医聖 張仲景33
張機の家に、妙に高い音の爆発が起こった。
(竹が爆ぜた)
張機はそう思ったのだが、こんな音で爆ぜる竹などない。
それは女六人が同時に上げた笑い声だった。
雪梅に玉梅、そしてその娘が二人ずついるから計六人だ。
「楽しそうだね……」
ポツリとつぶやいた張機に向かい、玉梅の娘が手を振った。
「楽しいですよ。張機おじさまもお喋りに混ざってください」
人懐っこい笑顔に苦笑を返し、張機はその場を立った。
「いや、僕は部屋で書き物をしているよ」
ついて行けそうにない。
いや、ついて行けるわけがない。
そんな確信を持って六人に背を向け、自分の書斎へと避難した。
玉梅とその娘たちが襄陽に来てから十日が経った。
三人は張機の家に滞在して州治所の街を楽しんでいるのだが、それに雪梅と張機の娘たちも同行している。
張機と張羨は再会後、家族ぐるみの付き合いをしているからもともと親交はあった。その仲がこの十日でさらに良くなり、張機の家には笑い声が絶えなくなっている。
幸せなことだが、かしましい。
三人揃えばかしましいと言うが、倍の六人なのだから倍かしましい。いや、どんな相乗効果なのか三倍はかしましい。
そしてその中で一人中年男性である張機の居場所などないから、書斎へと引きこもることが多くなった。
お陰で筆が進む進む。
「ふむ……やっぱり色んな医師の意見を聞いて良かった」
張羨から送られてきた草案の意見書を読みながら、あらためてそう思った。
自分ではよく書けたつもりでも他人から指摘されれば、
(確かに!)
と思うことは多いものだ。
中には同意できない意見もあったが、反映させるべき情報の取捨選択も腕の見せ所だ。
(僕はこの医学書を誰もが信頼できるものにする。そして救えなかった人の分まで今後の患者を救うんだ)
亡くなった父の顔を、親族の顔を、自ら診た患者たちの顔を脳裏に描きながら筆を走らせる。
気づけば結構な時間が経っていたようだ。昼過ぎに作業を開始したのだが、陽が赤くなりかけていた。
女たちの笑い声も気づけば聞こえなくなっている。
(さすがに体力が尽きたかな?)
張機にとってはお喋りも体力を使うものだ。あれだけ笑いながら喋り続けては、もはや声も出ないのではないかと思った。
……のだが、その声が部屋の外からかけられた。
「張機、ちょっといい?」
玉梅の声だ。
(まだ喋れるのか)
などと呆れながら返事する。
「いいよ」
扉が開けられると、そこに立っていたのは玉梅だけではなかった。雪梅も一緒だ。
「話し、というか……お願いがあるの」
部屋に入ってきた玉梅は昼間と打って変わって言葉の切れが悪かった。
お願いと言ったがどこか言い淀んだ風で、頼みづらい何かを抱えているのだろうと察せられた。
ただしそれは玉梅だけで、雪梅はむしろそんな玉梅を不思議そうに見ている。お願いの詳細を知らないのだろう。
どうやら妻は雪梅に言われて一緒に来ただけのようだ。
「何?もう少しこっちにいたくなった?」
張機は玉梅と娘たちが楽しそうにしていた様子から、そうだろうと当たりをつけた。
もう十日もおり、そろそろ帰る日取りとなるのだ。しかしまだ遊びたいのではなかろうか。
「うちはいつまでいてくれても構わないよ。雪梅も娘たちもすごく楽しそうだし」
雪梅も夫の言葉にうなずいて同意した。
「そうですよ。いつまででもいてください」
玉梅たちが来てくれてから本当に毎日が楽しかった。自分の娘たちも喜んでいるし、まだ滞在してくれるというのなら嬉しさしかない。
玉梅はその申し出に曖昧な笑みを返した。
「ありがとう。でも少し違うっていうか……そのお言葉に甘えさせてもらいたいっていうか……」
夫婦は意味が分からず、互いの顔を見合わせた。どうも言いづらそうにしている。
しかし何か事情があるのだとは感じられた。
「よく分からないけど、何でも言いなよ。長い付き合いじゃないか」
張機の言葉に玉梅はようやく意を決したようで、キッと目に力を入れてその頼みごとを口にした。
