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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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その鼠は龍と語らう7

 結局、馮則は逃げられなかった。


 戦の方針が軍議で決まった翌日に、李観が『これより軍を抜けることは敵前逃亡とみなす』と宣言したことが一番の原因だ。


 敵前逃亡はもちろん死罪である。互いに逃亡を監視せよとも言った。


 しかもこの自分勝手な指揮官は、公的に認められた退役であっても自分は許さないとまで公言してのけたのだ。


 つまり孫権から軍を抜けていいと言われても、李観に闇討ちされる可能性があるということになる。


 ある意味で越権行為に当たるが、この気概を良しとする人間が少なくないのもまた、軍隊という集団の特殊性と言えるだろう。


「孫権様……こ、今度の戦ですが……」


 それでも馮則は一縷の望みを抱き、孫権にそれとなく己の希望を伝えようとした。


 孫権が馬に乗って外出する時にはすぐ側に付くし、孫権はたまに白龍への騎乗に挑戦するので機会は少なくない。


 しかし新入りの一兵卒である馮則ではあまりに立場が違うから勇気が要った。以前に李観から、『緊急のこと以外はあまり自分から話しかけないように』と釘を刺されていたこともある。


 ただしそれはいじめの密告防止というだけではなく、貴人に対する基本的な礼節のようだ。勤め始めに、李観以外の復数の人間からも似たようなことを言われた。


「ああ、戦だ馮則。ついに戦場で暴れる白龍の勇姿が見られるな。初陣はぜひこの目で見たいと思っているから、頑張るのだぞ」


 孫権は不思議と青みがかった瞳を優しげに細め、少し後ろを進む馮則にそんなことを言ってきた。


 これは主君として、部下に心を配った結果として出て来た言葉だ。


 主君が直接自分の働きを見てくれる。そんな機会はめったになく、そこで結果を出せば当然ながら出世の道が開けることになる。


 普通なら身を震わせて感激し、戦果を上げるべく励むところだろう。

 

 しかし戦いを避けたいばかりの馮則は、むしろ恐怖に身を震わせた。そしてゴニョゴニョとよく分からない返事をし、うつむくことしかできなかった。


 その意味するところがよく理解できなかった孫権は軽く首を傾げ、さらに言葉を続けた。


「今度の戦はお前を連れてきた甘寧に強く勧められて決まったものだ。あの男はお前に出世の機会を与える福の神だな。よく礼を言っておけ」


「……え?鈴ヤクザ……じゃない、甘寧様の発案なんですか?」


「鈴ヤクザ!」


 失言をしっかり聞き取った孫権は爆笑し、馬上で腹を抱えて苦しそうに身を捩った。


「ククク……そ、そうだぞ。あの鈴ヤクザの提言によるものだ」


 そう言って、目尻の涙を拭きながら説明を続けてくれる。


「黄祖は孫家の仇敵ではあるが、今この時に兵を起こすべきかというと、反対意見も多かった。以前に黄祖を攻めた時と同じように、また出征中を狙って反乱が起きるのではないかというのがその理由だ。しかし甘寧のやつがその反対派を論破した結果、今回の戦が決まったのだ」


(……あんの腐れ鈴ヤクザが!疫病神め!くたばりやがれ!)


 馮則は心中でありったけ罵ってやったが、そうとも思わない孫権は可笑しげにまたクックと喉を鳴らした。


「特にあの張昭(ちょうしょう)を言い負かした時のことを思い出すと、胸がすくような思いがする」


 張昭というのは孫権の兄である孫策の代からの参謀であり、新顔の馮則でも相当な切れ者だという噂を聞いたことがある有名人だ。


 孫策はその死の床に張昭を呼んで弟の補佐を頼み、しかも仮に孫権の能力が不十分なら張昭自身が政権を執って欲しいとまで言った。


 実力だけでなく、忠誠心も強い者でなければこんなことは言われないだろう。


 ただし厄介なことに、その忠誠心の強さゆえに孫権への諫言にも遠慮がないのだ。


 結局のところ、本気の諫言ができるのは主家のためなら命も要らないという種類の人間になる。主の機嫌を損ねる苦言を呈するということは、己の首を絞めることにも繋がりかねないからだ。


 そして張昭の忠誠心はというと、己の首などどうでもいいというほどに強いのだった。孫権の大好きな狩猟も危険だという理由で諌めてくるから面白くない。


(あいつは心の底から孫家のことを考えてくれており、しかも有能だ)


 孫権もそれが分かっているから張昭を尊重し、その生涯に渡って長く付き合っていくことになる。


 とはいえ耳が痛いことも多いから、


(小うるさい石頭め!)


