医聖 張仲景23
「嬉しそうですね」
と、雪梅は夫の様子を見て無表情につぶやいた。
どこか素っ気ない。すでに十七年も付き添った妻だから、普段との違いくらいは分かるつもりだ。
言葉の裏に何かしらの思いを感じ取った張機は寝台から体を起こした。
「何?どうかした?」
自分は夫婦の寝室で、天井を眺めながらニヤニヤしていただけだ。
ニヤニヤを揶揄されたような気がしたが、そうなるだけの理由は妻も理解しているはずだった。
「いえ、ただ嬉しそうだなと思っただけですよ」
「でも何か言いたそうだったけど」
「そんなことはありません」
「……よく分からないけど、明日は久しぶりに故郷へ帰れるんだ。気持ち悪く笑ったりくらいするよ」
別に夫の笑い方の気持ち悪さを言いたかったわけでもない雪梅は少し笑った。
「気持ち悪いなんて思ってませんよ」
「じゃあ何?雪梅はうちの実家に行くのが嫌?」
明日は雪梅と娘たちも連れて帰郷することになっている。
嫁にとって夫の実家は気を遣う場所でもあるから、それが嫌なのかと思った。
しかし雪梅にそういう気持ちはあまりない。
「いいえ、私はあなたみたいな人が育った環境に興味があります。ずっと行ってみたいと思っていましたよ」
「あなたみたいな人って言い方は引っかかるけど……まぁ、皆いい人だからさ。僕の家族も、張羨の家族も」
帰郷したら張羨の家族も一緒になって宴会を開くことになっている。張羨は一足先に帰って準備すると言っていた。
「ええ、皆さんに会うのが本当に楽しみです。特にそばかすの可愛い玉梅さんとは」
この台詞に、さすがの張機も妻の思うところに検討がついた。
しかし直接は聞かず、別のことを尋ねた。
「えっと……玉梅にそばかすがあること、話したっけ?」
「いいえ。でも、あなたが忘れられない初恋の人が親友と結婚したという話は聞きました。張羨さんのことですよね?」
「あ、ああ……そうだけど……」
その話自体も十七年前、雪梅を妾にする時に一度しただけだ。女の執念とは恐ろしいものだと思った。
しかもそれだけでそばかすと繋げるとは。
雪梅は細くなった目で夫の様子を眺め、それから小さなため息をついた。
「やっぱりその人にそばかすがあったのですね。あなたはその刷り込みで私のそばかすも可愛いと思ったわけです」
「それは……まぁ、そういうところはあるかもしれないけどさ。そんなので不機嫌になられても」
「別に不機嫌じゃありません」
「いや、不機嫌でしょ」
「違いますよ。ただ、なんとなく……」
雪梅はそこで少し沈黙した。
自分でも自分の感情がよく分からず、それを分析するのに少し時間がかかったのだ。
夫は黙って待ってくれた。
「……なんとなく、モヤモヤする気がしただけです」
「モヤモヤ?」
「私、ずっと自分のそばかすが嫌いだったのです。これがなければいいところに嫁入り出来たかもしれないのに、雑仕女の間者なんかやらされて」
「ああ」
張機も十七年前にその話は聞いている。その時と同じことを言った。
「そばかす、可愛いのにね」
言われた雪梅はグッと言葉を詰まらせた。
夫はたまにこういう不意打ちを食らわせてくる。
「……あなたがそう言ってくれるのが嬉しかったし、今でも嬉しいのです。でもふと、例の初恋の人にそばかすがあったから可愛いと思うようになったのだろうと気づきました。そう思うとなんだかモヤモヤして……」
張機にとってこの告白は意外だった。
そもそも雪梅は張機が初恋を忘れられないということを聞いてなお、妾になろうとしたのだ。
それなのにこの手のことでモヤモヤしているというのは不思議ですらある。
ただし張機の顔に出たのは意外という感情ではなく、可笑しいという笑みだった。
「あはは」
雪梅はその笑い声を聞いてムッとした。
