その鼠は龍と語らう1
花のような血飛沫があちこちで咲き乱れ、馮則はめまいを起こしてしまった。
気持ちが悪い。悪酔いでもしたかのようだ。
胃の腑からせり上がるものを何とか抑えられたのは、吐いている間に殺されるかもしれないという恐怖に駆られたからだった。
今は戦の真っ只中であり、ここはその最前線の激戦区に当たる。そこで悠長に嘔吐していられるほど、馮則の肝は太くないのだ。
(俺はなんで、こんな所に……)
そんな自問自答に意味など無いことは知っている。
しかし、後悔とともに思わずにはいられない。
(兵士になんぞなるんじゃなかった……やっちまった……人生最大の失敗だ……)
そう思いつつ、一方でそうせざるを得なかったのではないかという思いもある。
そしてその原因となった男の顔が、鈴の音が思い起こされた。
(何が栄えある孫権様直属の騎馬隊だ!あの鈴ヤクザめ!)
心中で悪態をつきながら、敵の目が自分に向かないことを必死に祈った。
馮則は騎兵であり、一応槍は持っている。
しかしその柄は細く短く、穂先もおまけのように付けられた小さなもので、ものの役には立ちそうもなかった。
役に立たないといえば、馮則自身もそうだ。騎兵のくせに武器の扱いはてんで駄目で、その上体格は鼠のように小さいときている。
前職は肉体労働だったのでそれなりに筋肉は付いているものの、戦場では役立たずという評価が適切だろう。
そんな場違い感に満たされた馮則だが、敵兵が馮則を見る目には油断がない。
むしろそれどころか、欲と功名心に燃え上がった熱い視線を向けてきた。
「あの化け物みたいな馬にまたがった騎兵を討て!あいつが指揮官に違いない!」
敵兵の一人がそう叫んだのだが、その人差し指は馮則へ向かって真っ直ぐ伸びていた。
(化け物みたいな馬、か……全くもってその通りだな)
馮則は敵の迷惑な勘違いに冷たい汗をかきながら、その部分については同意した。
指揮官などころか隊の中でも最底辺の扱いを受けている馮則だが、その乗騎は信じられないような巨馬なのである。
見上げるような体躯は並の軍馬よりも二回り以上大きく、目方は倍ほどもありそうだ。
体毛の色は山梔子の花のように清廉な白なのに、清いと思う前にその巨大さに圧倒されてしまう。
さらにただ大きいだけかと言えばそのようなことはなく、馬体の表面に浮き出た筋肉の隆起は惚れ惚れするほどで、もはや美しいばかりの陰影が力強くその存在を主張している。
化け物のような、というか化け物だ。怪物だ。
何なら生物の種として、馬であるという事実の方に疑義が生じてしまう。
そんな冗談が冗談に聞こえないほど、馮則がまたがっている馬は規格外だった。
その化け物が、
ヒュン!
という甲高い声で鳴いた。
それを聞いた馮則の顔が急激に青さを増す。
「白龍!落ち着け!落ち着けよ!」
馬の名を呼び、なだめるために首筋を優しく叩いた。
白龍というこの馬は、神経過敏で気難しい上に、とても気位が高い。敵兵たちから殺気を向けられ、それを不快に思っていることは明らかだった。
馬は相手を威嚇する時に甲高く鳴く。ヒュン!という先ほどの声は、白龍が『これから暴れるぞ』という宣言のようなものだった。
(おいおいここは戦場だぞ!?こんな所で好き勝手に動かれたんじゃ、命がいくらあっても足りねぇ!)
戦場で馬が人の制御を離れてしまうということは、非常に危険なことだ。
極端な話、敵の真っ只中に突っ込んで行かれてもおかしくない。
そして馮則にとって最悪なことに、その極端は行われてしまった。
白龍は己へ不快な感情を向けるものどもを蹴散らすべく、敵の真っ只中に突っ込んで行く。もちろん上に乗せた馮則も連れてだ。
一人と一頭に向けて槍衾が展開された。
馮則の視界にそのきらめきが広がると、耳にはなぜか鈴の音の幻聴が聞こえてきた。
(そうだ、鈴の音……あの鈴の音が全ての最悪の始まりだった……)
馮則はそれを思い出しながら、呪うような悪態を口中で噛み潰す。
「……あの鈴ヤクザっ!!」
鈴ヤクザ。甘寧という武将に馮則がつけた、会心のあだ名である。