などと内心で叫ぶこともままあった。


「ちょ、張昭様は戦に反対だったんですね」


 張昭ほどの実力者がそうなのなら、それは尊重すべき意見なのではないか。


 馮則はそういう理屈で話を持っていこうとしたのだが、孫権はそれには気づかなかったようで、ただ笑いながらうなずいた。


「ああ、やはり出征中の反乱を危惧してのことだ。しかし甘寧から、『蕭何(しょうか)の任にあるはずの張昭殿が反乱を理由に反対するのは如何なものでしょう』、と言われてな。嫌な顔をして口をつぐんでいたよ」


(蕭何?)


 話の筋が分からない馮則は小首を傾げた。


 蕭何という名には聞き覚えがあったが、よく思い出せない。


 孫権はその様子を見て、馮則がただの調教師上がりだったことを思い出した。


 教育を受けていなければ歴史や故事には疎いだろうと思い、説明を足してくれた。


「蕭何というのは高祖(漢の国を建てた初代皇帝、劉邦)の腹心で、高祖の出征中に本拠地の留守を預かっていた人物だ。そして私の出征中は張昭が留守を預かるから、私にとっての蕭何は張昭ということになる」


「はぁ」


 決して頭が良いとは言えない馮則の反応は鈍かった。


 しかし孫権は気を悪くした様子もなく続ける。


「蕭何は留守中の統治をほとんど完璧に成し遂げた能吏だ。つまり張昭が蕭何の任を与えられたということは、留守中の反乱をきちんと抑えることも張昭の仕事になる。甘寧はそこを指摘し、反乱を理由に反対するのは自分の無能を表明するようなものではないか言ったわけだな」


「あ!なるほど!」


 理解した馮則はポンと手を打ちながら、思わず大きな声を出してしまった。


 頭の弱そうな鈴ヤクザだと思っていた甘寧が、意外にも切れる会話をするものだと感心した。


 しかしその態度が主君に対して馴れ馴れしいと思われたらしい。周囲の人間たちから非難がましい目を向けられてしまった。


 中でも少し離れた所を進む李観は、


「馮則……」


とつぶやきながら、殺気の漲った視線を送ってくる。


 ただその視線は無礼を責めるだけでなく、『もう黙れ、戦に行きたくないなどと言ったら殺すぞ』、という明確な殺気が含まれている。


 臆病な馮則はその視線に怯え、小さな体をさらに縮こまらせてうつむいた。


 どちらにせよ、孫権がこのように戦に前向きなら行きたくないなどという本音は言い出せそうにない。


 そうしてそのまま出征の時が来てしまい、馮則は戦場へと連れて行かれることになった。


 攻めるのは馮則の故郷でもある江夏郡だが、住んでいた県ではないからそこだけは少し安堵した。


 先鋒は呂蒙(りょもう)という勇将が担う。まだ三十路も越えていない若い将だ。


 そして馮則は李観に、呂蒙の騎馬隊の一つに入るよう命じられた。


「段取りは私自身がきちんとつけておいた。感謝しろよ」


 そう言った時の李観の半笑いを、馮則は生涯忘れないだろう。


 それから本人たちは『栄えある先鋒』と喜んでいる騎馬隊に混じりながら、馮則はこの連中は頭がおかしいのだろうと思った。


 なぜ死ぬかもしれない場所へ向かうのに、意気揚々としているのか。絶対に気が合わないし、仲良くできる気もしない。


 馮則はそんなふうに思ったが、呂蒙の騎兵たちも馮則にあえて構うことはなかった。


 というのも、李観からあらかじめ『最前線へ連れて行ってからは放置してくれ』と言われていたからだ。


「それでいいんだよな?」


 馮則は暫定的な上官からそう確認され、


(……ああ、誰かが俺の面倒を見てくれると死ぬ確率が下がるからか)


