医聖 張仲景26
「張羨、あれは少しやり過ぎだと思うよ」
張羨は張機にそう言われ、意味が分からずに眉をひそめた。
ちょうど先日に張機が劉表へ向けたのと同じような表情だ。
二人は県令である張羨の執務室で話している。
張機が長沙郡の太守として赴任するに当たり、ぐるっと回り道をして訪問した形だ。
「あれ?あれって何のことだ?」
「全ての宗教組織に治療行為を禁止したらしいじゃないか。ちょっと無理があるだろう」
劉表から聞いた話だと、張羨はそういうことをしているという話だった。
しかし当の張羨は首を横に振って否定した。
「そんなことはしていない。その治療行為をきちんと検証して、効果が無ければそれを大々的に公表した上でやめるよう通告しているだけだ」
「それは……」
「まぁ今のところ効果が認められた例はないんだけどな」
それはつまり、全ての宗教に対して治療行為を禁止しているのと同じことだ。
どんな宗教も効果に関しては上手い言い訳を用意しているものだが、張羨はそれを叩き潰すように論破しているのだという。
張機はこの話を聞いた時、張羨にこういう政策を取らせた原因がすぐに分かった。共にそれに立ち向かったのだから。
「僕も気持ちは分かる。そういうインチキ治療のせいで玉梅は死ぬところだったわけだし」
張羨は大きくうなずいた。
自分たちは力を合わせ、死線をくぐり抜けた。それは二人の絆をより強固なものにしている。
「そうだ。あれを考えたら、俺が県令として取るべき道は一つしかなかった」
「それが間違いだとは言わないよ。でも、やっぱりやり過ぎだと思うんだ」
「お前にそう言われるのは心外だな」
「嘘つけ。僕に相談せずやってるってことは、相談したら反対されると思ったってことだ」
張機は親友な上、医師でもある。意図せずしてこの手の相談がないはずがない。
その通りな張羨はニヤリと笑った。
「正直に言うと、そうだよ。お前がこの政策の価値を理解してくれるのは確信していたが、ここまで性急なやり方には反対しただろう」
「そりゃするさ。宗教と対立するのはもうウンザリだ」
「ハハハ、黄巾の乱は本気でヤバかったもんな」
張機の勤めていた中央政府は五斗米道を信奉する黄巾党によってあわや転覆させられるところだった。それを思うと下手に対立などできないだろう。
ただし、張機が思うのはそのことだけではなかった。
「それにさ、僕は自分の患者が宗教的な治療を受けるのを基本的に止めないんだ。それが明らかに効かないものでもね」
「なに?なら玉梅みたいになる人がいるのを見過ごすってことか?」
「そうじゃない。どんな治療を受けるか、それを決める権利は患者自身が持ってるという認識が正しいと思うんだよ。もう少し分かりやすく言うと、納得して治療を受けるのは大切だってことかな」
それが理屈として通っていることは張羨にも理解できたが、受け入れることはできない。
そんなことを受け入れていたら、自分の妻は死んでいたかもしれないのだ。
「俺だって本人の納得が大切なことくらい分かるよ。でもな、本人に治す気がないならまだしも、治りたい人がインチキ療法を選択するのを認めるのはどうなんだ」
「もちろん説得はするさ。だけど最後の最後は本人の意志を尊重すべきだ」
「厳しいことを言うようだが、それは医師として患者を見捨ててるようなものじゃないか?」
言葉通りの厳しい指摘に、張機は言葉を詰まらせた。
ただ、張機は医師として現実を知っている。仕方ない面もあるのだ。
「……現実問題として、そう思うしかないんだよ。患者を縛りつけて薬を飲ませるわけにもいかない。多くの場合、患者の協力がなければ治療なんてできないんだ。上手く説得できない自分を呪うこともあるよ。だからあの日、伯先生はやり切れなくて僕らに愚痴ったんだろう」
張機の師である張伯祖は玉梅の父に拒絶されて治療を中止せざるをえなかった。
あの時の張伯祖は悔しそうだった。
張羨はその顔を思い出し、医師たちの葛藤は理解できた。目の前の友もこれまでの医師人生で悔しい思いをしたのだろう。
ならば、だからこそ己の政策は正しいと思えるのだ。
「だったら、俺がやつらのインチキを明らかにしてやるのは良いことだろ。患者が助かる道を選択しやすくしてるんだからな」
「それはそうだけど……」
「お前には宣言しておくが、為政者としての俺が目指すのは合理的な世の中だ」
突然にこんなことを言われ、張機はただ聞き返した。
「合理的?」
「そうだ。色んな学問を身につけて分かったのは、世の中にはあまりに非合理的なことが多過ぎるってことだ。皆がきちんと考えて合理的な選択、手段を取れば、世の中はもっと良くなると思うんだよ」
この話は張機にもよく納得できた。張羨ほどではないが、同じ師のもとで様々な知識と技術をかじったのだ。
その目から見ると、世の中は非合理で満ちている。
「うん……それは僕もよく分かるよ」
「だろう?どうしてこんな世の中なんだって腹が立つんだよ。中央のお偉いさんには非合理的な頭をしてる馬鹿しかいないんじゃないか?」
中央で働いていた張機は思わず苦笑した。事実として、合理性という概念が欠如したとしか思えない脳みそのお偉方が幾人も浮かぶ。
