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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景41

 張懌は目を覚ますと、まず己の下半身を確認した。


 手を伸ばして触り、それから鼻に近づけて嗅いで、臭くないことを確認してからようやくホッと息を吐いた。


 どうやら寝ている間に清められたらしい。


 下の世話をしてもらったことに恥ずかしさは募るが、意識を失う前は全身が汚物だらけだった。その状態から脱せられているというのはありがたい。


 安心して上半身を起こし、周囲を見回してようやく自分の置かれた環境を理解した。


 張懌はどこかの民家にいた。はっきり言ってかなりのボロ屋だが、張機が清掃したのか張懌が寝かされていた周辺は汚くない。


 寝具として掛けられていた布もきれいなものだ。


 ただし全体として、しばらく人が住んでいないことが明らかな家屋だった。


「ここは……」


 張懌のつぶやきが開けっ放しになっていた戸から外に漏れたようで、張機が入ってきた。


「起きたか。気分はどうだ?」


 問われて腹を撫でながら己の体調を探った。


「……だいぶ良いようです。すごくスッキリしていて」


 意識を失う前の状態を思い出すと、清々しいほどの気分だった。


 張機はその顔色を見て、脈を取ってから竹筒を差し出した。


「飲め」


 言われた通り中の水を飲むと、ものすごく美味い。


 塩が入っているようでややしょっぱいのだが、それが体に染み込んでいく心地良さがある。


「美味いです」


「そうだろう。嘔吐も下痢も体の中の塩を大量に出す。出ていった分を体が補充したがっているんだ」


 張懌も汗をかいた時には塩水がいいことは知っていたが、嘔吐下痢でもいいとは知らなかった。


 なるほどと納得しているところへ、今度は粥を差し出された。


 刻んだ野草が入っており、良い匂いが漂っている。


「薬草も入れておいた」


「すいません本当に……何から何まで……」


 飯のことだけでなく、体を清めてくれたのも張機だろう。


 そのことに恐縮しながら粥を含んだ。この粥も本当に美味い。


「私はどのくらい寝ていたのでしょうか?」


「一日半だな」


「一日半!?」


 今は倒れた翌日の昼だと思っていたが、さらに一日が経過しているということだ。


 道理で粥が美味いわけだ。それだけ時間が経てば腹も減る。


「あの後、半日ほど北上して今いる村にたどり着いたんだ。この家は数年前に住人が死んで空き家になっていたらしい。村人に頼んで使う許可をもらった」


「そうですか……しかし一日半も経ったなら早く出発しないと!急いで食べます!」


 劉表軍は準備が終わればすぐにでも攻めてくるだろう。本当に時は一刻を争うのだ。


 張懌は椀を傾けて粥をかきこみ、ろくに咀嚼もせずに飲み込んだ。


「おいおい、ちゃんと噛んで食べないと力にならないぞ」


「大丈夫です…………よし!食べました!行きましょう!」


 足に掛かっていた布を払い除け、勢いをつけて立ち上がる。そして大股で踏み出そうとした。


 しかし張懌の勇ましい一歩は、ガチャリという無機質な金属音によって阻まれた。


「……うわっ」


 進むはずだった足が引っ張られ、躓いたように体勢を崩して転んだ。


「な、なんだ……鎖?」


 先ほどまで寝具の布が掛かっていたから見えなかったが、張懌の足首は足枷がはめられており、それには鎖が繋がれていた。


 そしてその鎖はというと、この家の一番大きな柱に回されていた。


 つまり張懌は犬か奴隷、もしくは罪人のように繋がれている。


「これは……一体……」


 自分が拘束されているのだということに気づいた張懌は、まず呆然とした。これではこのボロ家を出ることも叶わない。


 それから当然、第一に尋ねるべき人に尋ねた。


「張機様、私はなぜ鎖で拘束されているのですか?」


 張機はすぐには答えず、張懌から少し距離を取って座った。


 鎖の長さの向こう、張懌が手を伸ばしても届かない位置だ。


(まるで私が暴れても安全な場所へ避難したかのようだ……)