と、李観の指示の理由をすぐに理解した。


 しかしなぜか文句を言う気力が湧いてこない。口を開くのも億劫なほど投げやりな気分になっていて、ただ無言でうなずいてやった。


(この戦が終わったら兵を辞める、この戦が終わったら兵を辞める、この戦が終わったら兵を辞める)


 そのことばかりを考えている内に戦は始まり、馮則は周囲の騎兵たちにただただついて行った。


 目標は夏口という地に建てられた川沿いの城であり、黄祖はそこに立て籠もっている。


 陸側の城壁は高くて堅牢なため、川から水軍で攻めるのが良さそうだという意見で軍議は一致した。


 しかし敵も馬鹿ではない。川に大きな船を二隻浮かべ、千人もの兵を配置して備えた。


 そして近づけば弩で雨のような矢を降らせるのである。


「我々の目標はあの船を繋いでいる大縄を切ることだ!」


 馮則が暫定的に従う騎馬隊の隊長は、遠目に見える縄を指さしながら改めてそう宣言した。


 太い棕櫚(しゅろ)の縄が船から伸びていて、川の両岸にある大岩にそれぞれくくりつけられている。


 川船とは何もしなければ流れるものだから、そうやって固定しているのだった。


 逆に言えば、その縄による固定さえ解けば厄怪な矢雨の発射台は流れていくわけだ。


 もちろん大岩の周囲には縄を守るための兵が配置されているから、それを抜いて縄を切ることが地上部隊の仕事ということになる。


「かかれぇ!」


 号令に従い、騎馬たちが駆け出した。


 馬は本能的に集団で走るものなので、特に指示を出さなくても白龍は隊の動きに合わせて進んでいく。


 馮則は息も忘れるほど緊張し、無意識に細い槍の柄を握りしめた。


 普通の騎兵はもっと太い物を使うが、馮則の力ではまともに扱えない。


 それに重装備で騎乗すると白龍が不機嫌になるから、馮則は鎧も金属製ではなく革鎧だった。


『お前、乗せるのが趙雲さんなら絶対重くても文句言わねぇだろ』


 白龍が恨めしそうにぼやくと、当たり前だろうとでも言うようなブルルンという声が返ってきた。


 そのことをふと思い出したのは、己の戦闘力の低さを思ったからだろう。肉体が戦い向きでないだけでなく、装備も貧弱だ。


 敵の顔が見える所まで来た時、分かりきっていたその事実が急に恐ろしくなった。


 戦闘力の低い自分がこれから敵とぶつかる。するとどうなるかは、火を見るより明らかだ。


「は、白龍!」


 怖気づいた馮則は手綱を引き、速度を落とした。


 幸いなことに、馮則は隊の一番後ろを走っていたから後続の迷惑になるようなことはない。白龍の巨体で視界が遮られるのを他の隊員が嫌った結果だ。


 そして馮則は騎馬隊の集団の背後、少し抜けた所で同僚たちが敵の集団にぶつかっていくのを目の当たりにした。


「ヒェェッ!」


 恐怖のあまり、喉から情けない悲鳴が漏れ出てしまった。


 敵味方がぶつかったあちこちで血しぶきが上がり、その赤色が生物としての根源的な危機感を刺激するのだ。


 矢が、槍が、人間の肉にズブリと刺さっている。中には馬の勢いがついたせいか、首が刎ね飛ばされた騎兵もいた。


(正気の沙汰じゃねぇ!戦なんて、狂人のやるもんだ!)


