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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景32

 張機は数日を長沙郡で過ごした。その間に百人の護衛たちは反乱の兆候を調査できるだろう。


 しかしそれに付き合う必要のない張機は暇で、気の向くままにゴロゴロしたりブラブラしたりした。


 以前はここの太守をしていたのだから勝手知ったる街だ。よく通った飲食店などを見かけると、つい目を細めてしまう。


 寝泊まりしているのも元々自分たちが住んでいた屋敷で、懐かしさに浸ることができた。


 疫病の流行期、診療で街中を歩き回って深夜に帰宅した。家の門をくぐるとそんな思い出も蘇る。


 辛かった。悲しかった。


 年月が経っても完全には消えない傷はある。だから張機は笑みを消し、そっと目を伏せた。


「どうしたの?」


 そう尋ねてきたのは玉梅だ。


 張機は元自宅の玄関で足を止め、顔を曇らせている。それを心配してくれたようだ。


 この屋敷の今の持ち主は張羨だ。張機と入れ替わりで太守になり、屋敷も入れ替わりで住み始めた。


 張機は今回の訪問でそこに泊まらせてもらっている。つまりここは玉梅の自宅であるから、いるのは当たり前だ。


「いや、ほら、色々あったからさ」


 心配してくれた玉梅を安心させるため、張機は再び微笑を浮かべた。


 玉梅もつられて微笑む。


「そうだよね。住んでるところでは色々あるよね」


 人が住めば思いが染み付く。


 そこには嬉しい色合いの思いもあれば、悲しい色合いの思いもある。


「疫病が流行してた時、本当に大変だったなって思って」


 そう言われ、玉梅は笑みを消して目を伏せた。


 張機は疫病の流行で父を亡くしている。


 玉梅の知人もたくさん亡くなったが、両親など近い親族は無事だ。だから張機の悲しみは自分よりも深いだろうと思った。


「疫病なんて、もう二度と流行って欲しくないね」


 その言葉に、医師である張機は首を横に振った。


「いや、疫病はまた流行るよ。二度と起こらないなんてことはありえない。特に今は戦乱で食べるものが少ないから、またいつ起こってもおかしくない。だから僕は医学書を書いているんだ」