「私をね、張機のお妾さんにして欲しいの」
この言葉に二人は度肝を抜かれた。
さすがにこんなお願いは予想していなかった。
「は?え?いや、お妾さんって……」
冗談と思いたいが、玉梅の様子は冗談を言っているようには見えない。
だがそもそも玉梅は張羨の妻だ。既婚者は妾になれないだろう。
「ちょ、張羨は……」
「離縁したの」
張機と雪梅はさらなる衝撃に見舞われた。
「ええ!?なんで……」
「張機は私が離縁したらもらってくれるって言ったよね?」
理由を問う張機を遮って、玉梅はそんなことを言ってきた。
この一言に、雪梅はジロリと夫を睨みつける。
玉梅とは仲良くなったとはいえ、それは他所の家の奥方として仲良くなったのだ。
家での自分の地位を脅かす女と仲良くなったのでは、決してない。
しかもその妾候補は夫がやたらと執心していた初恋の人なわけだから、その心中は穏やかではなかった。
「あなた……」
妻の底冷えする声を受け、張機は身を震わせた。
雪梅は良き妻だが、努力して良き妻であろうとしている女だ。それによって家庭内での自身の立場が良くなるのだと、幼い頃から教え込まれていた。
だから自然と努力できる一方、家庭内での立場にも自然と無関心ではいられない。
スッと細められた目の温度は低く、冷気すら漂っている。
張機もひどく恐ろしい視線を受けていることは分かるのだが、それを直視する度胸はない。横目にチラと見ることしかできなかった。
玉梅はそんな雪梅に気づいているのかいないのか、さらに聞き募ってきた。
「言ったよね?」
「いや、それは……」
「私も娘たちも、まとめて面倒見てくれるって言った」
夫がしたというその約束に、妻はさらに目つきをきつくした。眉間に寄ったシワは地獄の谷に見える。
しかし玉梅の追加の一言をきちんと理解すると、張機の恐怖は強い違和感へと変わった。
「……え?子供たちも家を出るの?」
「ええ。息子は残るけど、娘二人は勘当されたわ」
「か、勘当!?二人は何をしたんだ!?」
「別に何かしたわけじゃないんだけど……」
「……?」
おかしい。
どういうことだろうと張機は頭をひねった。
(夫婦喧嘩で玉梅が離縁だとしても、何もなく娘たちまで勘当するのは変だ。それに息子の張懌だけは張羨のもとに残るって……)
この結果として起こることを考え、そこに潜む意図を推し量ろうとする。
(僕の立場……乱世……まるで……大切なものを預けるみたいに……)
すると、見えてくるものがあった。
「…………あああっ!!張羨のやつ!!あの馬鹿!!」
張機は血相を変えて叫び、音が鳴るほど床を蹴って立ち上がった。
驚いて夫を見上げる雪梅に対し、強い口調で告げる。
「たった今から玉梅は僕の妾だ。娘たちは養女にする」
「あなた!!」
雪梅も負けないほどの勢いで立ち上がって叫んだ。
夫はこんな話を自分に相談もなく即決してしまった。大声も出すだろう。
しかし張機は非難する妻の声には耳を貸さず、玉梅の腕を掴んで廊下へと引っ張った。
「今から玉梅を連れて劉表様のところへ行ってくる。雪梅は子供たちと待っていて」
「……はい?劉表様?」
なぜ突然その名が出てきたのか理解できない雪梅は戸惑った。
しかし夫は説明もせずに玄関へと向かう。焦燥に駆られたその横顔は、説明する暇など無いとでも言っているようだった。
実際に張機は衣服も整えず、履物を履くと玉梅の手を引いて家を出た。
足早に道を歩きながら玉梅にいくつも質問をする。
その声は玉梅が今まで聞いた張機の声の中でも一番厳しいものだった。
そして聞きたいことが粗方聞けた頃、劉表の屋敷に着いた。
門番に極めて緊急性の高い話であることを告げると、すぐに応接室へ通された。
劉表が来るまでの間に茶など出されたが、張機は一切口をつける気になれなかった。
並んで待つ玉梅も緊張で顔を固め、ただ床を見つめている。
しばらく待っていると劉表が現れた。