ただし、必ずしもそういう人間ばかりではなかった。
「いや、合理的な頭をした人もいたよ。例えば曹操殿なんかは物凄く合理的な人だと思った」
「曹操って、帝を保護しているあの曹操のことか?」
「そうだよ。少しだけ医学の講義をしたことがあるんだ。驚くような理解力だった。彼は詩文から武技、軍学まで何でも出来るって評判だったけど、物事を合理的に捉えられるから何でも出来るんだと思う」
「なるほど……曹操か……」
張羨は腕を組み、口中で何度かその名を繰り返した。
曹操はすでに帝を手にしている。ならばその力で世を合理的に変えてくれないかと期待した。
とはいえ、今はあまりに遠い人間だ。
「……そういう人間が非合理を一つ残らず片付けてくれるなら俺のやることはないが、現状では自分の手で消していくしかない。その非合理の最たるものが神霊療法だ。祈祷なんぞで病が治ってたまるか」
張羨は話を戻し、改めて己の意志を貫くことを明言した。
張機もやはり理解はできるのだが、心配ではある。
「でも、それで領内がよくまとまるな。宗教組織に嫌われて統治に支障はないのか?」
「正直に言うと、支障はある。だがその代わりに仲良くしてる連中がいるから全体としてよく治まってるよ」
笑いながらそう言う張羨の顔を見て、張機は嫌な予感がした。
この幼馴染は何か悪さをする時にこんな笑い方をする。抑えようとした笑みが抑えきれず、こぼれてしまったように唇の端が上がるのだ。
張機は思わず張羨の服を掴んだ。
「おい。その仲良くしてる連中って、もしかして宗賊の残党じゃないだろうな?」
張羨の笑みは大きくなった。悪だくみの図星を突かれた時の反応だ。
ここまで昔と同じだと懐かしくもあったが、そんな気分に浸っている場合ではない。
「反乱勢力と付き合うなんて」
「反乱勢力だって領民は領民だ。付き合いくらいあるさ」
「でもそれと仲良くしてるってことは、何かしてやってるんだろ」
「大したことはしてないよ。やつらは一揆勢力だからな。ほんの少し住民の数を少なく数えて年貢を減らしてやれば、それだけで大喜びだ」
「そんな勝手に」
「こっちの懐が痛まない程度のごく少量だよ。それでも向こうは俺のことを善い役人だって好いてくれる。それで一緒に酒を飲みながら劉表様の悪口でも言ってやれば、すぐ仲良しさ」
張機はこれを聞き、確かに人心を得るには上手いやり方だと思った。
少額でも違法な優遇はウケが良いだろう。特別なことをしてもらっている感がある。
それに嫌いな為政者の悪口は一切の出費無しで民心を得られる。
ただ、危ういとも思った。
(張羨の頭の良さが悪い方向に働いてる)
そう感じられる。
この才気走った幼馴染は眼前の諸問題を上手く処理する妙案を思いついた。
それは頭が良いから思いついたわけだが、そのせいで方向が狂ってはいないか。
「本当に大丈夫か?劉表様には相談してるんだよな?」
ちなみに劉表から医療政策についての事前相談はなかったと聞いている。
事後に止めるよう言われても、それが必要である理由を長文で送って来ただけだという話だった。
それで劉表の周りでは『張羨殿は確かに有能だが言うことを聞かない』という評価が定まりつつあるらしい。
そして案の定、張羨は宗賊との付き合いも劉表に相談なくやっていた。
「大丈夫だよ。何か言われても、きちんと理をもって説明すれば分かってくださる」
軽い調子で答えた幼馴染に、張機は目まいがした。
この優秀な幼馴染が、なぜ。
(……そうか。張羨はずっと教師をやっていたから上司というものの経験がないんだ)
組織で働いたことのある人間なら、上司の不明など誰しも日々経験している。明らかに正しい理屈でも上司がまるで理解してくれないことなど日常茶飯事だ。
その無理解さや記憶力の薄さなどに腹を立てながら、にこやかに頭を下げて仕事を進めなければならない。
当たり前のことでも事前相談したり、時に誤魔化して許可を得ることなど組織で働く上での必須技能だ。
張羨の上司というと義父の蔡幹になるが、これはほんの幼い頃から師弟の関係だからあまりに気心を知り過ぎている。
つまり張羨には組織における理不尽の経験が少ないのだろう。
「張羨。このことは僕の方からも劉表様に伝えておくから、お前からもきちんと説明の文を送っておいてくれ」
「ん?ああ、じゃあそうするよ。でもお前から別途説明がなくても大丈夫だと思うんだが」
「その方が劉表様も安心する。僕は付き合いが長いから」
「まぁそうだな。頼む」
張機はまだ不安を抱えながらも、幼馴染のためにできるだけのことをしようと考えた。
(張羨の立場が悪くならないように)
それを考えると、やはり劉表の止めたがっている医療政策が念頭に浮かんだ。
「あとさ……やっぱり宗教の規制は……」
「くどいな。それについては絶対に譲らないぞ」
張羨はプイとそっぽを向いてしまった。
昔からこんな風になると絶対に言葉を曲げない。
久方ぶりにその様子を見て、張機はまた懐かしく感じるとともに説得は無理だと悟った。
張機の頭にはこびり付くような不安が付きまとう。
しかしこの不安は後に起こった事態によって完全にかき消えた。
世の乱れ、人々の苦しい暮らしは張羨の政策を全肯定することとなったのだ。