 本気でそう思った。


 もちろん頭ではこういうことが起こると分かってはいたのだが、頭で分かるのと現実を見るのとでは大違いだ。


 むしろ頭では分かっているということは、何も分かっていないということなのだと強く実感できた。


 なぜ自分は兵士になるという最悪の選択をしてしまったのか、後悔が頭の中をぐるぐると渦巻く。


(に……逃げる!俺は逃げるぞ!敵前逃亡だろうがなんだろうが、逃げになきゃ今死んじまう!)


 そう決心して馬首を巡らそうとしたところで、白龍の様子が普段と違うことに気がついた。


 滅多に見ないほど気が立っている。


 そこへ戦いの喧騒を打ち破るように、敵兵の大声が届いた。


「あの化け物みたいな馬にまたがった騎兵を討て!あいつが指揮官に違いない!」


 叫んだ男の人差し指は、白龍と馮則へ向かって真っ直ぐ伸びていた。


 白龍の体格があまりに良いので、それに騎乗する馮則が指揮官だと思われてしまったのだ。


 そこで馮則はハッと気づく。


(そうか!だからあちこちから殺気を向けられてて、それで白龍は気が立って……)


 指揮官を討てば戦は楽になるし、当然のことながら恩賞もたらふく頂戴できるだろう。


 ギラギラとした物欲と功名心とが生じさせる悪意、それが白龍の癇に障っているのだった。


 そんな迷惑な勘違いとその結果について馮則が理解した時、白龍が、


 ヒュン!


という甲高い声でいなないた。


 これは白龍に限らず馬が相手を威嚇する時に発する声であり、特に白龍に限っては『これから暴れるぞ』という合図のようなものだった。


「白龍!落ち着け!落ち着けよ!」


 馮則は必死に白龍をなだめながら、青い顔をさらに白くしていた。


(おいおいここは戦場だぞ!?こんな所で好き勝手に動かれたんじゃ、命がいくらあっても足りねぇ!)


 それは自明の理ではあるが、馬に理解しろという方が無理だ。


 白龍は怒りを爆発させ、最も悪意の塊が多い所、すなわち最も敵が多く固まっている所へ突っ込んだ。


 味方が突き崩すのに一番難儀している一団だ。そんな場所に真っ直ぐ突進された馮則は、恐怖のあまりふっと意識を失い、目の前が真っ白になった。


 そして全てが白いその世界の中、鈴の音を聞いたように思った。


 鈴ヤクザ、甘寧のつけていた鈴の音だ。それは自分がこんな状況に陥っている元凶の音でもある。


「……あの鈴ヤクザ!」


 頭の芯が燃えるように熱くなり、知らず知らずのうちに叫んでいた。そして白かった視界が正常に戻る。


 馮則は怒りによって意識を取り戻し、落馬しかけていた体を鞍の上に戻した。怒りの感情が湧かなければ死んでいただろう。


 ただし復活した視界の中できらめいたのは、どちらにせよ死の矛先だった。


 眼前に敵兵たちの槍衾が敷かれ、いくつもの刃が自分たちに向いていたのだ。


「ギャー!」


 そんな悲鳴を上げながら、馮則は自分の尻が異様な勢いで跳ね上げられるのを感じた。


 それから刃のきらめきが下を流れていくのが見える。


 馮則は大跳躍した白龍と共に、槍衾を跳び越していた。


「ぐっ……!」


 着地の衝撃は舌を噛みそうなほど激しかったが、それでも実は多少減弱されていた。


 というのも、白龍の蹄に踏み潰された敵兵の肉が柔らかく衝撃を受け止めていたからだ。


 もちろん踏まれた敵兵は即死だったが。


 ヒヒィーン!


