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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景39

 張羨の命の火は完全に消えた。


 幸いなことに、それまで起きている間の意識は割としっかりしていたのできちんと話もできた。


 だから張機も張懌(チョウエキ)も、比較的きちんとお別れができた方だと言えるだろう。


「張懌様が我らの新たな総大将となります。ただし劉表軍が引き返して来ないように、しばらく秘すことにしましょう」


 桓階(カンカイ)の提案でそう決められた。


 張羨が死んだことが知られれば劉表軍が反転攻勢をかけてくるかもしれない。だからしばらくの間は情報統制を行うべきだろう。


 数ヶ月でも隠し通せれば、その間に諸将の心情も安定してくるはずだ。 


「私は父の跡を継ぎ、三郡を率いて帝への忠節を尽くす」


 張懌は諸将の前に立ち、そう宣言した。


 その姿は若いながらも堂々としており、頼りがいを感じさせる。


 それに加えてすでに陣頭指揮を取っていたわけだから、諸将も不満なく新しい総大将を受け入れているように見えた。


 むしろ張懌の若々しい輝きに酔うような興奮を覚えている者もいる。


(これはもしかして僕が要らないことしなければ、張懌は一群雄として飛躍していけるんじゃないか?)


 張機はそんなことを考えていたが、ほんの三日後にはその考えはきれいサッパリ捨てた。


 帰還した劉表軍がまた出陣の準備をしているとの情報が入ったのだ。


 しかも同時に宗賊の勢力がいくつか軍営から消えていた。


(裏切ったか……張羨死亡の情報を手土産に寝返りを計ったな)


 起こったことを考えると、そうとしか思えない。


 恐らくだが、その宗賊たちは張羨個人に対する信頼でもって反乱に加担していたのだろう。


 それが死んだのだから離れていくのは必然と言える。


 加えて袁紹・曹操戦において、張羨が味方している曹操の旗色が悪いという情報も裏切りを後押ししているのかもしれない。


 そちらは今後の中華を統べる者を決める戦いと言っても過言ではない。ならば今から袁紹派の劉表に通じておこうというのは悪い判断ではないだろう。


 この事態に、張懌の軍は見ていて憐れなほど動揺していた。


 また籠城すればすぐに落ちることもないだろうが、次は先日のような奇策は無い。奇策を思いつく張羨もいない。


 そしてこの動揺を押さえられるほどの重みは、若い張懌にはまだ無い。


 無い無い尽くしの中で諸将の目には、


『次は誰が裏切るのだろうか』


『自分が先んじて裏切らねば危険なのではなかろうか』


という不穏で不安な色が浮かび上がっていた。


(やっぱり張羨の思った通りになったな。もう長くないだろう)