それはそうだろう。話しにくいことを真剣に打ち明けたのに、それを笑うとは何事か。
「何が可笑しいんですか」
「ごめんごめん、別に馬鹿にして笑ったんじゃないんだよ」
「嘘」
「本当だよ。十七年も夫婦をやってきて、まだ『意外だ』って思うことがあったのが面白かったんだ」
雪梅はその十七年という時間を共有してきた。その長さが分かるから、理解はできる。
「変な意外さがあって悪うございましたね。私だって理解してるのですよ。あなたは私に恋してなかったし、私だって恋心からあなたに近づいたわけではありません。それなのにこんな事でモヤモヤするのは変です」
「変かな?僕だって、例えば雪梅の元恋人を前にしたらモヤモヤするかもしれない」
「あら?そんなふうに思ってくれるのですか?」
「多分ね。でも、それはそれでいいと思うんだ。僕は別にその人の代わりってわけじゃないでしょ?」
「それはそうですよ」
「雪梅だって玉梅の代わりなんかじゃないよ」
「あなたみたいに思いの強い人の言葉だと、玉梅さんの代わりにはなりようがないって言われてる気がしますけど」
「それはそうだよ。玉梅の代わりにはなりようがない」
雪梅は顔をしかめた。しかし張機は当たり前の顔をして言葉を続ける。
「だけど玉梅だって雪梅の代わりにはなりようがないんだ。考えてみてよ。僕らはもう十七年も一緒に暮らしてる。その長さの分だけ思い出があって、それに育てられた思いがあるんだ。たとえ恋で始まらなかった関係だって、この思いが軽いなんてことはあり得ない。雪梅は僕にとって、この世でただ一人の大切な存在なんだよ」
張機は雪梅のそばに行き、そっと頭を撫でた。自分に触れる夫の手はいつも優しい。
(そういえば昔、お母様にお父様のどこが好きかを聞いたことがあったな……)
雪梅はそんなことを思い出していた。
自分の両親は子供の目から見ても仲が良く、互いを大切にしていた。それで尋ねてみたことがあったのだ。
母は恥ずかしがって答えてくれなかったから、結局は『どこが好きなのか』は今でも分からない。
しかし『なぜ大切か』ということなら、今は聞かずとも分かる気がした。
(夫婦として過ごした時間……)
張機と共に今日まで暮らし、その重さが否応なく実感される。
好きという感情には輝きがあるが、重くはない。ちょっとしたことで吹き飛んでしまう。
それに対して時間は重い。しかも徐々に重さを増し、容易には吹き飛ばなくなっていく。
その重さは錨のように胸の底に沈み、ともすれば彷徨いがちな心を落ち着かせてくれるのだ。
(この重さがきっと、大切っていうことなんだ)
雪梅は夫の胸に額を預けて目を閉じた。夫の重さと自分の重さが支え合っているように感じる。
(ただ一人の、大切な存在……)
始まりはどうであっても、自分にとってこの人は世界でただ一人の大切な存在だと思った。
ただ、それでも夫が玉梅という女に見せる表情は気になった。
だから翌日、家族で初めて玉梅に対面した時、雪梅はまず夫の顔に目を向けてしまった。
挨拶すべき人を前に失礼だとは思ったが、つい横目にチラチラと夫の方を見てしまう。
夫の横顔は嬉しそうだった。
とても嬉しそうな、幸せそうな顔で、自分の横に並ぶ人間たちを手で示した。
「紹介するよ。僕の最愛の妻と子供たちだ。僕にとって、世界で一番大切なものだよ」
雪梅はハッとして、顔ごと夫の方を向いた。
家族を、自分の一番大切なものを紹介できることがとても幸せだ。
細められた夫の目からはそんな気持ちが溢れていた。家族への、溢れるほどの愛情がそこにある。
それを見た雪梅の目には、なぜだか涙が浮かんできた。
しかしここは泣く所ではないとわきまえている。だから奥歯を噛んで涙を抑え、笑顔を作った。
誇らしげに笑い、胸を張って自己紹介をする。
「初めまして、この人の最愛の妻です」




