医聖 張仲景37
張懌を逃がす、ということに関しては了解した張機だったが、現状は厳しい。
今は籠城戦の真っ最中であり、張機一人でも抜け出るのは困難だろう。
一番の問題について張羨に尋ねた。
「さすがに城を包囲されたままで出るのは難しいけど、どこかに抜け道はあるんだろうな?」
桓階は内部工作のために襄陽まで来ていた。だから何らかの方策はあるのだろうと思った。
しかし張羨はそれを示さず、顔を両手で擦ってから不敵な笑みを浮かべた。
死相に見えるほど痩せた顔なので、恐ろしいほどの迫力があった。
「包囲に関しては心配するな。劉表軍はあと三日もすればいなくなる」
「なに?でも、かなり攻め込まれてたぞ」
「まぁ見てろって」
そう言われても、張機の耳には破城槌の轟音がまだ残っている。ひしゃげた鉄扉の姿も記憶に新しい。
(あそこまで敵に迫られていたんじゃ、むしろ三日後には城門が破壊されてるじゃないか?)
この張機の予想通り、三日後に城門は破られた。
劉表軍は多大な犠牲を払いながらも、城門を破壊して多くの兵たちを城内へと殺到させた。
ただし張羨の予言通り、劉表軍がいなくなったのもその三日後当日だった。
一兵残らず撤退し、一番高い物見の楼からでも敵の姿は見えなくなったのだ。
張機は実際にそこへ上がり、手びさしで遠くを眺めながら感心していた。
「まったく……本当に大したやつだよ、張羨は」
そうつぶやいてから、今度は城内へと視線を落として苦笑する。
「それにしても意地の悪いやり方だけどさ。まさか城門一つを潰すなんて」
張機の眼下にはそんな光景が広がっていた。
ただし城門を潰す、という表現は正確ではない。城門の内側にさらなる城壁を作っていたのだ。
完全に交通が遮断されているという点では門としての機能は潰されてはいるので、全くの間違いではないが。
「攻めていた兵士たちからしたら、これは堪らなかっただろうな」
劉表軍は城門を破った後、我先にと門扉の内へ突入していった。
しかしその先はコの字型の城壁がそびえ立っており、すぐに行き止まりになっていた。
秘匿するために城壁の高さはやや低めにしてあったが、その上には大量の弓兵を置けるようになっている。雨のような矢が降りそそいできた。
しかもそうとは思わない後続が壊れた城門へと殺到しており、すぐに引き返すこともできない。
結果、劉表軍は大損害を受けることになった。
(劉表様の軍は北門の突破にほとんど全てを賭けてたみたいだからな)
破られた北門は他よりも老朽化しており、しかもこの二年の戦いでかなりいい所まで壊されかけたという経緯があったらしい。もちろん修繕はしていたが、あちこちにその傷跡も見えた。
それは張羨の罠だったのだが、劉表軍はそれに気づかず攻撃を集中させてしまった。
損害には目をつむり、この犠牲のもと勝利できるのだと遮二無二攻め立ててしまった。
その結果が行き止まりだ。
矢の集中砲火を受けるコの字型の城壁を突破するのは、普通の城壁を抜くよりもよほど大変だろう。
士気の低下は受けた損害以上のものになっていて、もはや絶望的だった。
「そりゃ帰るよなぁ」
張機は劉表軍が帰って行った方を再び眺めやり、同情の念を抱いた。
そして改めて張羨の有能さを思う。
あの病状で敵軍を手玉に取り、勝利してみせた。陣頭指揮こそ取ってはいないが、重要な指示の大半は張羨が出していたのだ。
(自分がいれば息子を死なせることもないだろうと思って戦ってたのかな……)
実際にそんなことを言っていた。
『今回はまず間違いなく追い返せる。だがこの二年間そうだったように、劉表軍はまた来るだろう。そして次も追い返せるとは俺は思わない』
その時、自分はもういないはずだ。それをよく理解しているから張羨はそう断言したのだろう。
それゆえに親友が抱いた最期の願いを張機は思い、深々と嘆息する。
改めて考えてみても、ひどい願いだ。
たくさん死んだ。敵も味方も、たくさんの兵が死んだ。
そんな反乱を起こした上で、自分の子供だけは死なせたくないと願う。
「でも大丈夫だよ。僕だけはずっとお前の味方だ」
戦勝に湧く兵たちを見下ろしながら、張機はここにはいない友に向けてつぶやいた。
それにあれから張羨と色々話した結果、少し面白い結論が得られた。
どうやらこの自分勝手を遂行することが、最も死傷者を減らす道になりそうなのだ。医師としてそれはとても喜ばしい。
