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038 孫堅

 許靖の言葉に、孫堅の片眉がピクリと上がった。


「虎はいいとして……海賊か」


「はい。虎に率いられた海賊が、敵船と戦っていますね」


 それを聞いた孫策が、無垢な瞳で父に尋ねた。


「父上、やはり父上は海賊だったのですか?」


 父は息子の言葉に武人らしくない狼狽(うろた)えを見せた。それが伝わったのか、その膝の上で孫権が小さな声を上げる。


「な、なにを言う。それに『やはり』とはどういうことだ」


「家中の者が『一介の海賊がよく司馬にまで……』などと言っているのを聞いたことがあります。それに、郷里の嫌な奴と喧嘩した時に『海賊の息子め』と言われて殴り掛かられたこともありました」


 孫堅は一瞬苦い顔をしたが、すぐに真顔に戻って孫策へと向き直った。


「馬鹿を言うな。我が家は名誉ある孫武の血を引く家系だぞ。お前も知ってのとおり、私は十七の時に海賊退治をして世間から見いだされた。それが変に伝わっているだけだろう。それに、許靖殿も過去や経歴が分かるわけではないと言っていた。そうだろう?」


(たまに前職などが分かりやすく「天地」に反映される人もいるのだが……)


 許靖はそう思ったが、口にしないことにした。


 代わりに孫策へと優しく微笑みかける。


「孫策殿は黥布(ゲイフ)という昔の武将をご存知だろうか?『覇王』と称えられ高祖と争った項羽(コウウ)の猛将、黥布だ」


「はい、存じております。覇王項羽は高祖に敗れたとはいえ、私の憧れでもあります」


「ならば分かると思うが、黥布も過去に罪を犯して顔に入れ墨があったという。過去と現在、そして未来は繋がってはいても、別々のものだ」


 孫策は瞬きもせずに許靖の話に耳を傾けている。


 許靖は素直な良い子だと感じた。


「お父上の武勇は万人の知るところで、それこそ古の孫武にも劣らないものだ。たった今、大戦果を上げられて凱旋なさった英雄が過去に海賊だったかどうかなど、私はどうでもいい話だと思う。そしてそれは、孫策殿自身の価値にも何の影響もないはずだ」


 孫策の澄んだ瞳は許靖の言葉をまっすぐに吸い上げるように開かれていた。やがて、その頭がこくりと縦に振られた。


 孫堅はその様子にほっと一息ついたようだったが、やがて不満そうに口を開いた。


「しかし許靖殿、私は自分ほど忠烈な人間はこの国にいないと思っている。それは確かに海賊なのだろうか?官軍ではないのか?」


 孫堅の忠義心は世間で評判だった。


 孫堅は地方から出てきた人物だが、皇帝により近い中央の人間よりも地方の人間の方が忠義心が篤い、というのはよくある話だ。


「実は……確かに官軍の旗が船上に掲げられてはいるのですが……」


「何?では官軍ではないか。虎が海賊を率いているのではなく、虎が官軍を率いているだけだ」


 孫堅は嬉しそうに笑った。


「ですが何というか……官軍らしくありません」


「どういうことだ」


「私も仕事の都合上、官軍の訓練などを目にすることもあるのですが、まず衣服が違います。正規の官軍が着るような統一された部分がない。こう言うとなんですが、ゴロツキがしているような格好です」


「……官軍でも衣服や装備などがバラバラのことも多い。特に今回の黄巾の乱鎮圧ではそのようなことを気にしているような余裕などなかった」


「それに、戦い方にも違いがあるように思えます。確かに強いのですが、何というか……全体的に荒っぽい。私が見た官軍はある程度統一された動きをしますが、虎が率いている部下たちは、もっとこう……」


「ああ、それは仕方ない。その方が強いことも多いからな」


 孫は深々とうなずいて答えた。


「大軍同士のぶつかり合いなら、確かに統一された動きこそが重要だ。しかし現実の戦では、場所を限定した小規模なぶつかりあいや、少人数での撹乱を目的とした戦闘も多い。そういった場では統一された動きをさせるよりも、ある程度好きにさせた方が良いこともある。もちろん個々の兵が強く、戦い慣れていることが条件だが」


 局地戦やゲリラ戦では、必ずしも訓練された正規軍が強いというわけではない、というのが叩き上げの武人である孫堅の持論だった。


「そもそも官軍は形にとらわれすぎなのだ。目の前の戦よりも書物の上の理屈を優先させる。戦はもっと単純だ。自分がいて、相手がいて、自分が相手を屈服させる。これが全てだ」


 そう言って胸の前で拳と手の平をぶつけて見せた。


(孫武の血筋とは思えないようなことを口にしているが……)


 何となく孫堅の言わんとすることは分かったが、経歴的にはそれでいいのだろうか?


