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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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その鼠は龍と語らう9

「やりました孫権様!董襲(とうしゅう)将軍がご自身の手であの大縄を切断されました!」


 伝令兵からそんな注進が入り、本陣の空気はドッと沸いた。孫権も馬上で握り拳を固めている。


 切られた大縄というのは、黄祖軍の守りの要になっていた船を陸地に繋いでいた大縄だ。


 その船上から矢を雨のように降らせたことが原因で、孫権の水軍は城に近づけなかったのだ。


 しかしそれさえ何とかすれば孫権軍の勝利は疑いようもないことから、決死隊が送られることになった。


 その一軍を率いたのが董襲という将なのだが、この男は軍列の後ろで指示だけ出すような種類の将ではない。董襲自身が並外れた武力を持った大男であり、自ら武器を振るって敵を屠るのである。


 そんな生粋の武人、董襲は決死隊の一員として鎧を二重に着込んだ。この時代の鎧は鱗のような鉄板を紐で繋いだものなので柔軟性があり、二枚着ることも出来ないことはない。


 とはいえ鎧を二重にしたところで完全に矢を防いでくれるわけではなく、しかも水軍の戦で重くなるということは溺死する危険性が増すということだ。


 しかし董襲はそんなことはまるで恐れもせず、漕ぎ手を叱咤して自軍の船を突っ込ませた。


 そして敵船にぶつかってからは川に飛び込み、手をかき足をかき、沈もうとする鎧をものともせず、船底に潜り込んで、ついには手ずから大縄を切ってのけた。


 まさに豪傑と呼ぶに相応しい男だ。


 この働きによって川を流れ始めた敵船に、孫権軍は狂喜した。


 船にはまともな航行に耐えられないほどの弓兵が乗せられているため、いくら櫂を使ったところで川の流れには逆らえない。縄さえ切れば戦場からの退場は必至だ。


 そしてこの船さえいなくなれば、黄祖の籠もる城は落ちたも同然になる。水軍で攻め入り、門を開いて地上からも突入する。


 それで終わりだ。


「もはや我らの勝利は疑いようもない!各々、存分に功を立てよ!」


 孫権の号令で全軍は奮い立った。濡れ手に粟と言っても過言ではないような好戦場が目の前に広がっているのだ。


 まるで獲物に群がる肉食獣のようになった兵たちが城に向かって殺到する。


 敵兵たちも自軍の圧倒的不利を悟ったようで、我先にと逃げ出す姿が散見された。


 軍は集団戦によって力を発揮するものだから、こうなると脆い。加速度的に戦況は孫権軍に傾き、将も兵も功名を立てるのに躍起になった。


 そんな中、唯一その場からほとんど動いていない兵たちに向かって孫権は声をかけた。


「すまんな、護衛であるお前たちには損をさせている」


 その言葉の通り、孫権の身を守る兵たちは突っ込んでいくわけにもいかないから、功を上げ損ねている。損と言えば損な役回りだ。


 しかしその中でただ一人、護衛の一員として白龍にまたがっている馮則だけは、損などとは毛の先ほども思っていなかった。


(冗談じゃねぇ。もう戦場なんてまっぴらごめんだ)


 そう思うと同時に、孫権に感謝した。


(孫権様がお側に置いて下さるから、もうあんな恐ろしい思いをしなくてもいいんだ。ありがてぇ、ありがてぇ)


 馬上なので無理だが、拝跪したくなるような気分である。


 実はあの後、李観は馮則と白龍を再度最前線に送ることを提案したのだ。


 しかし孫権に却下された。


 孫権は『白龍のような名馬を徒に傷つけるようなことはしたくない』と言っていたが、その時に馮則の顔をチラリと見たことに馮則は気づいている。


 きっと戦場に行きたくないという馮則の気持ちを理解し、配慮してくれたのだろう。多分思い違いではないはずだ。


 それに孫権は馮則が兵をやりたくてやっているわけではないと知っても、一言も叱らなかった。


(この人はそういう兵でも受け入れられるだけの器があるんだ。清濁併せ呑むっていうんだっけか?おっきい器だなぁ)


 自身が救われたこともあり、心からの尊敬を持ってそう思う。


 そんな本心から敬う気持ちがあるから、自然と思ったことが口から出た。


「黄祖、ちゃんと捕まるといいですね」


 黄祖はこれまでも幾度となく孫家との戦に敗れているが、その都度上手く逃げおおせて己の命は繋いでいる。それを思い出しての言葉だった。


 しかし言ってから、あまり気やすく声をかけないように周囲から言われていたことを思い出して口を押えた。


 実際に李観を含むいくつかの目は咎める視線を送ってきたが、孫権は気にした様子もなくうなずいた。


「ああ、そうすればようやく私は解放される」


「……解放?」


 馮則はもう喋らない方がいいのかな、と思いながらも聞き返した。黙るのも無視するようで無礼な気がしたからだ。


「そうだ、解放だ。復讐とか、仇討ちとか、そういうものは望みというよりも呪縛なのだ。少なくとも私はそう感じる。だから黄祖を討つことは望みが叶うというよりも、呪縛から解放されるというのがしっくりくるな」


 馮則は孫権の言うことの全てを分かったとは思わなかったが、改めてこの主君の器の大きさを感じられた気はした。


 そして、孫権がその呪縛から受けている苦しみにも触れられたように感じられた。


(この人は大きい人だけど、大き過ぎて、色々なものを入れ過ぎて、その中にはきっと嫌なものもあって、だから苦しむこともあるんだろうな。仇討ちだって周りがやらなきゃって言えば受け入れるだろうし、そういうのは苦しくなってくるんだろうな)