城内には明るい声が満ちている。張機は彼らが傷つかなくて済む未来を思い描いた。
そうして壁にもたれて兵たちの歓声を聞いていると、それをかき消すように慌ただしい足音が階段を駆け上がってきた。
足音の主は張羨の側仕えで、兵たちとは対照的に真っ青な顔をしていた。
「張機様、急いでお越し下さい!張羨様が倒れられました!」
その報せに張機は素早く階段を降り始めた。
足取りは急いでいるが、心は落ち着いている。
医師として慌てても不利益しかないことは十二分に知っているし、何より覚悟はできているのだ。
むしろ劉表軍が撤退するまでよく保ったものだと思った。
「張羨、張羨」
張機は張羨の枕元まで来ると、意識を確認するために呼びかけて肩を叩いた。
初めはなんの反応もなかったのだが、数回そうしているとピクリと表情が動いた。
そして苦しげに眉をしかめ、薄っすらと目が開く。
「……張機……」
張羨は親友の名をつぶやいた後、視線を回しながら尋ねてきた。
「敵は……撤退したんだよな?」
「ああ、撤退したよ。今この目で見て来たところだ」
「そうか……もう最近は起きてても夢なのか現実なのか分からないような状態でな……」
張羨の声は弱々しい。今にも消え入りそうだった。
その状態であれだけの指示を出せていたのだから、張機は本当にすごいやつだと思った。
よほど気を張っていたのだろう。凄まじい責任感だ。
「ちゃんと現実だから心配するな。倒れたのも、きっと安心して気が抜けたんだろう」
「ああ……そうだろうな……」
「ようやく心労が消えたんだ。少し頭を休めろ」
「いや……」
と、張羨は医師の指示を拒絶して側仕えに指示を出した。
すぐにそうせねば、今頭を休めれば、二度と動かなくなる気がしたからだ。
「懌を呼んでくれ……」
その指示がなくても張懌は呼ばれていたようで、側仕えが出ていく前に張懌が入ってきた。
桓階と共に、まだ鎧を着た臨戦態勢のままで駆け込んだ。
「父上!!」
「そんな狼狽えた顔をするな……将の動揺は兵に伝わるんだからな……」
こんな状態になってなお、張羨は息子を指導した。そして張懌も父の指導に頭を下げる。
「は、はい。申し訳ありません」
このやり取りを、張機は複雑な心境で見ていた。
死を前にしてただの父と子であれば良いものを、まだ息子を厳しく指導してしまうのだ。そして張懌は張懌で、素直に応じてしまう。
身についた関係はなかなか変わりようがないのだろう。
ただし、次の言葉はさすがに張懌をただの息子に戻した。
「よく聞け……俺はもうすぐ死ぬ……」
「父上!!」
張懌の涙腺が崩壊し、大粒の涙がこぼれてくる。
父はそれを微笑んで見つめながら、言葉を続けた。
「俺の死後は……お前が総大将としてこの軍を率いることになる……」
「はい!不肖の身ながら精一杯務めさせていただきます!」
「だが一点、懸念があってな……」
「何でしょうか?」
「俺のこの病だが……どうやら遺伝するもののようだ……」
「……遺伝?」
「お前の曽祖父も……そのご先祖様も同じ症状の末に亡くなったと聞いている……」
「そ、そんな話……私は一度も……」
「無駄に心配させるだけと思い……敵の撤退まで待っていた……だが間違いなく真実で……お前もこうなる可能性が高い……」
張懌は呆然とした。
死神に取り憑かれたような父の様子をずっと見てきたのだ。それが自分に降り掛かってくるなど、若い張懌に受け入れられることではなかった。
戦で死ぬ覚悟ならできている。それは華々しく、言ってみれば格好いいことという認識すらある。周囲がそう言うからだ。
しかし、病で苦しみながら衰えて死ぬことは覚悟できていない。
「しかも……どうやら世代重ねるごとに……発症時期が若くなってるみたいでな……よく注意しろ……」
「ちゅ、注意と言われましても」
「下痢と痺れ……それが同時に起こったら……初期症状だ……気をつけておけ……」
張羨はそれだけ伝えると、ゆっくり目を閉じた。
ただし、まだ息はしている。眠ったようだ。
そのことを確認した張懌は父から視線を上げ、呆けたように虚空を見つめた。まだ己の運命を受け入れられないでいる。
張機はそんな張懌の肩に手を置いて、背中をさすってやった。
そして優しく声をかける。
「この病については僕もよく知っている。今晩から予防薬を処方するから、欠かさず飲むように」




