医聖 張仲景34
張羨が劉表に反旗を翻してから二度目の年が明けた。
それだけの時が経過しても、張羨は変わらず長沙・零陵・桂陽の三郡を維持し続けている。
当然のことながら、この間に劉表は張羨を攻めた。しかし勝てない。
張機から反乱の報告を受けた直後に長沙の居城を包囲したのだが、落とし切れずに結局は撤退することになった。
攻城戦からの撤退は負け戦だ。劉表軍は著しく士気を落とした。
その後も断続的に攻め続けており、今現在も出兵中なのだがやはり勝てない。
張羨は幼い頃から脳に詰め込んできた軍略をいかんなく発揮しているようだ。三郡の統治も順調で、豪族たちもよく従っていた。
統べる土地の広さを考えても、もはや乱世における群雄の一人と言って間違いはない。
「お父様たちはお元気でしょうか……」
居間で寝そべって書を読む張機の耳に、そんなつぶやきが入ってきた。
それは張機へと向けられたつぶやきではなく、娘が母に向かって発したものだった。
「何度も言うようだけど、あの人はもうあなたの父ではありません。そんなふうに呼ぶのはやめなさい」
玉梅は冷たい声で娘を叱った。
その突き放したような物言いに、娘ははっきりと悲しい顔をした。泣きはしなかったが、初めてこんなことを言われた時には随分と泣いたものだ。
しかし玉梅は悪意があって言っているわけではない。むしろ娘のことを思っての説教だった。
「反乱首謀者の娘だと知られたら、どんな酷い目に遭うか分からないのよ」
そういった理由で命じていることである。
張機たちの住んでいるここ襄陽は劉表の本拠地であり、それに対して反乱を起こした張羨の血族をよく思う人間などいない。
劉表は隠してくれているのだが、人に知られれば殺されてもおかしくないだろう。
しかし張機としても、大切な幼馴染がその愛娘に父とも呼ばれなくなるのは悲しい。
書を置いて体を起こし、雪梅をたしなめた。
「家の中でまでそうする必要はないだろ。誰も聞いてやしないよ」
それは正論だったが、玉梅は油断して墓穴を掘るのが怖いのだ。だから娘には厳しく言っている。
「駄目よ。体に染み込ませておかないと、ふとした拍子に出ちゃうものよ」
「そうかもしれないけど……」
「本当は張機のことを『お父様』って呼ばせたいんだから。私も『あなた』って呼びたいし」
張機は鼻筋にシワを寄せて渋面を作り、言外にそれを拒否した。
玉梅は張機の妾ということになっている。
しかし張機は玉梅をそんなふうに扱わないし、抱くこともない。初めに『それは勘弁してくれ』と伝えているし、今もそう思っている。
「そんな嫌そうな顔しなくてもいいじゃない」
玉梅はそう抗議したが、その顔は笑っている。
張機の見せた渋面は完全に変顔で、娘も一緒になって笑っていた。
「ホント勘弁してよ。うちの家庭に波風立てないでくれ」
名実ともに妾にしてしまえば、正妻である雪梅の心中は穏やかでないでないだろう。
どんな嵐が吹き荒れるやら。
「銭を積めば上等な家は買えるけど、円満な家庭はいくら払っても買えないんだよ」
張機の持論だ。
「そして上等な家よりも円満な家庭の方が住環境として圧倒的に優れている、だよね?」
玉梅がその持論の残りを口にした。何度も同じことを言われているのですっかり暗記してしまっている。
張機はその真理に重々しくうなずいた。
張機の目には今でも玉梅がとても魅力的に映るが、妻の機嫌を損ねてまで近づきたいなどとは夢にも思わない。
「そうだね。私もこの家でお世話になる以上、円満な家庭を維持できるよう出来る限り協力させていただきます」
役者のような大げさな動作で両手をつき、恭しく頭を下げる。
その言葉通り、玉梅もあえて張機に近づこうとはしなかった。
もし張機が娘たちを冷遇するならそれも考えただろうが、そんなことは全くない。むしろ張機の実娘たちと変わらない生活環境を与えてくれている。
正妻である雪梅はそれに関して何も文句を言わない。
張機が玉梅との愛妾関係は建前のものだとはっきり宣言してくれたから、雪梅の態度はむしろ同情的なものになっているのだ。
いつも困ったことはないかとあれこれ世話を焼いてくれるので、玉梅としてもそんな親切な女に仇を返すようなことをする気になれなかった。
例えそれによって玉梅を牽制する意図があったとしても、実際に良い生活を送れているのだから文句の出ようがない。