極めて緊急性が高いと言われているからか、張機たちほどではないが厳しい目をしている。
その目が初対面である玉梅へと向いた。
「張機殿、そちらの女性は……」
「本日は非常に重要な情報をお持ちしました!」
張機は挨拶もなしに鋭くそう言った。
劉表がそれに驚く間もなく言葉を続ける。
「この情報はいずれ劉表様のお耳に入るものではありますが、いち早くその情報を得て対処する必要のあるものです!」
劉表は張機の勢いに気圧されながらも、うなずいて応じた。
「う、うむ……時間としての価値がある情報ということだな」
「おっしゃる通りです!そしてその価値の分、劉表様に褒美をいただきたいのです!」
「褒美?」
劉表は首を傾げた。
張機とは長い付き合いだが、欲の薄い男で褒美をねだられたことなど一度もない。
しかもこの様子から察するに、普通の褒美ではないのだろうと思った。
「よく分からんが、まずは希望する褒美を教えてくれ」
情報の詳細もまだ分からないが、要はその褒美さえもらえるなら張機は喋るということだろう。
与えられるものなら約束してしまい、さっさと喋ってもらおうと思った。
張機は音を立てて空つばを飲み、己の望む褒美を伝えた。
「家族の保護です」
「……何?」
「ですから、自分の家族の保護を劉表様にお願いしたいのです。身の安全を保証していただき、場合によっては護衛を付けてください」
(何だそれくらい)
劉表はそう思ってから、そのままを張機に伝えた。
「そんなもの、褒美でなくとも当然やってやる。張機殿は官を辞したとはいえ私の主治医だし、何より我らは友だ。友も、友の家族も私は守りたいと思う」
張機は大きく頭を下げた。
「ありがとうございます。ですがそれでも、この度の情報の褒美として自分の妻と子供、そして妾や養女も含めて守ってくださると改めてお約束ください」
妾、養女という単語を耳にした劉表はおや、と思った。そして何となく玉梅の立場を察した。
張機には妾も養女もいなかったが、恐らくこの女が新しく得た妾なのだろうと思った。
「ふむ……要は、そこの女性とその娘たちの安全を保証して欲しいという話だな?」
「おっしゃる通りです」
(……まぁ、女なら)
いまだに事情は分からないものの、劉表はこの時代の価値観で持って了解した。
女が力を持ちにくい時代ではあるが、その分だけ重要視もされにくい。それは身を保つ上では利点にもなる。
「いいだろう」
劉表が軽くそう返事してくれたことに張機は小さく息を吐いた。そして頭をさらに下げる。
「ありがとうございます」
「それよりも、その情報とは?」
正直なところ、劉表にとって女たちの処遇など大した問題ではない。
そんなことより緊急性が高いという情報だ。
張機も本当に緊急の話だと思っているから、顔を上げるとすぐにそれを告げた。
「張羨が反乱を起こします」
「何だとっ!?」
そこまでの緊急事態を想定していなかった劉表は目をむいた。
張機の方へ倒れ込むように前のめりになる。
「それは本当か!?根拠は!?」
「この玉梅は張羨の元妻です。つい十日ほどに離縁され、今は自分の妾となりました」
劉表は玉梅へと目を向けたが、その目は先ほどまでのものとはまるで違っていた。
ただの女へと向けていた視線は、反乱首謀者の妻へ向ける視線となったのだ。
(……いや、元妻か)
劉表はそう思い直し、もう少し詳しい話を張機に求めた。
「つまりは、どういうことがあったのだ」
「張羨は頭のいい男です。頭のいい男はずる賢い。もし反乱に失敗して自身が討たれることになったとしても、妻と娘だけは死なせまいと手を打ったのです」
「それが張機殿の妾になるということか」
「はい。玉梅と自分は幼馴染でもあり、見捨てないという確信が張羨にはあったのでしょう。そして自分と劉表様の仲を考慮し、その家族にしてしまえば安全だと考えたのです」
「しかし……その話からすると、張機殿の家族になったのはつい最近ということになるな」