 張懌はそう思ったが、嫌な予感が現実になりそうで口にはできなかった。


 座った張機は疲れたようなため息を吐き、それからようやく答えてくれた。


「お前をここから出さないためだ」


 まさか。


 そう思いつつ、張懌は問いを重ねた。


「なぜ……出さないのでしょうか?」


「お前を戦に出さないようにするためだ」


 そう言われた瞬間、張懌の中で色々なことが繋がった。


 そして怒りとともに叫び声を上げる。


「つまり、張機様は劉表の間者だったということですか!?」


 爪が床板を掻き、ガリリと音が鳴った。


 飛び掛かろうと床を蹴ったが、ガチャリと音が鳴るだけで先には進めない。


 再度、無様にその場へ転んだ。


「信じていたのに!!父上のとても大切な友人だと思い、私は信じていたのですよ!?」


 それはほとんど確信に近いような認識のもと、上げられた叫びだった。


 しかし張機はその思い違いを明確に否定した。


「その推測は間違っている。よく考えてみろ」


「何がどう間違いなのです!?劉表から命じられ、総大将を戦線離脱させようとしたのでしょう!?」


「それなら船の上で致死性の毒薬を飲ませてる。護衛たちを帰してからは殺す機会がいくらでもあったのに、こうやって生かしている意味がないだろう」


 張懌はそう指摘され、少し勢いを削がれた。


 確かに殺した方が確実で、その点自分は手加減してもらっている。


「それは……旧友の息子ということで、情けをかけてくれたのでは……」


「なら一昨日の兵たちにお前の素性を隠したのはなぜだ?どうしてここで秘密裏に監禁している?劉表様の間者なら普通に兵へ引き渡せばいいだけだろう」


 その点も、確かにそうだと思った。


 しかし情けをかけようとして、断られた可能性もある。


「……劉表に助命嘆願が受け入れられなかった、とか……」


「一人の助命でこのくそ面倒な反乱が収まるなら、劉表様はそれくらい受け入れられる。それに、そもそもの話を考えてみろ。お前の病の話だ」


「病?」


 張懌は言われてハッとそのことに思い至った。


 そして小さくない安堵を覚える。こうなると、自分の病が本物ということはないだろう。


「そもそも私が病だというのは嘘だったということですか?私を城から出すために考えた方便で……」


 それは嬉しいことではあったが、今話しているのは動機の話であって、手段の話ではない。張懌は脈絡が狂っていると感じた。


 ただ、張機が言いたいのはそこではないのだ。


「違う。もっとそもそもの部分だ。お前はなぜ自分の病が遺伝性のものだと信じた?」


 言われて張懌は視線を漂わせ、記憶を探る。


「それは……父上がそう言ったから……」


 だから張懌は信じた。


 もし張機が初めに言い出した上、張機の出した予防薬を飲み始めて体調を崩せば怪しいと思うのが普通だろう。


 しかし誰よりも信頼する父の言がことの始まりだったからこそ信じてしまったのだ。


 それは桓階たち側近も同じだったはずだ。


「そうだ。張羨がそう言った。つまりお前の戦線離脱は張羨の、お前の父親の遺志に基づくものだ」


「そ、そんな……どうして……?」


 張懌は困惑した。意味が分からない。


 しかし次の瞬間には少し安心もしていた。


(父上は深謀遠慮の人だ。何かしら深い理由があってそうされたのだろう)


 それならば、このまま身を任せていればいいかという気になる。


 が、張機の次の言葉で張懌の心情はまた完全な困惑に戻っていた。


「父として、息子に死んで欲しくなかったからだよ」


 まさかそんな理由は想像していなかった張懌は、聞き間違いかと思った。


「私に死んで欲しくなかったから!?まさか、父上がそんなことを……」


「張羨はお前が自分自身の気持ちを抑圧していることを憂いていた。他人の望みを全て肯定し、己の望みを口にしないことを心配していたんだ。それを知らないまま死ぬのは忍びない、というような話をしていたな」


「私の……望み?」


 張懌は己の胸に手を置いて、それを考えてみた。


 そしてさらに困惑を深めて眉間にしわを寄せた。


 言われた通り、自分は他人がこうすべきだ、これが良いと言うことがあれば、よほど酷いことでなければ否定せずにうなずいてきた。


 そうした方が相手は気分のいい顔をしてくれるし、それを肯定する行動をすれば喜んでくれる。褒めてくれる。認めてくれる。


 それに張懌にとって人の望みの輝きはどれも美しく感じられるから、自身の輝きには目を向けることがなかった。


(自分自身の望みと言われても……あまり考えてこなかったから、よく分からないな)