 激しくいななきながら、白龍は暴れまくった。


 前足だけを地面につけ、後ろ足を勢いよく蹴り出せば、二人の敵兵が人の背丈の十人分くらいは跳んでいく。当然のことながら、彼らも即死だ。


 その凄まじさに圧倒された一人が慌てて下がろうとしたが、仲間の槍に足を引っ掛けてしまい、その仲間も巻き込んで転んでしまった。


 すかさず白龍の巨体がそこへ覆いかぶさる。尋常ではない体重で踏みつけられた二つの頭部は、蹄の形に大きく陥没した。


 瞬く間に五人を殺してのけた白龍だったが、それによって兵たちの警戒心は強く煽られたらしい。いくつもの槍の穂先が鋭く迫った。


 普通なら是が非でも無傷で手に入れたいと思うような名馬だが、命には変えられないと思ったのだろう。


 しかし白龍はその一撃を見事な体捌きでかわしてみせ、さらにその兵の一人へ頭突きをかました。


(な、なんちゅう常識外れの馬だ!)


 馮則は改めて度肝を抜かれた。普通に考えたら馬にできるような芸当ではない。


 しかも白龍はそうして倒したところをまた踏みつけ、きっちり仕留めてみせたのだ。


 そこにまた斜め後ろから別の槍が襲いかかってきたのだが、馬の視野角は広い。なんと三百五十度もあり、完全に真後ろでなければほとんど見えている。


 白龍はいったん前に駆け出してそれをかわし、すぐに振り返ってその兵へ突進した。


 迫る威容に怯えたのか、兵が再度突き出した槍先は鈍く、白龍は軽やかにかわした上で体当たりを食らわせた。


 そして倒してからはしっかり踏みつけてとどめを刺す。やはりまともな馬の行動とは思えなかった。


 ちなみにこの時点ですでに馮則は槍を持っていない。とにかく落馬しないようにするのに必死で、いつ手放したのかも定かではなかった。


 あとは武器といえば懐に忍ばせている短刀だけなのだが、これも使う機会は無いだろう。ただただ白龍に全てを預け、頼み、すがるしかない。


 そしてそのすがった相手は冗談のような強さで敵兵たちを蹂躙していく。ぶつかり、噛みつき、蹴り飛ばし、踏みつけ、殺す。


 多くの人間にとって猛獣といえば虎か熊なのだが、今日この日から『暴れ馬』もその分類に入ることが決定した。


「あそこだ!あそこが崩れかけているぞ!」


 味方の方からそんな叫び声が聞こえてきた。どうやら馮則のいる所が狙い目だと判断されたようだ。


 現に白龍によって隊列は内側から崩され、注意もそちらに向いている。本来なら守りの硬い部分なのだが、予想外の事態に混乱していた。


 まさか単騎で中に飛び込まれるとは思ってもいなかったし、その処理に手間取るとも思っていなかったのだ。


 しかも敵はこれが馬かと疑うような巨馬で、そばで暴れられれば化け物に対峙しているようで恐ろしかった。


「それ!突き崩せ!」


 敵兵の向こう側から味方の鬨の声が上がり、そちらでまた血しぶきがいくつも上がる。


 しかし今度の馮則は血の赤色にも過度な反応をしなかった。白龍から落ちないように必死だし、そもそもすでに生きた心地がしていない。


(むしろこのまま命が繋げたら奇跡だ……)


 そんな心持ちで白龍による殺戮劇に震えていた。


 だから敵が自分たちの周囲から引いていった時、なぜ、という気持ちにまずなった。


 そして次に、腰が抜けた。味方が押し寄せてきたことに安心し、気が抜けたのだ。


(ま、まだ駄目だ!まだ落ちるな俺!)


 手綱を震える手で握り、ほとんど力の入らなくなった下半身を何とか鞍の上に留まらせた。


 近くには味方しかいなくなったとはいえ、ここはまだ戦場なのだ。


 幸い白龍は周囲に転がる二十体超の人間に満足したのか、荒い鼻息を吐きながらも足を止めてくれている。腰が抜けていても、乗るだけは乗っていられそうだ。


(……もう逃げる……もう逃げるぞ……どっちに逃げたら……)


 馮則が目を血走らせて視線を走らせると、遠くに退いた敵兵の一人と目が合った。


 その敵兵は弓に矢をつがえ、限界まで引き絞っている。


 馮則の方へと向かって。


「は、白龍っ!」


 慌てて白龍に移動を促そうとするが、腰が抜けているので腹を蹴るための足が動かなかった。


 そして敵は別の方法で指示を出す間に射ってくるだろう。目が合ったことは向こうも気付いたはずだ。


(駄目だ!やられる!)


