その鼠は龍と語らう5
馮則は新しい職場でいじめに遭っていた。
新しい職場とはもちろん、孫権直属の騎馬隊だ。
いじめられた理由は単純で、むしろこれでいじめられなければ不思議と言ってもいいかもしれない。
ぽっと出の男がいきなり主君に最も近い場所へ配置されることになったのだ。そこは騎馬隊の隊員たちにとって最も栄えある場所であり、いわば憧れの場所だった。
にも関わらず、それを許された馮則は鼠のような取るに足らない小男で、本来騎兵として必要なはずの強さはまるで持ち合わせていない。入隊したての新人にも劣っている。
まさに白龍の尻馬に乗ったような出世の仕方と言えるだろう。面白く思われなくて当然である。
全員が全員馮則を敵視したわけではなかったが、この騎馬隊の中には馮則が好かれる理由が存在しないのだった。
とはいえ、もちろん孫権の目の前でこれ見よがしにいじめられることはない。
そしてそれはつまり、孫権に付く外出時間以外はいじめられるということになる。
むしろ勤務時間の内、孫権の目が届かないところにいる時間の方が断然に長く、その多くは訓練に当てられていた。
兵の訓練ということは、武器を持って相手を叩きのめして良いのである。
「こらぁっ!何をボサッとしてんだ!」
怒号とともに槍で足を払われ、馮則の体が完全に宙に浮いた。
そして尻から落ちて顔をしかめている所へ、槍の柄が降ってきた。
「ギャッ!」
頭を打たれた馮則は、小動物のような悲鳴を上げて仰向けに倒れた。
「ボサッとするなと言ってるだろうがぁ!」
さらに肩を突かれてもんどり打つ。
別にボサッとなどしていない。足払いをかけられた時も、直前に腹突かれて苦しんでいただけだ。
しかしそんな反論など許されないまま、馮則は槍で叩き上げるようにして立たされた。
「戦場でそんな風に痛がってる暇なんぞあるか!」
それは正論なのだろうが、決して相手のためを思っての言葉ではないと馮則自身、よく分かっていた。
なぜなら言っている先輩兵の顔には、嗜虐的な嘲笑が浮かんでいるからだ。
そしてそれは周囲の人間も同じであり、馮則たちを囲んでいる数人の兵たちの顔には一様によく似た嘲りの表情が貼り付いていた。
「よーし、じゃあ次は俺の順番だな」
まるで娯楽の順番待ちが回ってきたかのようなことを口にし、兵たちの一人が進み出た。
「さっさと構えろ!」
「ヒッ!」
怒号に小さな悲鳴を上げつつ、馮則は手にした槍を持ち上げた。
いや、持ち上げようとしたところで、その手首を強かに打ち据えられた。
「いてぇっ!」
カランと音を立てて槍が落ち、馮則は手首を押さえてうずくまった。
骨は折れていないだろうが、青アザにはなるだろう。
最近の馮則の体はアザだらけだ。首から上だけは無事なのだが、服を脱ぐと拷問でも受けたようになっている。
「こうやって相手の動きの起こりを打つのは定石だぞ!覚えておけ!」
もっともらしいことを言っているが、これこそが厄介なのだ。
訓練という体裁さえ整えていれば、いくら傷つけようとも言い逃れできる。少なくともやっている本人たちはそう信じて疑わない。
いじめとは多くの場合、いじめる側が自分の中でそうしても良いという理屈を持っているものだ。
「おっしゃ、次は俺の番……」
「おい、そこら辺にしておけ」
その声に、隊員たちは全員背筋を伸ばして直立した。
馮則が声のした方を見ると、この騎馬隊の隊長がやって来るところだった。
隊長は隊を管理するのが仕事なのだから、不当な暴力が振るわれていれば当然止めなければならない立場にある。
だから馮則は期待を込めて、隊長の名を呼んだ。
「李観隊ちょ……」
「顔だけは避けているだろうな?無駄に孫権様の心を煩わせるんじゃないぞ」
「…………」
馮則は口をつぐんだ。
今の発言は『顔以外なら怪我させてもいい』という隊長のお墨付きを与えているようなものだ。ならば、頼っても無駄だろう。
この李観という隊長は初め、馮則に優しかった。いや、優しくしようと努力していたと言うべきか。
