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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景21

 劉表が蒯良(カイリョウ)蒯越(カイエツ)と面会したのは南郡の宜城(ぎじょう)という地だが、ここは南郡における郡治所というわけではない。


 南郡にも反抗勢力の集まる土地がいくつもあって、安全でない場所が多いのだ。


 さらに言えば、そもそも荊州の州治所は南郡ではなくもっと南方だ。しかしそちらには宗賊が多くておいそれと行けない。


 そんな状況で荊州入りした劉表は仕方なく宜城に入っている。


 そういう状況の劉表が蒯良、蒯越の二人に聞きたいことは唯一つだ。


「このように敵だらけの荊州で軍勢を集めるには、どうしたら良いだろうか?」


 まず手元に兵力がなければ如何ともし難い。


 しかし刺史の権限で招集をかけても現状ではさして集まらないだろう。


 無視されるか、適当な理由で断られるか、むしろ心象を悪化させた挙げ句に反乱を起こされる恐れすらある。


 これに対してまず蒯良が答えてくれた。


「今は世が乱れており、仁愛と信義が不足しております。それ故に民衆は従わず治まらないのです。劉表様が仁義の満ちた政を為してくだされば、自然と民も集まるでしょう」


 それを聞いた蒯越は、やんわりと別の意見を述べた。


「蒯良殿がおっしゃるのはとても大切なことで、平和な時代であれば最優先されるべきことでしょう。しかし今のような非常事態では謀略を第一とせざるを得ません」


 劉表はうなずきながら二人の意見を聞いた上で、蒯越に先を促した。


「して、その謀略とは?」


「宗賊の軍を利で釣って集め、悪人を処刑し、善人に兵を任せます。これで軍勢を確保できます」


「ふむ……二人共、なかなか良い話を聞かせてくれるものだ」


 そう言って感心してみせてから、劉表はいったん席を立った。


 廊下に出て、共に話を聞いていた張機に尋ねてみる。


「どちらの意見を採用すればいいと思う?」


 問われた張機は正直なところ、


(これ、僕に意見を求めなくてもいいやつだよな……)


と思ったのだが、聞かれたので一応答えた。


「どちらをというか……蒯良殿のお話はあれ、策じゃないですよね?」


 これは全くその通りで、政治で仁義を示せ、というのは策というより心構えだろう。


「蒯越殿の案は、本当に宗賊を集められるならとても効果的だと思います。ただ……」


「ただ?」


「人を……結構殺さなければならないな、と……」


 張機は軍学も習っているから策としての良し悪しは理解できるつもりだ。


 しかし、机上の軍学と本当に人が死ぬのとではまるで違う。


「ふむ、張機殿はやはり政治家向きではないな」


 劉表ははっきりと断言しながらも、嫌そうな顔はしていなかった。むしろ優しく微笑している。


「やはり医師だ」


「……おっしゃる通りだと思います。政治家は目の前にいない人をたくさん死なせますが、医師は目の前の人を死なせないようにするのが仕事です」


「結果、死なせる人数をより減らせるのは政治家だと思うが?」


「先ほどお話しした自分の学友ならその理屈で簡単に納得できるでしょう。ですが、自分には難しい」


「ふむふむ……ではその学友なら何と言うか、それを想像しながら私に助言してくれ」


「……え?いや、それは」


「出来るのではないか?張機殿の目を見ていると、その中にまるで学友がいるかのようだ。それほど近しい人間だったのだろう」


「……僕の中の……張羨……」


 張機は許靖の教えてくれた、瞳の中の棚を思い浮かべた。


 そこに入っているものが自分の人生における学びや経験だとしたら、棚のいくつかは張羨のもので溢れているはずだ。


 ずっと一緒に育った、己の一部だと思えるほど大切な友人なのだから。


(張羨なら?張羨なら……)


 張機は幼馴染の顔を思い浮かべながら口を開いた。


 すると頭の中の張羨が唇を開き、自然と張機の唇も動いた。


「張羨なら……間違いなく、蒯越殿の案を推します。そしてその効果を最大化する助言を行うと思います」


「……最大化、というと?」


 劉表は当然出た張羨の名については触れず、ただ先を促した。


「例えばですが……処刑方法は残酷かつ公開にし、劉表様を畏れさせます。その一方で、処刑を免れた人間には過剰なほどの利で報いてやるべきかと思います」


 飴と鞭をはっきりさせる。


 逆らえば恐ろしいが、従えば利になることを明示するのだ。


「なるほど」


「それに加え、兵や民からの人気をよく調べるべきだと考えます。蒯越殿は悪人を処刑し、善人に兵を任せるとおっしゃっていました。しかし学問上の善悪は必ずしも民衆に理解されません。当面の統治を考えるなら、人気で線を引いた方が兵も民もまとまります」


「……なるほど」


 この時代の一般倫理は儒教だ。その儒教的に善人であっても嫌われていれば殺し、悪人でも人気があれば生かせと言う。


(張羨は現実を正確に捉えるから容赦がない)


