039 孫堅
許靖はうなずき、茶を一口すすってから孫策の瞳を見た。
「孫策殿の瞳は少し特殊です。この年代の子であればもう少し色々な物が見えるのですが、見えるのはただ
一つだけです」
「一つだけ、か。それが策にとって大切なものということだな。なんだろう?」
「甲冑が一領、それだけです」
孫策の「天地」には、それしか見えなかった。
あとは広大な空間が広がっているだけだ。むしろ、その広すぎる空間の方が気になるほどだった。器としてはとても大きなものを持っているのかもしれない。
孫堅は甲冑と聞いて嬉しそうに笑った。
「そうか、甲冑か。やはり私の息子ということだな。戦の才があると思っていいだろうか?」
許靖もそう感じた。孫堅の血を濃く引いているようだ。
「はい。恐らく戦の才はおありでしょう。それがどのように花開くかは分かりませんが……それと、甲冑の装飾が少し気になります」
「どのような甲冑だ?」
「体に虎の毛皮、腰に熊の毛皮があしらわれています。あまり見ない装飾なので、何か意味があるのかもしれません。私にはよく分かりませんが」
「……それは私の甲冑だ」
(なるほど、父への憧れか)
孫策の様子から何となく感じてはいたが、父を強く慕っているのだろう。それがそのまま瞳の奥の「天地」へ現れている。
許靖は少し羨ましい気持ちになった。許欽の「天地」には自分の所持品など一つも見られない。
(きっと、愛情の量は「天地」には反映されないのだ)
許靖は悔し紛れに話の筋とは全く関係のないことを思った。
「分かった。それで、策にも何か助言をもらえるだろうか?それともまだ難しいかな?」
「そうですね……やはり戦に関するものが見えた以上、孫堅殿と同様に不意な危険には備えていただきたい。孫堅殿ほどはっきりしていなくとも、戦いに関したものが見られる人は突然怪我などされることが多いように思います」
それは孫策自身の「天地」から感じたものというよりも、孫堅への強い憧れから同じように身を危険に晒す武人に育つのではないか、という心配から出た助言だった。
「……と、いうことだ。分かったな、策」
父の大きな手を肩に置かれた孫策は、手元の茶を見つめながら答えた。
「許靖様の言葉と父上の言葉、よくよく考えてみたいと思います」
(……これはきっと、父親のようになるな。できるだけ身を損ねない人生を送ってほしいが……)
許靖が孫策にどう声をかけるべきか考えているところへ、孫堅は孫権を抱えてぐいっと許靖の前に押し出してきた。
「では、次は権を頼めるだろうか」
ちなみに日本語では孫堅も孫権も同じ発音で分かりづらいが、中国語だとそれぞれ『スンジエン』『スンチュエン』というような発音になるらしく、かなり違う。
許靖は思案を中断して孫権の瞳を見つめた。
といっても、まだ一、二歳の幼児だ。その瞳に見えるものは少ない。
「かしこまりましたが、この歳ではあまり多くのことは言えません」
「まぁそうだろうな。まだ人格も何もないだろう」
「ただ……この子の瞳はとても蒼い」
もちろん現実の瞳は黒かったが、許靖には瞳から溢れるような蒼が広がっているのが見えた。
「蒼い?ああ、許靖殿にはそのように見えるということか。しかし、その蒼はどんな蒼だ?空の蒼か?水の蒼か?」
孫堅の言葉に許靖ははっとした。
「そうか、これは水の蒼ですね。私も言われるまで分からなかったが、この子の瞳は大きな湖のようだ」
「なるほど……権には故郷の血が濃く入っているのかもしれん。私は南方の出だが、この国の南は水が多い。兵でも南船北馬というほどだ。水が見えたということは、この子には南が吉方かな」
「孫堅殿がそう思われるのなら、おっしゃる通り南の地が合うのかもしれません。この年頃の子ではあまり具体的なことが言えませんが、近しい人の感じる解釈が割と当てになります」
孫堅は許靖の言葉にうなずいた。