 どこまで予想していたのかは分からないが、張羨の言っていた通り次に腰を入れて攻められたら勝てなさそうだ。


 そう考えた張機は計画を実行に移すことにした。


 そしてその翌日。


 張機がそろそろだろうなと思った頃に、張懌から呼び出された。


「あの……張機様……」


 声にどこか言い淀んだようなところがある。


 目の下にはくっきりとクマが見て取れた。ここ最近の悪い報告によって眠れていないことがよく分かった。


 しかしそれだけとは思えない。顔面が蒼白になっており、今差し迫っている恐怖に怯えているようだ。


 とはいえ劉表軍はまだ準備中ということであり、進発したという情報は届いていない。


「どうしたんだ?顔色が悪いぞ」


「最近腹がゆるく……口唇や舌が痺れるのです……」


「何だって!?それは張羨の初期症状と同じじゃないか!!」


 張機は大仰に驚いてみせた。


 目を丸くして張懌へと駆け寄る。そして脈を取りながら舌を診たり、腹を押したりして診察を行う。


「確かに……これは例の遺伝病が発症してしまっているな」


「そんな!予防薬を飲み始めたのに!」


 むしろ予防薬を飲み始めたからだ。


 事実としてはそういうことなのだが、当然そんなことは伝えない。


 張機は予防薬と称して大黄や附子を多めに配合した薬を飲ませていた。


 大黄は下剤で、附子は中毒を起こすと痺れを生じさせる。


 しかし素人である張懌は当然そんなことは知らない。


「予防薬を飲み始めたのが遅すぎたんだ」


 張機はまた嘘を重ねた。


 医師というのは恐ろしい存在である。もし悪意があれば、知識のない患者を殺すことなど容易い。


「で、では……もう私の体はどうしようもないのですか?ち、父と同じような……経過をたどるのでしょうか……」


 真っ青だった張懌の顔はさらに白くなり、立ちくらみを起こしたのかふらついて一歩後ろに下がった。


 苦しんで死んだ父の姿が脳裏に浮かぶ。


 餓鬼のように痩せこけた頬、黄色く濁った目、内出血の痣……


 父を見ていた時は可哀想という気持ちだったが、それが自分に向かってくると思うと血の気が引いた。それにまだ若い分、病の経験も少ないからその恐怖に対する耐性がない。


 遺伝病だと聞かされた時から何度もそうなる夢にうなされて目が覚めた。


 ただでさえ最近は裏切りや戦の重圧で眠れないのに、この上病も重なれば一睡もできなくなって不思議はない。


「ちょ、ちょ、ちょ……張機様……わわ私は……」


 どもりまくる張懌の肩を張機が掴んだ。


「安心しろ。張懌はまだ初期だから治療方法がないわけじゃない。曹操様のもとに華佗(カダ)先生という名医がいる。その先生なら直せるだろう」


「華佗……先生……」


「そうだ。華佗先生はこの中華で唯一開腹手術、腹を切り開いての治療が行える」


「はっ、腹を切り開いて!?」


「驚くだろう?華佗先生にしかできないことだが、それをすれば治る。そしてそれ以外に治療法はない」


 腹を切ると聞いた張懌は明らかにうろたえた顔をしていたが、他に治療法がないと言われてはどうしようもない。


 それを想像してしばらく固まっていたが、やがて生唾を飲みながら小さくうなずいた。


「わ、分かりました」


「よし。なら早く出よう。その方が助かる確率が上がる」


「すぐですか!?お待ち下さい!劉表軍が攻めてきそうな状況で私がここを空けることを諸将が了承するとは思えません!」


「いや、むしろこの状況だからだ。桓階殿を呼んでくれ」


「……?」


 張懌はよく分からない顔をしながらも、すぐに言う通りにしてくれた。


 そしてやって来た桓階にも病状と治療方法を説明をする。


「なるほど……私も華佗という医師の話は聞いたことがあります。腹を切っての治療というのは本当のことでしたか」


 そう言いながら張懌に向けられた桓階の目には、少なからぬ失望の色があった。


 自分たちで推戴したとはいえ、こうも早い発症が分かっていたら総大将になどしなかっただろう。


 張懌はその視線を受けて可哀想なほどうなだれている。


 張機は少し気の毒に思いながら、立ち位置を変えて二人の間に入るようにした。


「麻沸散という特殊な薬を使うそうですが、使い方が難しいようで処方が公開されていません。華佗先生ご本人のところへ行くしかないでしょう」


「状況は分かりましたが、張機殿も我が軍の状況はご存知でしょう?」


 劉表が攻めてくる。


 裏切りも発生していて諸将が動揺している。


 その上で総大将までいなくなって、果たしてまともな戦ができるだろうか。


 桓階も張懌ほどではないが、かなり顔色が悪い。現状は本当に厳しいのだ。


「むしろこの状況だからですよ」


 と、張機は先ほど張懌に言った言葉を繰り返した。


 しかし桓階には分からない。眉根を寄せて小首をかしげた。