 そう思った瞬間、耳の奥で鈴の音が鳴った気がした。


 その音に気を取られている内に矢は敵の手を離れて飛んだ。


「ヒッ!」


 喉を引きつらせて首をすくめたが、それが滑稽に見えるほど矢は馮則から離れたところを流れていった。


 それほど下手な射手だったのかと思って改めて目を向けると、その弓兵の喉に矢が突き立っている。誰かに射たれたらしい。


「おう、危ないところだったな」


 シャラン、と鈴の音が背後から聞こえた。


 振り向くと、弓矢を手にした甘寧が馬を寄せてくるところだった。


「鈴ヤク……じゃない、甘寧様」


「……鈴ヤク?おい、何だ鈴ヤクって」


 ジロリと睨んでくる甘寧に焦りつつ、馮則は必死に話題を逸らそうとした。


「あ……えっと……あ、あいつを射ってくれたのは甘寧様ですよね!?ありがとうございます!」


 甘寧は胡乱げな目で馮則のことを見やったが、細かいことを一々追求するような小さな男ではない。すぐに戦慣れした偉丈夫の目に戻った。


「ああ、白龍が最前線に出されてるって話を聞いてな。さすがに危なっかしいんで、ちょっと出させてもらったわけよ」


 そう言う甘寧は、今回の戦では基本的に孫権の側に控えている。


 この少し前に黄祖側から鞍替えした男なので、敵方の情報をたんまり持っているのだ。参謀のような立場で色々と質問を受けていた。


 馮則もそのことは聞いていたのだが、裏切りの可能性を考慮して戦力は与えられていないとも聞いている。


 そのせいだろう、今も周囲に甘寧の部下らしい者はいなかった。


「……も、もしかして一人でここまで来たんですか!?」


「おうよ、孫権様に一人でいいからちょいとひとっ走り行かせてくれって頼んだら、爆笑して許してくれたぜ。まったく話の分かる御仁だ。黄祖の耄碌ジジイじゃこうはいかねぇからな」


 一兵卒ならともかく、情報と数百人を引き連れて傘下に入った甘寧は先々で一軍を率いてもおかしくない立場にある。それが単騎で最前線まで乗り込むなど、あまりに冒険が過ぎるというものだ。


 そして孫権はその豪気さが可笑しく、また頼もしくも思い、笑って許可を出したのだった。


「白龍もお前も俺が無理やり連れてきたようなもんだからな。まぁ一回くらいは助けてやろうと思ってよ」


 一回くらいとは冷たいような言い方だが、その一回は命を懸けて助けに来ているのだ。


 周囲に転がったいくつもの死体がその事実を十二分に物語っており、馮則の心は感動に震えた。


(この面倒見の良さがあるから人がついて来るんだろうな……)


 それを認識した直後、甘寧の動きに合わせて鈴が鳴った。


 その音が耳に入ると、否応なしに初めて会った時のことが思い出される。


 調教師として穏やかに過ごしていたところへ甘寧が押し入って来て、その日常が壊された時のことだ。しかも今回の戦も甘寧が余計なことを言った結果だと聞いている。


 感動は一気に冷めた。


(……結局は始まりから今日まで全部こいつのせいじゃねぇか!そもそもあんたがいなけりゃ一番良かったんだよ!)


 心の中でそう罵るも、口に出せるわけはない。


 それに助けに来てくれたことは本当にありがたかったので、少々微妙な気持ちながらも再度礼は述べておくことにした。


「ありがとうございました……本当に……」


「おう、それじゃもう帰るぞ。前線の空気は十分吸っただろ」


 それはその通りだと思う。吸い過ぎて吐きそうなほどだ。


 これだけ経験すれば隊長から叱られることもあるまいと思い、馮則と白龍は甘寧とともに本陣の方へと戻っていった。


 この時はまさか、これだけ大変な思いをした報いが鉄拳制裁だとは夢にも思っていなかった。


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