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041 劉備

「ああ、うかがっている。座興ということでおうかがいしたい」


 劉備はうなずき、一口茶をすすってから許靖をまっすぐに見た。


「許靖殿は先ほど玄関先でも我らの瞳を見ながら、色々と考えておられるようだった。あなたは一体、我らの瞳に何を見るのか」


 許靖を見る劉備の目は真剣だった。


 若者には未来が長く、未確定な部分が多い。その分、自分たちの可能性に対して真剣になる。


 許靖には地方から出て来て、これから世界に羽ばたこうという若者の希望がひしひしと感じ取れた。


「分かりました。では、関羽殿から」


 許靖は一呼吸置くように大きく息を吐いてから、関羽へと向き直った。


 人は真正面から他人に見つめられれば、多少の狼狽なり緊張なりを見せるものだ。しかし許靖に正面から見つめられた関羽はそのような様子を微塵も見せなかった。


 初対面だが、許靖には狼狽(うろた)えている関羽というものが想像できなかった。威風堂々という言葉がこれほど似合う男もいないだろう。


「関羽殿の瞳には、『天』が見えます」


「天?」


 聞き返す関羽に、許靖はうなずいた。


「太陽、月、雲、それだけではなくさらにその向こう、無限に広がる空間に数多の星々がきらめいています」


「天……しかし天というのは、人の身としてはあまりに尊大だな」


 古来より、中国で『天』とは特別な意味を持つ。人の上の存在、人を超えた存在ともいうべきだろう。


 人には天の帝から天命が与えられており、それを一生かけて行うと考えられている。また、善行の見返りには天恵を、悪行の見返りには天罰が与えられる。


 そのような思想がこの国の民にはごく自然に身についていた。


「人の身として尊大、ですか……しかし私は、関羽殿がいつか神になってもおかしくはないと思います」


 許靖は真剣に、真顔でそう言ったのだが、関羽は顔をしかめた。


「何をおっしゃるか。座興にしても程度の低い話だ」


「いや、関羽の兄貴は死んだら神として祀られるくらいの男ではあると、俺は思うぜ」


「私もそう思う。確かに関羽からは人を超越した何かを感じることがある」


 張飛と劉備は相次いで許靖の言葉に同意した。


「むしろ、許靖殿の言葉を聞いて少し納得できたほどだ。もともとが人を超えた存在であると思えば、関羽のちょっと異常なほどの部分にも納得できる」


 関羽は義兄と義弟に対しても苦い顔をした。


「人を化け物のように言わないでもらいたい」


 劉備はその様子に明るく笑った。


「すまんすまん。それで許靖殿、関羽の器としてはどのように考えればいいだろうか?天であれば悪いことはないと思うが、現実としてどのような器だと許靖殿は考える?」


 問われた許靖は小首を傾げた。


「そうですね……正直なところ、私ではちょっと測りきれません。文武においてだけでなく、精神的にも常人ではたどり着けないような高みに至りうる、ということぐらいしか」


「確かにそれは、その通りだな」


 劉備は首を縦に振ったが、関羽はまだ迷惑そうな表情を浮かべている。


 その横から張飛が許靖の方へ前のめりになって尋ねた。


「じゃあ俺は?俺の目には何が見える?」


 関羽に対する評価が想像以上のものだったので、自分の評価を早く聞きたくなったのだろう。


 張飛は見た目こそちょっと怖いような顔つきで体格も立派だが、心はまるで子供のようだ。


 許靖は張飛へと向き直って答えた。


「張飛殿の瞳には、『地』が見えます」


「地?地面の地かい?」


 許靖は張飛の問いに首肯した。


「はい、張飛殿の瞳には無限に広がる大地が見えます。雄々しい山々や見渡す限りの草原、生命の溢れた湿原、そんな力強い大地が延々と続いています」


 張飛はやや不満そうに首を掻いた。


「兄貴が天で、俺が地面か。一段落ちたような感じだな。まあ、関羽の兄貴が相手じゃ仕方ねえか」


 劉備がその様子を横目に見ながら尋ねた。


「そうなのだろうか?私にはそれほど悪いものに聞こえないが」


 許靖はかぶりを振りながら答えた。


「まったく、悪いどころのものではありません。大地は多くの生命を育む、大いなる力を持つものです。特に張飛殿の大地からは強い命の勢いを感じる。張飛殿は、ちょっと考えられないほど生命力に溢れる方であるとお見受けします」