 張懌はそう思う。


 自分の望みを叶えたとしても、誰も褒めてくれない。ならば他人の望みを叶えようとする方が魅力的に感じるので、ずっとそうしてきた。


 一番褒めてほしい相手は父だったが、父は心を満たしてくれるほど褒めてくれなかった。だから他の人間からでも褒めてほしいと思い、張懌は周囲の意を汲んで動いてきたのだ。


「私自身の望み……」


 張懌は口中でもう一度繰り返し、新鮮な気持ちで己の心を見つめてみた。


 確かに今まで気づかなかった何かがある。


 ただそれを掴み切る前に、もっと常識的な部分で大きな大きな引っ掛かりを感じてしまった。


「あの……父上のおっしゃっていたことに感じ入るものはあるのですが……そのために総大将である息子を逃がすというのは、あまりに問題がありすぎると思うのですが……」


「ああ、お前の言う通りだ。だからと言ってやっていいことじゃない。ただの方便だろう」


「ほ、方便!?」


 張懌は張機の言い様に、思わず大きな声を出してしまった。


 しかし張機は何でもない顔をして続ける。


「そうだよ。息子を死なせたくないための方便だ」


 断言してから、張懌の胸に当てられた手を見つめて少し言葉を足す。


「……その様子を見るに、完全に方便だけじゃなかったんだろうとは思う。だけど八割方は方便だ。そうさせた親の情について、まだ子のいないお前に分かれとは言わない。いなければ分かるわけがないからな」


 これに関して張機は張懌に理解してもらうことを端から諦めている。


 逆に子がいれば分かるはずだ。肯定する人、否定する人、同情する人、非難する人、どれもいるだろうが、気持ちが分からない親などいない。


 もし仮にいるとしたら、単に子育てにあまり関わっていなくて愛情を実感できない者だけだろう。


 実際に張懌はよく分からないという顔をしながら首を横に振った。


「しかし……あの厳しかった父上が私を生かすためだけにそんな愚行を犯すとは思えません」


 愚行、という単語に張機は苦笑した。


 その通り、愚行で間違いないだろう。


「本当に愚かなことだよ。張羨自身もそう思っていたから、息子が総大将になるのを止めなかったんだろう。もし僕が無理やり本音を聞かなければ、張羨は息子に後事を頼んで逝った大丈夫として終わったはずだ」


 張懌は一度目を大きくして、それから張機を睨んだ。


(父上の行動はただ一点、張機様だけで矛盾している)


 そう気づいた張懌は、目の前の父の親友が憎くなった。


「……つまり、張機様がいなければ父上は晩節を汚すようなことをしなかった、というわけですね?張機様が父上を(たぶら)かしたということですか」


「誑かした?」


 その表現は、張機にとって少々面白かった。


「……なるほど。確かにそれは間違いじゃない。相手の愚かさを指摘せず、ただ黙って受け入れるのは誑かすのと大差ないかもしれないな」


 唇の端を少し上げた張機に、張懌は苛立った。


(やはりこの人が父の晩節を汚したんだ!!)


 そう思い、床を叩いて相手を責めようとする。


「あなたは……!!」


「聞いた限り、張懌がいつもしてることと同じだとは思うけどね」


「なっ!?」


 その指摘に、張懌は二の句が次げなかった。口をパクパクとさせるが、何も言葉が出てこない。


 相手の言う事を否定せずに、ただうなずいて生きてきたのは自分自身の方だ。言われてはたと気がついた。


 たじろぐ張懌を見て、張機は少し意地の悪いことを言ってしまったと後悔した。


「すまない。別に張懌の生き方を否定するつもりはなかったんだ。それに自分の方は正しいなんて言うつもりもない。どう言い訳したところで、今は張懌本人の意志を無視して監禁しているんだからね」


 謝られ、張機が自身の非を認めたことで張懌は気を取り直した。


「そ……そうですよ!たとえ私の命を救うためだとしても、独善的です!」


「ああ、だから張懌にも一つ機会をあげようと思う。自分で自分の運命を勝ち取るための機会だ」


「運命を……勝ち取る?」


 眉を寄せた張懌の前に、張機は片手を上げて見せた。


 そこには鍵が握られている。


「足枷の鍵だ。僕を倒してこれを奪うといい」

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