 そういう視点で自然と出た言葉だった。


 それを口にした張機はどこかうつろな目をしている。自分の声なのに、まるで遠くから聞こえているようだった。


「張羨という学友は確かに切れ者だったようだな。それも恐ろしい種類の切れ者だ」


 劉表のあきれたような声に、張機はようやく我に返った。


「あ……す、すいません。かなりマズいことを言ってしまったようで……」


「いいや、とても参考になったぞ」


「そうですか?……でも劉表様、そもそも自分に聞く前から蒯越殿の意見を採用することを決められていましたよね?」


「正直に言うとな。しかし今しがた聞いた助言は本当に参考になった。こういった時は今後もなりきりで頼む」


「はぁ……なりきりで……」


 こうして採用された蒯越の案は、驚くほど見事に奏功した。


 反抗する宗賊たちを鎮圧できた上、その軍勢も手に入ったのだ。そして兵力が手元にあれば動くのは随分と容易になる。


 その後の劉表は軍勢を背景に他の反抗勢力を説得し、一部は武力で潰し、一月の間に荊州のほとんどを掌握してしまった。


 蔡瑁(サイボウ)という、荊州の有力豪族を味方に引き入れられたことも大きい。


 地元の有力者が協力してくれるということは、地元民が協力してくれるのと同じだ。


「張機殿、蔡瑁殿にはどのように報いればいいだろうか?なりきりで頼む」


 この頃の張機には『なりきりで』という言葉がすで耳慣れてしまっていた。蒯越の一件以来、しょっちゅうそう言われるのだ。


 だからもう戸惑いもなく頭の中の張羨を呼び出し、その唇で答えた。


「豪族であればただの財貨よりも長期的な力と安定を喜びます。劉表様との姻戚関係を結ばれるのが互いにとって利になることかと。すぐに適当な相手がいなければ、そのお約束だけでもされると良いでしょう」


 劉表はその回答に満足し、大きな手で張機の背中を叩いた。


 なりきりで、と頼んだ時には政治家としての回答を期待しているわけだが、張機への反応自体は友人に向けるものを示してくれる。


 それは張機にとって嬉しいことで、時に残酷な考えを述べなければならない辛さを和らげてくれた。


「あとは反董卓連合への誘いだが……」


「参加すると答えた上で襄陽(じょうよう)に兵を集めて駐屯し、適当な理由をつけてそこから動かないのが良いでしょう」


 劉表は顎に手を当てて、言われたことを頭の中で噛み砕いた。


 この少し前、劉表は荊州刺史として反董卓連合へ参加するよう要望を受けていた。


 反董卓連合にはかなりの群雄が参加しているので下手に断れないし、確かに董卓の専横は目に余るものがある。


 ただし、荊州は押さえたばかりでまだ安定していない。出兵などとても無理だろう。


 それに加え、荊州の中でも張機の故郷である南陽郡だけは袁術によって武力占拠されたままなのだ。その袁術が何かの理由をつけて攻めてこないとも限らない。


 それこそ反董卓連合への不参加を大義に侵略してきてもおかしくはないだろう。


「それで襄陽に兵を集めるのか……」


 襄陽は南陽郡との境にある街で、言ってみれば対袁術の最前線だ。


 反董卓連合へ参加すると言って襄陽に駐屯し、実際には袁術への備えとする。


 これ以上の手はない。


「大したものだ。実物の張羨という学友は本当にこれほどの人材なのか?」


 劉表は感心するとともに、張機が真似てるという張羨本人への興味を強くした。


「これほどというか、間違いなくこれ以上ですよ。自分はなんとなく『張羨ならこう言うかな?』と想像しながら答えているだけですから」


「それで思考の切れが増すことも驚きだがな……」


「切れが増すというか、あいつならもう一歩先まで考えるだろうと思って思考が深まる感じかもしれません。あと、他人が考えてると思うと物事が俯瞰して見えるというか……」


 いわゆる岡目八目というやつだ。


 ちなみにこの時代の中国にはすでに語源となる囲碁はあるのだが、岡目八目ということわざは日本特有のものらしい。


「ああ、そういう事はあるだろうな。しかしこうなると、その張羨本人が人材として気になる」


「能力は自分が太鼓判を押しますよ。本当に優秀で、何でも出来るやつです。孝廉にもあいつが選ばれるべきでした」


「居所が袁術支配の南陽郡なのは残念だが、仕官の打診はしておいてくれないか?荊州は広く、治めるには人が足りない」


 張機にも劉表の思いはよく理解できた。太守や県令を任せられそうな人材が不足しているのだ。


「それは構いませんが……こういうご時世ですし、本人の意志は優先していただければと」


「もちろんだ」


 張機の記憶にある張羨は蔡幹の私塾を継げて喜んでいた。


 内乱状態の国家で役人をやることを、果たして本人が望むかどうか。


(それでもまぁ、一応)


 張機はそんな気持ちで文を出した。


 劉表の勢力圏外とはいえ、個人の行き来を完全に遮断できるわけではない。文くらいは届く。


(乱世だから野にいる方が危険か、それとも乱世だから野にいる方が安全か、僕には分からない)


 文中、張機はそういう懸念を素直に書いた。自分がただの医師ではなく、劉表配下になっているのも答えのないこの心配からだ。


 張羨からの返事にも、ここに関して明確な答えはなかった。


『これからさらに野盗や略奪が多くなってきたら野にいる方が危険かもしれないな。だがどちらにせよ、俺には身につけた能力を使ってみたいという欲求がある。それにこんな世の中にしたいという理想もあるんだ』


 つまり、仕官に前向きであるという。


(張羨に会える。本当に久しぶりだ)


 張機は文を読みながら、懐かしい親友の背中を脳裏に描いた。


 顔ではなく背中が浮かんだのは、多分ずっと自分の前を走っていたからだろう。きっとまた自分を引っ張ってくれるはずだ。


 ただし、文にはいま南陽郡を占拠している袁術への懸念も綴られていた。


『南陽郡に住むうちの一族のこともあるからすぐには合流できない。この状況が落ち着いたら一緒に働かせてくれ』


(落ち着いたら……僕は世の中が落ち着いたら医業に専念したいんだけど)


 常時その思いが念頭にある張機はそんなことを考えたが、張羨と一緒に働けるならもう少し役人をやってもいいかと思った。


 ただこの後も乱世が落ち着くことはなく、むしろ混迷を深めていくことになる。


 結局二人が同僚になれたのは、これからさらに三年も経過してからだった。

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