その努力の目的は明白で、白龍を馮則から穏便に奪いたかったらしい。
(どんな暴れ馬だろうと、俺なら乗りこなせる)
李観は騎馬隊の隊長らしく、そんな自負心を持って白龍に跨った。
が、その自負心は粉々に打ち砕かれることになる。
白龍の化け物じみた暴れっぷりに李観は落馬した挙げ句、あわや踏み殺されるところだった。
しかもその時にかなり情けない悲鳴を上げながら転げ回ってしまったので、白龍に面子を潰されてしまったと考えているようだ。ひどく恨んでいた。
『人に従わない巨馬など、むしろ害悪でしかない!早急に処分を検討すべきだ!』
そんな風に罵り、実際に孫権にもそう言上した。
もちろん孫権にとってはこんな面白いものを手放す理由は皆無であり、提言は即座に却下されたのだが。
それから他の騎兵たちも白龍の騎乗に挑んだが、誰一人として乗りこなせる人間はいなかった。
凄まじい勢いで振り落とされ、怪我人も続出した。馮則など横で見ていて、よく死人が出なかったものだと騎馬隊の練度に感心するほどだった。
そして白龍にとって度重なるその挑戦は、よほど鬱陶しいものだったらしい。
兵と見るや耳を後ろに引き絞って警戒し、下手に近づけば噛むか蹴るかするようになった。
そしてしまいには馮則以外、世話をすることすらできなくなってしまった。
『すまねぇな、白龍。嫌な思いをさせちまって』
そう言って謝りながら白龍を洗う馮則を、同僚たちは白龍共々憎むようになった。
馬に乗ることを生業とする騎馬隊、しかも孫権直属という栄えある騎馬隊の一員として、人一倍自尊心の高い連中だ。実際に入隊の基準も厳しい。
それが専門であるところの馬に袖にされ、その馬に楽々と乗れる人間がいる。
さらに悪いことに、その人間は自分たちよりも格段に弱いのだ。
『白龍はきっと、警戒心から惰弱な人間しか乗せんのだ』
ある日、李観がそんなことを言い出した。
もちろん己が乗れないことを正当化するための発言だが、馮則をけなそうという意図もある。
そしてけなされた馮則は、へつらうように笑って身をかがめた。
『へぇ、隊長殿の言う通りで』
己の惰弱さなど百も承知の鼠男である。正直なところ、けなされたとすら感じなかった。
そして悪いことに、その態度こそが李観の癇に障った。
『いやしくも孫権様直属の騎馬隊に所属する者が!惰弱と言われて何を笑っているのか!』
怒鳴られて、訓練場の外周を吐くまで走らされた。
今思えば、これがすべての始まりだった。
この時は走らされただけだったが、どうやら他の隊員たちはこれで馮則のことを攻撃していい存在だと認識したらしい。
惰弱で、この騎馬隊には相応しくない人物。そしてそれを鍛えるためには、多少苦しい思いをさせても構わない。現に隊長もそうしている。
そんな理屈の下、馮則に対するいじめが始まった。
今日もそうだが、戦闘訓練という名目で立ち会いをする。そして打ち据える。
孫権から何か言われないように顔は避け、仕事を休まなくていいように骨折はしない程度の力加減を心掛ける。
隊員たちは、それだけ守れば好きにしてもいいという言質を李観から取っているのだった。
こうなると、もはやこの環境は馮則にとって地獄でしかない。
「馮則、まだ動けるな?動けるはずだ」
李観は自分でそのような痛めつけ方を指示しているから、確認のような言い方になった。
馮則は実際に動けないことはなかったが、全身あちこち痛い。それを顔いっぱいに表現して見せながら答えた。
「いや、でも……もぅどこが痛いやら分からねぇほどあちこち痛くて……」
「戦場で痛いから動けないなどと言っていられるか!」
李観は頭ごなしに大喝してから、口元に嫌味な笑みを浮かべて付け加えた。
「そんな調子では、あの駄馬共々使えない騎兵になるぞ!」
駄馬、というのは当然ながら白龍のことを言っている。
最近ではこの隊長を初め、隊内の多くの人間が白龍のことを使い物にならない駄馬だと断じていた。
初めこそ畏怖と憧れを持って見られていた白龍だが、隊内の全員を拒絶したことで彼らの自尊心を傷つけた結果、