「そうか。しかし見えるものが少ないから、やはり助言などは難しいかな?」
許靖は手を口に当ててしばらく考えた。
「そうですね……これまでも水を多くたたえた瞳をした方を何人も見てきましたから、それを参考にお答えしましょう。水の多い方は、様々なものを内に入れることができると思います。しかも孫権殿はこの歳でかなりの量だ」
「器が大きい、と思っていいのかな」
「はい。特に水は清濁併せ呑みます。様々な人物の、様々な事情をありのまま受け入れられるでしょう。人の上に立つには良い傾向です」
「そうか、それは良い」
孫堅は嬉しそうに笑い、息子を頭の上に持ち上げた。孫権のキャッキャという笑い声が部屋を明るくする。
許靖もその声に心和んだが、自分に思いつく助言はしっかりしておかなければならない。
「ただ……これもまた経験上ですが、水を多くたたえた方の中には年齢とともにその水が溢れてくる方が何人かいました」
「齢を取って耄碌する、ということか?」
「平たく言えばそうですが、孫権殿の場合この歳ですでに大きな湖のような量の水をたたえています。それはこの子の末恐ろしいほどの器量を示していると感じますが、逆にこれが溢れてくるとしたらどうでしょう。おそらく尋常のことでは済みません」
「そうか……権は次男だが、もし家を継ぐことにでもなったら早めに跡取りを決めて隠居した方がいいのかもしれんな」
孫堅はそう言いながら、孫権を頭の上から左右へ振ったり、回したりした。孫権の明るい声がまた部屋に響く。
親子三人の瞳の奥の「天地」の話は大体それで終わった。
あとは長い時間ではなかったが、雑談をして過ごした。孫堅は地方の出なので、中央の官僚である許靖の話は何かと参考になることが多かったようだ。
話題が政治向きの話になると子供たちは退屈そうだったので、孫策と許欽は子供部屋に行かせて遊ばせた。
今、許欽の部屋にある最大の自慢は昨日曹操からもらった剣の飾り紐だが、孫堅を父に持つ孫策には大した自慢にはならないだろう。黄巾の乱で孫堅は曹操以上の戦果を上げている。
雑談上、昨日の曹操と同じ話題が二つ出た。
一つは近いうちに乱世が来るだろうという話で、もう一つは有望な若者を紹介してほしいという話だ。
(黄巾の乱を経験した武将二人がそう言うのだ。乱世はそう遠くない)
許靖がこれはと思う知人を紹介することを約束して、今日の席はお開きとなった。
帰り際、孫堅は孫策の肩を叩いた。
「策、今日は勉強になっただろう」
「はい。海賊は強い、ということを学びました」
孫堅は息子の言葉に頬を引きつらせた。
「策、海賊が良いわけではなくてな……」
「分かっています。私は父上の息子です。立派な武将になるつもりですから、海賊にはなりません。しかし、海賊の部下を持つのもいいと思いました」
孫策は何の邪気もなくそう答えた。
「それは……まあ、確かに悪くないかもしれんが……」
孫堅は息子に何と言えばいいか分からず、口を開きかけたり閉じたりしていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
それから許靖と花琳にあいさつを済ませ、懐から赤い巾を取り出して許欽へ手渡した。
「私が戦場でかぶっていた巾だ。替えはいくつもあるから、遠慮なく受け取ってくれ」
孫堅が戦場で赤い巾をかぶっているのは有名な話だった。これで息子は明日もまた友人内で英雄になれるはずだ。
門を出ると、目に染みそうなほど美しく燃える夕陽が落ちるところだった。孫堅親子はそこに向かって歩いて行く。
だいぶ遠くなったところで、見送る許靖の頭にふと孫堅の「天地」がよぎった。
その猛々しくも危うい虎の姿に不安を覚えた許靖は、思わず大きな声を上げてしまった。
「孫堅殿、お体を第一に!!」
江東の虎は何の言葉も返さなかったが、代わりに手を挙げてから眩しいほどの笑顔を返してくれた。