 玉梅は張機の声に確かな熱を感じた。よほどの思いなのだと分かった。


「そっか……張機の気持ちがこもった医学書なんだね」


「うん」


「じゃあさ、その気持ちがこもった書名にしたらいいんじゃない?」


 玉梅がそんなことを言い出したのは、つい昨日そういう話をしていたからだ。


 張機の書いている医学書はまだ命名されていない。だいぶ完成に近づいているので、そろそろ書名を考えてもいいかもしれないと思っている。


 しかし、いい書名を思いつかないのだ。


「うーん……気持ちのこもった書名って言ってもなぁ」


 張機は困ったように笑った。やはり上手く思いつかない。


 ならばと玉梅は自分で頭をひねった。


「例えばほら……何でも治すぞ〜って気合を込めて『全病治癒』とか」


 あまりの大風呂敷な名前に張機は苦笑した。


 それに申し訳ないが、ダサい。響きが悪い。


「いや、それは誇大だよ。何でも治せないし」


「えー?じゃあ神様の名前とか入れてみる?」


「ああ、神農本草経とかみたいに?」


 『神農』とは薬や農耕の神様で、別名 薬王大帝とも呼ばれる。


 そして『神農本草経』はその神名を冠する薬用天然物の解説書だ。この時代の医師なら誰もが知っているどころか、現代においても未だに影響力のある大著である。


「そうそう。あんな感じの名前で、張機が書いてるのは処方の集まりだから……『神農処方集』とか!」


 あんな感じもクソも、丸パクリだ。


 さすがに張機は吹き出した。


「プッ……アッハッハ!」


「何よ、そんなに馬鹿にしなくてもいいじゃない」


 玉梅は不満げだったが、張機はむしろ大満足だった。


「馬鹿になんてしてないよ。いいなって思ったんだ」


「え?じゃあ神農処方集で決定?」


 そんなわけがないだろう。


 そう思ったが、優しい張機はそこまではっきりは言わない。


 まだクックと肩を揺らしながら、初恋の人を眺めた。


「いやね、張羨はいいなって思ったんだよ。玉梅と結婚してたら毎日こんなふうに笑ってたのかなって思って」


 そんなことを言い出した張機の眼差しに、玉梅の胸はトクンと動いた。


 昔と同じだ。張機が自分を見る目はいつも柔らかくて温かい。


「ちょ……張機が私のこと捨てたんじゃない!今さら何言ってるのよ!」


 玉梅は動揺を隠すように大きな声を出した。


 そうしながら握りこぶしを作り、張機の肩を殴る。


「いった!!」


 いい音がして、張機は顔をしかめた。


 しかし、それもすぐに笑みに変わった。


「久しぶりに殴られたな。相変わらず結構痛い」


「そうでしょ?私と結婚してたら毎日これよ」


「毎日?それは押し付けた張羨に申し訳がないなぁ」


 二人は声を上げて笑った。


 ひとしきり笑った後、玉梅の声は少し小さくなった。


「あのさ……もし、例えばだけど……」


 そう言ってから急に口ごもり、顔を赤くしてうつむいた。


 その視線が落ち着きなく地面を這っている。


 張機はそんな玉梅の顔を覗き込んだ。


「どうしたの?」


「もし……だけどね。私が独り身になったら、もらってくれる?」


「え……」


 急な、しかも笑えない話に張機の笑みも消えた。


 しかし笑った方がいいような気がして、すぐに笑い直した。


「ハハハ……何?張羨と夫婦喧嘩でもした?」


「いや、そうじゃないけど……ほ……ほら、こんな戦ばかりの世の中でしょ?もし独りになったら私はともかく、娘たちは誰かに守ってもらえるかなって?」


「ああ、そういうこと」


 それならよく理解できる。


 この戦乱の時代、誰もが明日生きているかなど分かりはしない。別に張羨でなくともそうなのだ。


 特に女は誰か庇護者がいなければ悲惨な人生を送ることになりかねないので、頼れる人間を確保しておくのは重要だ。


「もしそうなったら僕が家族ごと面倒見てあげるよ。任せといて」


 張機はドンと胸を叩き、出来るだけ頼りがいがあるように見せようと背を反った。


 その格好が妙に滑稽で、玉梅は昔のことを思い出した。子供の頃、不格好に努力していた張機を思い出したのだ。


 目を細めてその思い出話をし始めようとしたが、その前に建物の方から別の声が上がった。


 若々しく、元気で張りのある声だ。


「母上と姉上たちを張機様にお願いできるのなら、父も私も安心です!心置きなくこの乱世で暴れ回ることができます!」


 見ると、鎧兜を着けた青年が朗らかな笑顔で歩いてくる。


 張羨の息子、張懌(チョウエキ)た。


 張機と初めて会った時にはまだ十代半ばで少年のようだったが、今は成人してかなり良い体格になっている。


 キビキビとした歩き方と明るい表情は、いかにも爽やかな若武者という雰囲気だ。


「張懌は今日も訓練か。精が出るな」


 槍まで抱えた張懌の格好は、今すぐにでも戦場へ行けそうなものだった。


 しかし実際には具足をつけての戦闘訓練をするのだろう。張機の滞在中よくそうしていた。


「はい。やはりこの格好に体を慣れさせておかなければ本番で動けませんから」


 本番というと、近いものだと例の大規模な盗賊の討伐だろう。


 張機の護衛として来た百人はそれに襲われた村を見に行ったが、壊滅だったらしい。


 小さくない集落が丸々焼かれたことを考えると、侮れない人数がいるはずだ。張羨が郡をあげて討伐準備をしているのも当然のことだろう。


 その討伐に向けて気合が入っているのはいい。それはいいのだが。


張懌(チョウエキ)は乱世で暴れ回りたいのか?」


 張機は先ほど張懌が吐いた言葉が気になり、そう尋ねた。はっきりとそう言っていた。


 張懌は若者らしく、有り余る力を噴出するように槍を振った。


「はい!鍛え上げた肉体と頭脳を思う存分使い、暴れ回って名を上げたいと思います!」


「それなら張懌は賊と同じだ。乱世は治めるべきものであって、暴れまわるべきものではない」


 張機の声は静かだったが、それまでよりも低くて威を含んだものだった。


 張懌は思わずたじろいだ。


 両親の幼馴染であるこの男は常に柔和な雰囲気で、こんな空気をまとったのを見たのは初めてだった。


「乱世では人が多く死ぬ。戦で死に、飢えで死に、病で死ぬ。そんなものを嬉々として受け入れては駄目だ」


 深い実感のこもった言葉に、張懌は頭を下げた。


 この若者も張機が疫病で父を亡くしたことは知っている。


 それに自身も南陽郡の張一族の一員なのだから、疫病では多くの親族を失った。


「申し訳ありません。道を外れた発言でした」


 素直に謝られた張機は目礼して謝り返した。


「いや、説教くさいことを言ってしまった。賊の討伐、頑張ってくれ」


「はい!!」


「でも絶対に死ぬんじゃないぞ?母や姉を悲しませては駄目だ」


「はい!!」


 張懌は気持ちの良い返事を返してくれた。


 これだけでも真面目で、素直で、性根の良い青年だということがよく分かる。


(張羨と玉梅はいい子を育てたな)


 張機はそう思いながら、訓練へ行く若武者を見送った。


 自分には娘だけで息子がおらず、正直なところ張羨が羨ましい。娘は娘で可愛いが、こんな勇ましい背中は見られないだろう。


(いや……羨ましいことばかりじゃないか。息子が戦死する心配をしなければならないんだからな)


 自分は味わったことのない恐怖。それを娘に置き換えて考えてみるだけで心臓が潰されそうだった。


 張羨はこれに耐えているのだろうか。


 しかし思い返してみると、張懌と初めて出会ったのは陣中だった。


 まだ少年のうちから戦場へ連れて行くほどだったから、きっと張羨の中では折り合いがつけられているのだろう。


 ならば、母である玉梅の方はどうなのか。


「玉梅は……」


 と、問いかけながら振り向いて、張機は口をつぐんだ。


 その不安そうな目を見る限り、折り合いなどつけられていないことが明らかだったからだ。


 しかしその目を向けられている当の張懌は気づく様子もなく、大股に離れていく。


 後ろ姿で顔は見えなかったが、先ほどまでと同じように明るい目をしているのだろう。


 母子でよく似ている目に浮かんだ不安と希望。


 張機はそれらが等しく悲しみに変わらぬことを祈りつつ、乱世という時代を呪った。

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