の良い三人だ。もし一人でも欠けたら、残りの二人は……)


 ふとそんなことを考えてしまったが、それを振り払うように笑顔を作って別のことを口にした。


「……ああ、それともう一つ。張飛殿は酒をほどほどに。酒で育つ植物はありません」


 むしろ弱るだろう。もしかしたら、強すぎる生命力を抑えるために酒が必要なのかもしれない。


「分かった。この酒を飲んだら明日からは控えることにする」


「お前、もう何年そのネタをやっているのだ」


「千回は聞いたぞ」


 減酒、禁酒というものは、本当に好きな人間にはなかなか難しいもののようだ。


 劉備は最後に荷物から草鞋(わらじ)を数足取り出して、許靖に手渡した。


「普段ならこんなものを人には渡せないのだが、許靖殿なら恥ずかしいものだと思わないでくれるだろう。私は昔、(むしろ)などを織って生活していた時期がある。(わら)を使った物を作るのには自信があってな。今日のお礼としてはあまりに下らないものだが、使ってみてほしい」


「ただの草鞋だと思って見くびらないでくれよ。劉備の兄貴の作る草鞋はちょっとすごいぜ。履き心地もいいし、普通の草鞋の倍は長持ちする。走るのも倍とは言わないが、かなり速く走れるからな。許欽もこれ履いて仲間と駆け比べしてみな。きっと英雄になれるぜ」


 許欽の頭を張飛の大きな手が撫でた。意外にも、とても優しい撫で方だった。


 そして三人は月明かりの中を去って行った。


 三人が視界から消えてから、ふと許靖は花琳に尋ねた。


「そういえば先ほど張飛殿が花琳のことを『腕っぷしが強い』と言っていたが、私はそんな話はしていない。見ただけで分かるものだろうか?」


 花琳は結婚してからも、子供を産んでからも、日頃の鍛錬を欠かさなかった。


 荒事に巻き込まれて実戦を経験することも何度かあった。腕っぷしは相変わらずどころか、結婚前よりも数段強くなっていることだろう。


「武において、ある程度の水準を超えた方なら分かると思います。私の見たところ、張飛様だけでなく関羽様も一騎当千と呼ばれるほどの力がある方です。分かるでしょう。おそらくですが、曹操様や孫堅様も分かったはずです」


 さすがに曹操や孫堅は礼儀上、口に出さなかったのだろう。


 この時代、他人の妻に対して『腕っぷしが強い』などと普通は言えない。


「でも、劉備様は……失礼ですが、あまり武人として強い方ではないと思います」


 許靖は花琳の言葉に対し、首を横に振った。


「いや、むしろ一番怖いのは劉備殿だよ」


(一騎当千と呼ばれる人間よりも、一騎当千と呼ばれる人間を使える人間の方がよほど怖い)


 関羽も張飛も劉備のために喜んで命を投げ出すだろう。劉備の元には、これからもそのような男たちが集まって全く不思議はない。


 もちろん曹操や孫堅にも人を惹きつける魅力があるが、劉備のそれはずば抜けている。


 許靖は家に入る前に、劉備からもらった草鞋のうち子供に合いそうな小さなものを許欽へと渡した。


「欽。昨日、一昨日と英雄二人から宝物をもらって、お前自身も英雄になれたんじゃないか?」


「はい。友人たちからとても羨ましがられました」


「そうだろう。しかし、今日の置き土産を羨ましいと思われることはないだろうな」


「そうかも知れませんが、私は速く走れる草鞋のほうが嬉しいです。いくらすごい人の物でも、他人からもらっただけの物を羨ましがられるより、自分の力でそう思われたほうが良いです」


 許靖は自分がするつもりだった良い話を当たり前のように息子から言われてしまい、言葉に詰まって頭を掻いた。


 それを見た花琳が笑って許欽の肩に手を置く。


「曹操様、孫堅様、劉備様、皆さま素晴らしい方でした。お若いし、ああいった方たちが欽たちの生きる未来を創っていくんでしょうね」


 許靖はその言葉にうなずいた。


「未来を創る、か。確かにここ三日で会ったのは、そう言っていいほどの器をお持ちの方々だ」


 許靖は明るすぎるほどの今日の月を見上げ、ふと思ったことを口にした。


「もし三人がそれぞれに別々の国を興して、別々の未来を創るとしたら、私たちはどの国で暮らしたいと思うだろうか」


 それは、ただの夫婦の雑談ではあった。


 しかしここ三日で許靖の見てきた瞳の奥の「天地」たちは、不思議なほどの現実感をもってそれぞれの創る未来の国々を脳裏に浮かび上がらせるのだった。

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