「最近もなにも、つい先ほどです」
「先ほど!?」
「先ほど妾にしてくれと言われ、すぐにその真意に気づきました。それですぐに報告に来たのです」
それはつまり、親友である張羨の反乱であっても即座に劉表へ伝えてくれたということだ。
これは劉表にとってより張機を信頼する理由になるが、それでもこの状況はどうだろうと思った。
「そんな出来立ての家族まで守ってやらねばならないか?」
あまりにも即席過ぎて、張機の家族だからと言われても実感が持てない。これが普通の感覚だろう。
その劉表の反応に玉梅は青くなった。
ギュっと拳を握り、祈るように目を閉じる。
(お願い……私はともかく、娘たちに危害が加わるのはどうしても避けたいの……)
その一心で今回のことを受け入れたのだ。
初めは夫の策に反対した。太守にまでなった男の妻なのだから、覚悟はできている。
それに大切な夫が死ぬのなら自分も一緒だと思っていた。
しかし娘たちのためだと諭されて、反論を封じられた。そして止めの一言で首を縦に振らされた。
『張機を信じろ』
その一言は、自分にとって不思議なほど安心して受け入れられるものだった。
そして信じた張機はやはり、自分たちを見捨てはしなかった。
床に手を付き、劉表をまっすぐ見上げてゆっくりと喋った。
「劉表様、よくよく考えれば何が得か分かるはずです。張羨がこんなふうに妻子を手放した以上、それを殺されても反乱はやめないという決意を表明しているのと同じです。見せしめに殺してしまえば敵の士気が上がるだけでなく、離縁した妻子まで殺した外道と吹聴されるだけです」
「……なるほどな」
劉表は納得してうなずいた。
そして唇の端を上げ、皮肉げに笑う。
「それに、殺してしまえば友人との約束も守らない男という評判まで得てしまうわけか」
張機も劉表と同じように笑った。
「大丈夫です。劉表様はそんな男ではありません」
「言ってくれるな。いいだろう、約束の褒美は取らせる。私も、私の部下たちもそちらの御婦人と娘たちには手を出さない」
玉梅はその言葉に安堵し、全身の力が抜けたようにうなだれた。
知らぬ間に全身がぐっしょりと汗をかいている。よほどの緊張だったのだろう。
「しかし……それにしてもよく隠し通せたものだ。先日は百人も長沙郡に入れて調査させたのだぞ」
劉表は苦々しくつぶやいた。
責任者の怠慢かと思ったが、張機はそうは思わない。
「あれは上手くやられました。村一つが本当に焼かれていたから、本当に大規模な賊がいると思い込まされたのです。それで反乱の準備を見逃してしまった」
「賊はいなかったということか?では、村が焼かれていたのは?」
「恐らく張羨が自分の軍を賊に偽装させて焼いたのでしょう」
実は調査した護衛たちから張機が話を聞いた時、違和感を覚えてはいたのだ。
賊に襲われた村人から被害状況を聞き取ったのだが、死者は一人もいないのだという。一村丸々が焼かれてそれはおかしい。
(張羨がそう命じたんだろう。残忍にはなり切れないな)
張機はそんなふうに思ったが、劉表からすれば自分が治めるべき土地の村を自ら焼いた極悪太守だ。
「……そうか、張羨殿はそういうことが出来る男だったな」
任せた人間として腹が立つのは当たり前だろう。声に静かな怒りが込められていた。
ただし、劉表は為政者として時に残忍にならねばならないことを知っている。
怒りを治め、すぐに軍議を始められるよう主要な人間を招集するよう従者に命じた。
それから玉梅へと目を向ける。
「約束通り、私たちがあなたに危害を加えることはない。しかしこちらにいる以上、協力はしてもらうぞ。知っている情報は包み隠さず話してくれ」
玉梅が答える前に、張機の方が返事をした。
「それに関しては自分からもよく言って聞かせました。彼女は娘たちを守るためにここへ来たので、そこは信じていただいていいと思います」
玉梅もうなずいてそれを肯定した。
「張機からも半端は良くないと言われました。そのようにさせていただく所存です」