『デカいばかりで使い物にならない駄馬』
という評価を当てられているのだった。
馮則としては納得がいかない。
確かに乗り手を選ぶのは問題だが、馮則が乗っている分には他の馬の何倍も速く、長く走れるはずだ。
いわんや趙雲が乗っていた時など、天を駆けるという神馬とはこういう馬なのだろうと本気で思ったものだ。
「駄馬って……」
馮則は控えめに異論を口にした、というか、口にしかけたというのが正しいほどの消え入るような声でつぶやいた。
しかし不幸なことに、この隊長はとても耳が良かった。いっそう嫌悪のこもった瞳で馮則のことを睨みつける。
「なんだ、暴れるだけで何の役にも立たない馬は駄馬だろうが。人の役に立つどころか、怪我人を出すだけではないか」
「…………」
馮則はこれ以上は反論しない方がいいと思い、黙り込んだ。
しかし上司に従うなら黙るのではなく同意を口にすべきだっただろう。李観は馮則の様子を見て、無言の反抗だと思った。
「なんだその面は!文句があるなら言ってみろ!それとも何か?お前とあの駄馬が役に立つとでも言うのか!?」
怒鳴られてビクリと体を震わせたが、馮則はこの件に関しては李観に同意したくないと思った。
白龍と共に除け者にされ、小さくない連帯感のようなものが芽生え始めていた。
「……あの……足は速いんで……伝令とかなら……」
馮則は相変わらずの小声で、切れ切れに答えた。
そして言ってから、やはり何も言わなければよかったと後悔した。
反論を不快に思った李観の眉がピクリと痙攣し、それから奇妙に歪んだ。
馮則にはその表情が、とても残忍なものに感じられた。
「……いいだろう。では、その駄馬の足が本当に使えるか試してやる」
口の端を歪めて笑い、馮則に白龍を連れてくるよう命じた。そして他の部下に言って、自分の愛馬も連れてこさせた。
李観の馬も立派だが、白龍と並んで立てばどうしても見劣りする。
その景観に李観はフンと鼻を鳴らし、馮則のことを改めて睨んだ。
「私たちとお前たちとで駆け比べといこうではないか。そうだな……」
少し思案顔を作ってから、訓練場のそばにある森を指さした。
「この森の先に、水神の社があるのを知っているな?」
「は、はぁ……前に訓練で通ったので分かりますけど……」
「そこの護符を取って、先にここまで帰ってきた方の勝ちだ。それで負けた方がこの訓練場を百周ということにしよう」
「百!?」
馮則が以前に吐くまで走った時の周数が五十にもいかないほどだった。それを百と言われ、思わず目を剥いて聞き返した。
「そ、それは、自分の足で……?」
「当たり前だろう。そんなことを確認するような根性だから使えないのだ。よし、心根を鍛え直すために、全裸で百周、ということにしよう」
「なっ……!?」
成り行きを見ていた他の隊員たちから笑い声が上がった。ここしばらくで一番の娯楽だというような期待感が目に浮かんでいる。
馮則は全裸で訓練場を走る自分を想像して顔をしかめ、白龍を見上げた。
そしてふと気づいたように表情を緩めると、今度は李観へ気遣うような視線を向けた。
それから言いにくそうに確認する。
「あの……それって……あの……隊長殿が負けたら、隊長殿がやられるんで?」
白龍の足なら負けるわけがない。
そう思って本気で心配したのだが、李観の方はその気遣いを鼻で笑い飛ばした。
「ふふん、もちろんそうしてやるさ。私が負けたら、な」
「はぁ……」
馮則は勝つにしろ負けるにしろ気乗りしなかったが、上官の命令だ。断るわけにもいかないだろう。
(しかたねぇか)
覚悟を決め、最近いっそう機嫌の悪くなっている白龍の背中にするりと飛び乗った。
「よし、それでは勝負開始だ!」
李観がそう宣言し、先に馬を駆けさせ始めた。
白龍はその尻を悠々と追いかけ、すぐに追い越した。
距離的に全力疾走で最後まで走れる距離ではない。
目的地は森の向こうだが、森を突っ切る道は整備されていないのだ。大きく迂回するので、かなりの距離を走ることになる。
(隊長殿は後から速度を上げる気なのかね?)