「……というと?」


「それこそ張懌が健康だったとしても、このままでは勝つのは難しいでしょう」


「認めたくはありませんが、そうですね」


「自分たちだけで勝てないのなら、どうしたらいいか?それは援軍です」


 桓階は頭の良い男なので、これだけで張機の言わんとする事の大半が分かった。


「……なるほど……なるほど」


 小さくつぶやきながらうなずく。


「曹操軍に援軍を求めるわけですか」


「そうです。華佗先生は曹操殿のもとにいて、そこへ行くのだからついでと言ってはなんですが援軍を要請すればいい」


「曹操軍には一度援軍を断られていますが……」


 張羨の存命中、そういうことがあったのだ。


 張羨は曹操に味方することを表明していて、実際に劉表の動きを封じることで貢献もしている。


 だから援軍を求めるのは全く筋の通った要求なのだが、断られてしまった。


 これは曹操がケチだというわけではなく、本当に余力がなかったのだ。曹操軍は対峙する袁紹軍に比べて圧倒的に戦力が小さく、他所に送れるような兵はいない。


 その戦力差は諸説があるが、曹操軍四万に対して袁紹軍は三十万から五十万とも言われるのだから余力など発生しようがないだろう。


「ですが、ここが落ちれば劉表軍は後顧の憂いなく袁紹に援軍を出すでしょう。そうなれば曹操軍は挟み討ちです。張羨が死んだことや裏切りが起こっていることを伝えれば、無理してでも協力すべきだと理解してもらえると思いますよ」


「確かに、そうかもしれません」


「最悪しっかりとした援軍を出してもらえなくても、荊州を獲る姿勢だけでも見せてもらえれば十分だと思います。それだけで劉表軍は動けなくなるでしょう」


 桓階は口元に手を当てて、床を睨みながら張機の言うことを熟考した。


 袁紹は曹操の背後を脅かすため、本拠地である豫州方面へ軍を回して反乱を扇動している。回されているのは劉備だ。


 この劉備による豫州荒らしは一度撃退されたのだが、二度目は地場の賊徒とも手を組み上手く火を上げられているらしい。


 曹操はそれを鎮圧するための軍を出しているのだが、その行軍経路を一時的にでも荊州方面へ変えてもらうのはどうだろうか。


 張機はそう提案した。普通に援軍を出してもらうほどは難しくないはずだ。


(考えてみると、張機殿の案は悪くない)


 桓階はそう思った。


 むしろ、この窮状を打破するためには曹操軍の協力が必須になるのは明らかだ。


 張機は桓階の表情を見てもう一押しだと思い、さらに言葉を重ねた。


「諸将には『一度動かなかった曹操殿を説得するために総大将自らが赴くのだ』と言えば、張懌が城を空けることに納得してくれると思います」


 その一言はとどめになった。


 総大将自らがこのような目的で動くなど非常識にも程があるが、これなら張懌の体調不安を隠すことができる。


 病のことが知られればさらなる動揺を招くのは目に見えているのだから、隠せるなら隠すべきだ


 桓階は意を決して顔を上げた。


「……分かりました。すぐさま軍議に(はか)り、その方向で話を進めましょう」


 桓階という男は仕事ができるので、決心してしまえば早い。


 それに一刻も早く曹操軍に劉表軍を押さえてもらわないといけないという焦燥感は誰しも共通のものだった。


 軍議では反対意見も出たものの、


「時は一刻を争うのだ」


という急かし文句で押しまくれば、反対派も仕方ないかというような顔で了承した。


 そして事実として時は一刻を争うので、その日のうちに張懌は出立した。


 同行者を手早く選別し、とりあえずの物資だけ各自に持たせて城を飛び出して行く。


 もちろんそこに張機も同行した。


(百騎か……総大将の護衛だと思えばかなり少ないけど……)


 馬上、周囲を駆ける騎兵たちを見回しながら心中でため息をついた。


 張懌の護衛は少なめの百騎に決まった。


 というのも、とにかく迅速な到着が必要との結論に至ったからだ。


 長沙郡は曹操の支配地と接していないため、最短の行程を選択すると劉表の支配地を突っ切って行くことになる。大軍でノロノロと行く意味はない。


 ただし少なめとはいえ、張機にとっては問題のある人数だ。


(百騎を相手にして張懌をかっさらうのは無理だな)


 張機はまずその可能性を検討していたのだが、不可能だと断定した。


 もっと少人数であれば強壮薬と称して毒を飲ませることを考えていたのだが、これだけの人数分はさすがに用意がない。


 それにどんな薬物も効果には個人差が大きいため、『死にはしないが動けなくなる程度の投与量』を百人相手に設定するのは至難の業だ。


(だから第二案を挙げておいたが……さて、どう転ぶか)

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