これは本音だ。
それに張羨からもそうするように言われていた。玉梅に明かされて困ることなど大してないのだろう。
きっぱりとした返事に劉表は満足した。母親が子供のためと言うのは信じられる気がする。
「よし。ではまず張羨が反乱を起こした理由を聞きたい」
「夫……いえ、元夫は合理的な世の中を創りたいと申しておりました」
「……合理的?」
劉表は己の顎を撫でながら、その言葉を繰り返した。
「確かに張羨はああしろこうしろとあれこれ言ってきていたな……それを私が拒否したり、逆にあれこれ文句を言ったことが不満だったわけか。私の統治下では合理的な世は創れないということだな」
張機はこれを聞き、即座に否定した。
「そんなことはありません。ただ張羨が急ぎ過ぎているのと、やり方の問題です」
言ってから、苛立ちに歯を食いしばった。
(本当に急ぎ過ぎだ。世の中なんて簡単に変えられるわけがない。それを武力で何とかしようなんて……)
戦になれば人が傷つく。その悲しみこそ非合理的ではないか。
張機はそう思ったが、もはや事は起こってしまうのだ。
劉表としても張機が擁護してくれるのはありがたいが、反乱の発生が確定である以上詮無い話でしかない。
さらに玉梅への質問を重ねた。
「独立し、自分の統治下で合理的な世を創ろうとしているのだな?」
「独立はするつもりだと思いますが、自分の力だけでなく曹操の力を借りたいというようなことを言っておりました」
「曹操?確かに曹操ならば帝を擁しているし、地理的にも協力関係は築くか……」
曹操の支配地と長沙郡は、劉表の本拠地を南北から挟む形になっている。
劉表はそれで納得したが、張機には合理的で旧態にとらわれない曹操という群雄に張羨が惹かれたことは想像に難くなかった。
以前に張羨の前で曹操を褒めてしまったことすら悔やまれる。
劉表は大方の経緯を理解できたと思い、これからの行動に思考を移した。
「何にせよ、急いで速攻を仕掛けるべきだな。長沙だけで集められる兵力は我らに比べてそう多くないはずだから……」
「劉表様、そのことですが」
張機は劉表の言葉を遮った。
そしてここまでの道すがら、玉梅から聞いた中で最も重要と思われる事柄を報告する。
「玉梅の話だと、張羨はしばらく前から零陵郡、桂陽郡の人間とよく会っていたそうです」
「何?零陵と、桂陽だと?」
両郡とも長沙に隣接した土地だ。
張羨が県令を歴任した土地でもあり、繋がりが深い。
そしてさらに言えば、その辺りの土地は宗賊が多いのだ。荊州入りの際に宗賊の多くを粛清した劉表への恨みも深いだろう。
「まさか……」
劉表は信じられない、いや信じたくないというように頭を振った。
荊州は七郡あり、長沙・零陵・桂陽は南部の三郡になる。
長沙だけの反乱ならまだ何とかなるだろう。七分の一でしかない。
厄介ではあるが、戦力的に何とでもなるはずだ。
だがしかし、七分の三ならどうか。
しかも乱世で常に他の群雄からも狙われている。そんな状況で半数近い郡が敵に回るという状況は、何とかなるだろうか?
「張機殿の言うことを……もっとよく聞いていればよかったな」
劉表は窓の外へと目を向けてから、ため息混じりのつぶやきを漏らした。外はすでに真っ暗で、今の劉表の心境と合致している。
しかし張機にはこのつぶやきの意味が分からない。
「……?何のことでしょうか?」
「いつも自慢げに話していたではないか。『張羨は本当に優秀で、何でも出来るやつだ』と。正直に言うと幼馴染自慢が少々うざったくて、何でも出来るなどと言われても聞き流していたのだ」
劉表も張羨が優秀だということには同意だし、実績を上げていることも理解している。だから太守にまでしてやったのだ。
しかしまさか、一州の半ばをこうも鮮やかに取れるほどの男とは思わなかった。
「何でも出来るにしても、出来過ぎだろう」
劉表の皮肉めいた言葉に張機は顔を歪め、初めて親友の優秀さを憎んだ。