「張機って本当にいい家庭を築いたよね。もう二年近くお世話になってるけど、お陰様ですごく居心地がいいもん」
生活だけを見るなら、ここでの暮らしは本当に良かった。
玉梅と雪梅、そしてその娘たちはとても仲が良く、ワイワイとかしましく暮らしている。
とても幸せな生活だと思った。夫と息子に会いたいという気持ちを除けば、ということではあるが。
娘もそんな気持ちがふと漏れて、父は元気だろうかと口をついて出たのだろう。
「あとはこれで張羨がいてくれたらね」
張羨に会いたい、という気持ちは張機も同じだ。
娘と同じように素直な気持ちを口にした張機のことが、玉梅は懐かしくもある。
この人は本当に幼い頃から張羨びいきだった。張機があまりに褒めるので、玉梅は張羨への好感を強くしたというところもあった。
「あいつ、なんで会ってくれないんだ。せめて文の返事くらいくれてもいいのに」
張機は虚空を見つめ、そこに張羨がいるかのように恨みがましく睨みつけた。
会いたくても会えない。会ってくれないのだ。
張機は劉表の使者として、何度か張羨の城へと赴いた。親しい友人に降伏を説得をさせるのは常道だ。
しかし面会拒否である。
張機が使者なら会わないと言うのだ。
だから仕方なく文を書いた。何度も書いた。
しかし向こうからの返事は一度もない。梨の礫だ。
張機は腹が立った。
「大切な家族を預けておいて丸無視はひどくないか?」
張機としては、玉梅母子は預けられたものだと思っている。遠くない未来に返すつもりだ。
玉梅が持参していた玉や貴金属などでその生活費は賄えているものの、手数料分の恩は感じてくれてもいいのではないか。
「私たちを預けてるから会えないのよ。会えば危険が増すと思ってるんだわ」
玉梅は申し訳無さそうにそう言った。
会って劉表側に何らかの利益があれば、玉梅たちに人質としての価値が見出される。
だから徹底的に無視を決め込んでいるのだろうと思われた。
「それは分かってるさ。でもほら、元気だよとかくらい伝えてくれてもいいじゃないか」
「そうね……」
玉梅も本当にそう思う。実感のこもったつぶやきを返した。
夫の身も息子の身も心配でしょうがない。
二人は反乱を起こしているのだから、常に戦に寄り添っているようなものだ。実際に今も劉表軍から攻められている。
今のところ二人が戦で傷を負ったという噂は聞かないが、妻・母としては気が気でない。
「ホント……元気だといいんだけど……」
玉梅は嫌な想像をしてしまったようで、顔と声に影がかかったようになってしまった。
張機は無駄に玉梅を不安がらせてしまったと後悔し、わざと明るい声を出した。
「でもほら、もうすぐ袁紹軍と曹操軍との決着がつくと思うから、そうしたら戦も終わるよ」
漢の国は今、どこもその話題で持ちきりだ。
群雄の中でも最大の勢力を誇る袁紹と、帝を擁する曹操とが激突している。
これは乱世の趨勢を決めかねないまさに大決戦であり、誰もが固唾を飲んでその結末を見つめていた。
劉表と張羨もこの戦いに無関係ではない。
ざっくり言うと、劉表が袁紹派で張羨が曹操派だ。
曹操も元々は袁紹派の勢力だったのだが、今は決別して敵対している。
ちなみに袁紹のことがなくても劉表と曹操はすでに矛を交えており、今さら劉表が曹操派になるのは難しい。であれば、張羨は半自動的に曹操派ということになる。
そして張羨がいるからこそ劉表は袁紹に援軍を送ることができず、戦力で劣る曹操はなんとか戦えている。
もし張羨がおらず劉表が曹操の背を突けば勝負はすぐに決していただろう。この点を考慮すると、張羨は歴史の行方を左右したと言っても過言ではない。
「どちらが勝っても負けた派閥の群雄たちは大きな後ろ盾を失うことになるだろ?ならきっとそこで手打ちにして、出来るだけいい条件での和睦を目指すよ」
なんとも楽観的な考え方だが、張機はそう言って玉梅を慰めようとした。
あわよくば劉表、張羨の身の安全が保証された形での和睦にならないかと考えている。全てが丸く収まらないかと夢想してしまうのは、双方の友として仕方のないことだろう。
玉梅も軍学を学んでいるからこれが甘い考えであるとは分かっているが、張機の気遣いには感謝した。
「ありがとう。そうなるといいね」
気遣いを返すつもりで笑顔を見せる。
そこへ外から訪いを告げる声が聞こえてきた。
「すいません、張機先生のお宅はこちらでしょうか?」
(『先生』ということは、診療の依頼かな?)