 許靖はそう思ったが、黙っておくことにした。


「官軍などより、海賊の方がよほど強いと思うことは多いぞ」


「なるほど、勉強になります」


 その相づちは許靖ではなく、孫策が打ったものだ。父の言葉に熱い視線を送りながら興奮気味に話を聞いている。


 横から思わぬ合いの手を入れられた孫堅は、心配そうに息子を見やった。


「策、勘違いするなよ。海賊が良いと言っているわけではないぞ。その強さの要因を話しただけだ」


 分かったのか分かっていないのか、孫策はコクコクと首を縦に振った。


「……しかし、そのような戦の癖まで見抜けるということか。許靖殿は恐ろしい人だな」


 孫堅は唸るようにそうつぶやいた。これは武人としての感性だろう。


 許靖はその言葉に首を横に振る。


「いえ、そこまでは分かりませんでした。何が見えるかということと、それを正確に解釈できるかはまた別の問題です。」


 結局のところ、正確な解釈には許靖自身の経験が必要なのだ。


 しかし、臆病者の許靖に戦の経験など得られるはずがない。


「いや、それでも十分すぎるほどだろう。では、そういったことを踏まえて何か助言をいただけると助かるのだが」


 許靖はうなずいて答えた。どれだけ分析をしても、相手のためになることが言えなければ意味がない。


「孫堅殿は強い。孫堅殿自身も、率いている兵も強い。あなたの瞳の奥からはそれが読み取れます。武将として抜群の能力を感じます。しかし、私としては虎が先頭に立って戦っているのが気になるのです」


「どういうことだろうか?」


「虎は孫堅殿自身で、兵たちの大将だと見ます。強いとはいえ、大将は本来なら一番奥に控えていなければならない。それが先頭に立ち、しかも一番多く敵を倒している。危険です」


 許靖はそこで一拍の呼吸を置いてから言葉を続けた。


「このような型の人は、突発的な怪我や死に見舞われることが多いように思います。よくよく気をつけて動かれるのが良いでしょう」


「……なるほどな」


 孫堅は叱られた子供のように頭を掻き、苦笑した。


「つい先日も、それで側近たちから大目玉をくらったところだ。宛城(えんじょう)の攻略でも私が先頭に立って城壁を登ってな。大勝利だったが、周囲は生きた心地がしなかったらしい」


 正気の沙汰とは思えない。


 攻城戦において、城壁を上るのは最も危険な仕事だ。それくらい許靖でも分かる。それを、将自らが先頭でやるとは。


「それは……そうでしょう。いくらなんでも」


 許靖は半ば絶句するように、それだけ言うのがやっとだった。


 しかし、孫堅はこの男らしく朗らかに笑ってみせた。


「分かるのだ。許靖殿の言うことも、部下たちの心配も。しかし率いる者が先頭に立てば兵たちは奮う。それに自らの身を危険に晒すことで私自身、兵たちの気持ちが分かるのだ。戦において、指揮において、これはとても大切なことだ。実際にそれで私は勝ち続けている」


 叩き上げの武人らしい台詞だと思った。


 だが、許靖は止めなければならないとも思った。


「しかし、それは綱渡りをしているようなものです」


「ああ、そうだな。上手く渡れるよう、よくよく気を付けるとしよう」


「孫堅殿が上手く渡っても、綱が切れるということもあります」


「それも否定はせん。しかし、武人がそれを恐れるべきではない」


 何の迷いもなく答える孫堅の横顔を、孫策の瞳がまっすぐにとらえていた。


(もし孫策殿が同じことをして綱から落ちたとしたら、あなたはどう感じるのだ?)


 許靖は少し責めるような気持ちになったが、孫堅の武人としての心はそれすらも肯定するかもしれない。


 そう思い、口にはしないことにした。


「ご忠告痛み入る。もちろん私も無駄に身を危険に晒すつもりはない。今後は今よりも控えるよう気を付けよう。ただ、戦ではそれが必要なこともあるのだ。兵たちの命を預かる上でも、相手の命を奪おうとする上でも、自らの危険は受け入れなければならない」


(戦をするのがこのような人ばかりなら、むしろ戦は減るのではないだろうか)


 許靖の頭に、何の解決にもならないそんな思考が浮かんで消えた。


 孫堅は茶をすすり、気分を入れ替えるように大きな息を一つ吐いた。


「私のことは分かった。あとは、息子二人に関して教えていただけるだろうか」


「実はそのことですが、お二人に関してはあまりはっきりしたことが言えません」


「なに?それは子供だからか?」


 許靖は首肯して答えた。


「おっしゃる通りです。子供はまだ人格がしっかりと定まっていません。もちろんある程度のものは見えるのですが、大人ほどはっきりしていなかったり、その後大きく変わったりします。少なくとも将来的を測る上では、あまり参考になりません」


「なるほど……こういった人物鑑定では『将来こんな人物になる』『将来こんなことを成し遂げる』というものが多いが、許靖殿はあくまで現在を見るのだな」


「おっしゃる通りです。私に見えるのは現在とそこに至る過去の残影、そこから類推される未来の可能性です。はっきりした未来など分かりません。しかしどのような現在であっても人は変われると思いますし、人が変われば未来も変わると思うのです。使えない人物鑑定で申し訳ありませんが……」


 許靖の言葉に孫堅はいっそう感心し、この文官を好きになった。


「いや、むしろその方が信頼できる。私も人は変われると思うし、決まった未来など欲しくはない。息子二人も、自分たち自身で良い方向へ向かってくれればと思うのだ。その参考にしたいから、はっきりしない現在でも教えてくれるだろうか?」

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