 関羽がその言葉に腕を組み、首を縦に振った。


「それは確かに当たっているな。生命力という点で、張飛に及ぶものを私は見たことがない」


「しかし兄貴、地面はいろんな人間に踏まれるぜ。俺はこれからも人に足蹴にされる人生なのか?」


「お前が人から軽んじられることがあるのは、礼儀などをわきまえないからだ。もう少し書物でも読んで、知識と教養を身につけろ」


 書物と言われた張飛は、苦虫を噛み潰したような顔をした。


(これだけ生命力のあふれた人だ。大人しく座って書など読んでいられないのだろう)


 許靖は張飛の表情を見てそう感じた。


「しかし、関羽が天で張飛が地か。良い組み合わせということではないのか?」


 劉備の言葉に許靖は大きくうなずいた。


「良いどころではありません。天は地があることによってその存在を落ち着けることができます。また、地は陽や雨といった天の恵みがなければ荒れる一方です。おそらくですが、関羽殿は張飛殿と会われるまで、人の間で生きていることに耐えがたい違和感を感じられていたのではありませんか?それに、張飛殿は関羽殿に会われるまで、相当に荒れていたのでは?」


 許靖の言葉に、関羽と張飛は絶句した。


 二人は表情を固まらせたまま、許靖を恐ろしいものを見るように凝視する。


 劉備は茶をすすりながらしばらくそれを眺めていたが、やがて口を開いた。


「……では、私の瞳に何が見えるか教えていただけるかな」


 これまでの関羽、張飛の話で許靖に対して何か感じるものがあったのだろう。


 劉備の視線は戦場で敵軍に向けるそれに近いものになっていた。もちろん敵意などないが、自らの命を左右しかねない相手を前にした武人の目だ。


 許靖はその視線をまっすぐに受けながら、劉備の瞳を見返した。


「劉備殿の瞳には、『人』が見えます」


「人……か。それは誰だろう?」


 劉備は許靖の瞳をまっすぐ見たまま尋ねた。


「劉備殿です。とてつもなく巨大な劉備殿がいるだけです。他には何もありません。むしろ、他に何も無いということが重要に思えます」


 劉備は小首をかしげた。


「私を表すものが私というのは……頓智だな。どう捉えたらいい?」


「まず、劉備殿は劉備殿として強烈な自我をお持ちということでしょう。あなたは見たところとても礼儀正しく、物静かで、人と争うことが少ない仁者に見えます。しかし、心の中心には他の存在を許さないほどの強い自己がいます」


「……なるほど」


 劉備はゆっくりと茶を口にふくんだ。関羽と張飛は心当たりがあるのか、小さくうなずいていた。


 許靖は言葉を続ける。


「そして、何より気になることが一点。劉備殿の瞳を見るとその中の吸い込まれそうになるのです。吸い込まれると、その大きな腕の内に包まれてしまう」


 現実の劉備の両腕も、ちょっと不自然に感じるほどに長い。膝に届くのではないかというほどだった。


 加えて瞳の奥の劉備は、世界が劉備でできているのではないかと思うほどの巨大さだ。劉備の瞳に吸い込まれたと錯覚した瞬間、まるで空間全体が迫ってくるかのようにその巨大な両腕が包み込んでくる。


 しかもそれは、とても心地よい感覚だった。


 許靖はそこで一度言葉を途切らせ、茶で舌を湿らせてから続けた。


「劉備殿は自然と人を惹きつけ、ご自分の中に誰でも彼でも入れてしまう。何千人、何万人、何億人でも入れてしまいそうなほど、大きな腕だと感じます。それこそがあなたの器の大きさでしょう」


「ずいぶんと良いことを言われたような気がするな」


「人を惹きつけること、それを入れる器の大きさに関して、私は劉備殿以上の方を見たことがありません」


 張飛が横から口をはさんだ。


「劉備の兄貴は帝の血を引いているからな。その辺が遺伝しているのかもしれんぜ」


 許靖は曹操からの紹介状で、劉備が帝の血縁である中山靖王劉勝ちゅうざんせいおうりゅうしょうの血を引いていると自称していることは聞いていた。


(しかし、それは関係ないな)


 許靖は現在の帝の「天地」を思い浮かべて、少し悲しい気持ちになった。


 もし帝にこのような魅力の強さ、器の大きさがあれば、国は今のように腐ったりはしていないだろう。


 「天地」は基本的に遺伝しない。親と子が共に生活する上で似通ってくることは多かったが、それは血のせいではないのだと許靖は考えていた。


(もしこの人が帝なら……)


 漢帝国はまだまだ保つかもしれない。


 それどころか『中興の祖』などと言われてかつての繁栄を取り戻すかもしれない。一度崩れそうになった国でも、英雄によって復活した例はいくつもある。


 そんなことを頭では考えたが、許靖はさすがに口にしなかった。


 劉備も張飛の言葉には答えず、別のことを口にした。


「しかし……私が『人』ということになると、我ら三人は……」


「天地人」

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