張機は付けられた敬称からそう検討をつけた。
官を辞してから執筆活動に重きを置いているとはいえ、基本的には医師として臨床で働いている。
今日は休診日なのだが、急ぎかもしれないと思った。
「はーい、今行きます」
張機が玄関に向かうと、そこには大きな袋を背負った男が立っていた。
その袋はきちんと口を縛られていて中は見えなかったのだが、見るでもなく中身が分かった。
袋の膨らみ具合、でこぼこ具合から、張機が目のないものであることが明らかだったからだ。
「あっ!医学書ですか!?医学書を売りに来た商人さんですか!?」
往来まで届くその声に、家族たちは皆一様にため息をついた。
雪梅とその娘たちは『もういい加減にして』という感じで、玉梅とその娘たちは『大変だなぁ』という感じだ。この辺りは被害の年季と距離感が違う。
張機は相変わらず医学書を集めまくっており、屋敷のかなりの部分が書に埋め尽くされている。本人も書に囲まれているのが幸せらしい。
玉梅たちが来てからの張機は書棚に挟まれた狭い場所で寝ているのだが、本人はむしろ満足そうだから皆笑ってしまった。
「聞いていた通りですね。私は行商をしている者なのですが、張機先生は医学書なら何でも買ってくださると聞いてお持ちしました」
行商人だという男はにこやかな笑みを浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「何でもってわけじゃありませんよ。さすがにもう持ってる医学書は買いませんし……っていうか、最近はそういうことが多くて買えないことが多いんです」
それで張機の購買欲は溜まりに溜まっている。
早く袋の中身を確認したくてしょうがない。
「見てみないと分かりませんから、とりあえず中へ。中へ」
張機は腕でも引っ張らん勢いで行商人を招き入れた。
相手の名前すら聞いていないのだが、それに気づかないほどの喜びようだった。
「あなた……」
と、廊下で雪梅がジロリの睨んできたのだが、無かったものとして通り過ぎる。ここを気にしては夫が家庭内で己の嗜好を貫くことなどできない。
「さあさあ、こちらに。早速見せてください」
張機は行商人を書庫へ連れてくると、すぐに袋から木簡の束を取り出して確認し始めた。
「これとこれはあるな……これも……これも……あ、でもこっちは更新されてるかも?中身が大きく違うならこういうのは買いますよ」
嬉しげに医学書を並べる張機は傍から見てかなり面白い存在だったろう。
しかし行商人は書庫に入ってからは一切笑みを見せず、じっと張機のことを見つめていた。
張機自身はそれに気づかずただただ医学書を漁っていたのだが、途中で行商人が一言も発さないことに違和感を覚えて顔を上げた。
そしてその表情があまりに真剣なものになっていることに驚いた。
深刻と言ってもいいほどの硬い視線を送ってきている。
「張機殿、私の顔を覚えてはいらっしゃらないか」
言われて張機は初めて商人の顔をまじまじと見た。
今の今までは医学書ばかりで顔の形すら認識しようとしなかったが、ようやく目に入った。
「あなたは……か、桓階殿!?」
「よかった。忘れられてはいなかったようだ」
桓階はこの部屋に入ってから初めて笑った。
一方の張機は気まずそうに首をかく。
「いや……あの……申し訳ない。同僚の顔に気づかないなんて」
桓階は張機の元同僚で、同じように孝廉に挙げられて中央官庁に勤めていた。
あれから結構な年月が経つとはいえ、この状況は居心地が悪い。
張機は苦しそうに身じろぎしつつ、言い訳を考えた。
「そ……そんな商人の格好をしてるから」
桓階は己の服装を見下ろし、それから顔をつるりと撫でて笑みを深くした。
「大したものでしょう。一度も疑われずに襄陽に潜り込めました」
そう言われて、張機は初めて思い出した。
桓階に最後に会ったのは洛陽の官庁だったが、その近況について聞いたのはここ荊州だったのだ。
そしてその記憶は今回の来訪の意味するところを示唆していた。
「……張羨!?張羨からの伝言ですか!?」
張機は桓階の肩を掴み、勢い込んで聞いた。
実はこの男、今は張羨に仕えている。
もともと父の喪を理由に官を辞して郷里に引っ込んでいたのだが、その郷里というのが長沙郡だ。
そして長沙太守になった張羨から声をかけられ、仕えるようになったという話を聞いている。
「あいつに言われて来たんでしょう!?僕に何かを伝えるために!」
桓階は張機の勢いに驚いてから、呆れたように苦笑した。
「ちょ……張羨様から張機殿への伝言を受けていますが、私が襄陽に来た主目的は裏工作ですよ。あまり上手くはいきませんでしたがね」
裏工作というと、裏切りの誘いか何かだろうか。
張機はどちらかといえば劉表側の立場なのに、桓階は無用心にそう言ってきた。
しかし今はそんなことどうでもいい。それよりも張羨の伝言が聞きたいのだ。
「とはいえ、張機殿のお陰で襄陽の潜入は上手くいきました。医学書を大量に抱えて張機殿の名前を出せば、門番も『ああ、あの医学書好きの先生に売りに行くのか』とすぐ信じてくれましたよ」
桓階はさも可笑しそうに笑ったのだが、やはり張機にはそんなことどうでもいい。
それよりも張羨からの伝言だ。
「それはいいから!張羨は僕になんと!?」
ガクガクと肩を揺さぶりながら再度尋ねる。
桓階は首を痛めかねないような力に顔をしかめ、迷惑そうに手を払い除けた。
とはいえ別にもったいつける理由もない。一つ咳払いしてから張機に向き直った。
そして張羨からの言葉を伝える。
「会いたい、とのことです」
その伝言はあまりに簡素ではあったが、張機の胸の内とは完全に合致していた。