 馮則なりに感じて、考えて、そう思った。


 それから、


「本当に、ちゃんと捕まるといいと思います」


心の底から繰り返した。


 その言葉に孫権が再度うなずいてくれた時、突如として城壁の一部が崩れ落ちた。


 明らかに異常なことだ。城壁を崩すようなことはせずともすでに勝ちは確定しているし、そもそもそこには孫権軍の兵たちはいない。


 むしろ兵たちの殺到している城門からはだいぶ離れている場所だった。


 その崩れた城壁の内側から騎馬が飛び出してきた。十騎ばかりいる。


 その中の一騎、非常に立派な体躯をした漆黒の馬が特に目立っていた。それを他の九騎が囲んで駆けていく。


 進行方向の先には城から一番近い森林があった。


「……黄祖!あれが黄祖だ!逃げるぞ!」


 誰かがそう叫んだ。


 兵としての知識がない馮則でもそうだろう思う。あの立派な体躯の黒馬に乗っているのがおそらく黄祖だ。


 緊急の逃走経路にするため、あらかじめ城壁の一部に内側から崩せるような細工をしてあったのだろう。わざわざ城門から遠い場所に設置しているのは追っ手を減らすためだ。


 事実として、城門に殺到している自軍兵たちは黄祖が逃げ出したことに気づいていない。


 そして今から伝令を出したところで、知らせる前に森へ逃げ込んでしまうだろう。


「私の護衛は歩兵だけでいい!騎兵は全騎、黄祖を追え!」


 孫権が即座に指示を下した。それで孫権を守っていた騎馬隊は動き始める。


 いや、実はその指示が出る前に駆け始めた馬がいた。白龍だ。


 白龍はあの騎馬たち、正確には黄祖が乗っていると思われる黒馬が出て来た時点で耳をピクリと立てていた。馮則の目から見ても明らかな名馬だが、白龍も何かを感じたらしい。


 そしてその馬が森へ駆け始めたのを見て、追うように自身もそちらへ駆け始めたのだ。


 結果として、馮則と白龍は隊の先頭で全員を引っ張るように駆けることになった。


「馮則!貴様!抜け駆けする気か!」


 李観の声が背後から響くが、自分の意思でやったことではないから責められても困る。それに白龍が気分次第で自分の指示を聞かないことは説明済みだ。


「白龍が勝手に走り出したんです!こいつ駆け比べが好きだから!あのすごい馬を見て競走したくなったんですよ!」


 白龍と長い付き合いの馮則にはそういう気持ちがよく分かった。しかも白龍はいつになく興奮している。


 駆け比べの好きな白龍だが、この化け物のような馬と勝負になるような馬など滅多にいないのだ。だから遠目にも分かるような名馬である黄祖の黒馬に、非常な期待をしているのだろうと察せられた。


 そういう事情だから、白龍は全速力で走ってグングンと黄祖たちとの距離を詰めていく。その一方で、自軍の騎馬たちからは離れていった。


「おい、白龍!もう少し速度を落としてくれ!俺たちだけで突っ込んだんじゃ護衛の騎兵にやられる!」


 馮則は必死に手綱を引いたが、白龍はまるで速度を落とさない。完全に一騎で突出してしまった。


 そして黄祖の供回りたちは当然追いかけてくる孫権軍に気づいている。何かを話してから、八騎が馬首を巡らしてこちらに突っ込んできた。


 黄祖の側に一騎だけ残し、残りは死ぬ覚悟で騎馬隊にぶつかって時間稼ぎをしようというのだろう。臣下の鑑だが、馮則にとっては至極迷惑な忠誠心だ。


「か、勘弁してくれ!」


 泣きそうになりながら、体ごと横に倒れるようにして何とか白龍の進路を逸らそうとした。


 しかし白龍はそれにも反応してくれず、黄祖の黒馬へ向かって真っ直ぐに突き進む。


 ただし敵兵たちとぶつかる直前、一瞬速度を落とし、それから急加速した。


 両者ともに全速力で駆けていたのだから、すれ違うのはほんの一瞬だ。だからその瞬間をずらされた敵兵の槍は、馮則と白龍からわずかに逸れて外れてくれた。


「た、助かった……のか?」


 馬上でガクンガクンと前後に揺られた馮則は、気づけば敵の間をすり抜けていた。


 そうして馮則を通してしまった敵兵たちだったが、その背後の騎馬隊にはきれいにぶつかって、命と引き換えにその速度を落としていた。


 そして黄祖はいうと、その間に残った一騎の供回りと一緒に森の中に分け入ることに成功した。


 ただし、そのすぐ後ろから白龍と馮則が森の中へと飛び込んでくる。


 黄祖の部下と思われる男が振り返ってそれを確認し、悲壮な叫び声を上げた。


「だ、駄目です!私の馬ではあの馬から逃げ切れません!黄祖様の馬だけなら駆け負けることはないでしょうから、一騎でお逃げください!」


 そう言って最後の一騎が速度を緩め、槍で馮則を突こうとしてきた。


 馮則も一応騎兵として槍を持っているが、応戦など出来るはずもない。一方的にやられるだけだ。


 しかしここで幸運なことに、敵兵の槍が木の枝に引っかかって穂先がやや上に向いた。


 馬は走れる程度の森ではあるが、長物を振り回して戦うのに向いた地形ではない。


「ひぃっ!」


 馮則が悲鳴を上げながら馬上で身をかがめると、頭のすぐ上を刃が流れて行った。この時ほど自分の小ささに感謝したことはない。


 そして直後に白龍が体当たりしたことによって相手は転倒し、馮則は難を逃れることができた。


 残るは黄祖ただ一騎だ。


(こ、これ本当に黄祖をやれるんじゃねぇか?)


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