追い越される李観の顔がいかにも余裕そうだったので、馮則は足を溜めているのだろうと考えた。
(でも白龍の体力ならこの速度でも後半バテることはねぇし、全然余裕で勝てそうだ)
すぐに距離を離し、振り返っても李観が見えなくなるほど差ができた。
馮則と白龍は一人と一頭だけで無人の道をひた駆ける。
風が心地よい。道は小川のそばを通っており、澄んだ空気がやけに美味く感じられた。
馮則は久方ぶりの誰からもいじめられない環境に爽快感を覚えていたが、それは白龍も同じであるようだった。
嫌なのに無理やり乗ろうとされ、それを拒絶してからは悪意ある視線ばかりを向けられてきた。馬の心にとっても相当な負荷だったのだろう。
「すまねぇな。本当にすまねぇ。俺がもう少し上手く立ち回れれば良かったんだが」
馮則は白龍のたてがみをそっと撫でた。
相変わらずの無反応で、まるで誰も乗っていないような態度だ。
しかし、馮則はそれで構わなかった。
白龍と自分はずっとそういう間柄だったし、それを変えたいとも思わない。ただここに来て、ようやく白龍と共に過ごしてきた時が重みを増してきたように思う。
思い返してみると、産まれた直後からどうしようもなく気位の高い馬だった。まだ震える足で立ちながら、労いの声をかけるために近づいてきた牧場主を噛んだのだ。
その時のことを思い出すと、馮則の顔には自然と笑みがこぼれた。
そして成長してからもまるで人に従う気配を見せず、唯一乗せてくれた馮則にすら価値を感じていないように見えた。
ただ、白龍は走るのは好きだった。馮則を乗せて走ってくれるのも、この小男の促すように走るといつもとは違う走りができるから付き合ってくれている、という印象だ。
例えば料理好きの人間が、他人の料理の味付けを楽しむようなものだろうか。
今でも馮則は、白龍が自分に従ってくれているとは思っていない。付き合ってくれているのだと思う。
自分自身で好きに走るのとは違う走り、そのちょっとした楽しみを得るために付き合うのだ。しかもこの鼠男なら存在が矮小すぎて、乗られることがさして気にならない。
結局は、それだけのことだろうと思う。
「でもな……本当は俺、お前に乗れるのが誇らしかったんだ。ほら、俺ってこんな鼠みたいな野郎だから、人に誇れることなんてほとんど無くてよ。でもお前に乗ってる間はなんだか凄いものになったみたいな気がして、嘘でも自分が誇らしかったんだ」
馮則の本質的な願望を言えば、鼠のように目立たずに生きていたいと思う。
しかしその一方で、鼠が龍に乗って飛ぶような高揚感が馮則を舞い上がらせるのも事実だった。
「人間ってのは、そう単純にできてねぇな」
馮則が自嘲気味にそうつぶやくと、白龍がブルルンと鳴いた。
「お、珍しく反応してくれたじゃねぇか。そうだよな、馬だって単純じゃねぇよな」
可笑しそうに笑い、そしてまたたてがみを撫でてやった。
「でも今はお互い単純でいいじゃねぇか。単純に、思いっ切り走って嫌なことは忘れようや。趙雲さんみたいに上手にはやってやれねぇけど、そこはまぁ勘弁してくれよ」
その言葉通り、一人と一頭はただただ走ることを楽しんだ。
風と共に景色が流れ、ぶつかる空気が全身を打つ。それだけの世界。
己がただ走るためだけに存在しているのではないかと思えるほどに、それだけを感じ、それゆえに心の平穏を得て、ひたすらに走る。
そして目的地の社へとたどり着いた馮則は久しぶりに清々しい顔をした白龍を止め、管理人の老爺から護符を受け取った。
(隊長殿はまだかなり後ろだろうな)
白龍の足を考えると、当然そういうことになる。
全裸で訓練場を走る李観を想像し、心苦しい気分になった。
もちろん馮則や白龍に対する言動を思えば自業自得だろうと思えるが、同情心が湧かないかと言えばそうでもないのが人情だ。
「でもまぁ、仕方のねぇこった。帰るぞ、白龍」
そう言って馮則はまた、白龍と共に爽快な走りを楽しんだ。
しかし訓練場がだいぶ近くなってから、馮則は我が目を疑った。
遠くを走る李観とその愛馬の後ろ姿が見えたからだ。




