医聖 張仲景19
「ハァ……ハァ……ハァ……」
張機は森の中を駆けながら、これほど走ったのはいつぶりだったかと自問していた。
今でもいくらか運動はしているし、剣も振っている。一丁前に娘たちにも護身用の武術を教えているほどだ。
しかし今は生命の危機に抗うため走っている。普段運動し慣れている人間でも、これほど激しく動けばすぐ消耗するだろう。
(あれだ……于双の屋敷から走って逃げる時以来だな)
親友である張羨の顔を脳裏に浮かべながら、その時のことを思い出していた。
(張羨、息子が優秀だって喜んでたな。うちの子とも会わせたいけど……)
今でも月に一度は文をやり取りしている。だから互いの近況はよく知っていた。
張羨と玉梅は相変わらず郷里で私塾をやっていて、文武両道教えている。先日は道場を建て替えたという話だった。是が非でも見に行かねばならない。
「死ねない……宦官の粛清に巻き込まれて死んだなんて報告、二人には聞かせられない!!」
張機は決意を新たに、鈍くなってきた太ももを拳で殴った。
それで足の動きが改善するわけでもないが、気合で肉体が活性化されることがあるのは事実だ。
張機は今、宦官たちを追う兵から逃げている。津波のように逃げ惑う人間の中の一波になっていた。
自分はただ宦官を診療に来ていただけなのに、そこへ軍が乱入してきたのだ。
そして問答無用の殺戮が始まり、張機も慌てて逃げ出した。
胸の発作ですぐ診に来て欲しいと頼まれて来たのだが、来た時には治まっていたから後悔しかない。
(何進様の暗殺があったばかりなんだから、やっぱり断っておけば良かった!)
大将軍、何進。
この男は宦官に対抗する勢力の筆頭だ。いや、筆頭『だった』と書くのが正しいのだろう。
宦官たちに暗殺され、すでに過去の人になってしまった。
ただそれで終わらないほどに宦官たちは恨まれている。対抗勢力の人員は多く、頭を潰されただけでは争いは終焉しない。張機と関係の深い劉表もその一人だ。
ただし、劉表は兵を引き連れて宮中へ乱入するほど血気盛んではない。この騒ぎを起こしている主犯は袁紹や袁術といった将校たちだった。
彼らは何進を殺されて激昂し、宦官の粛清を決意した。張機たちを追ってきているのはその粛清軍だ。
宦官と見れば問答無用で斬る。ただし、宦官でなくてもそれに与する者であれば斬る。
「お、俺は宦官じゃない!宦官じゃないんだ!」
張機の後ろの方でそんな叫び声が上がった。
首だけ振り返ると、一人の男が服をたくし上げて下半身を丸出しにしていた。
宦官は去勢されているから睾丸がない。それを兵に見せて、殺害対象から外してもらおうというのだろう。
張機はここまで逃げてくる途中、同じ手を使った人物を幾人か見た。自分たちと同じように、たまたま巻き添えを食った連中もそれなりの数いたのだ。
そしてこの方法で助かったのは、張機が見た中では半分ほどだったろうか。残りの半分は血に酔った兵によって斬り捨てられた。
今ここで起こっているのは殺戮という狂気だ。相手に正常な判断を期待するのは難しい。
さらに言えば、兵たちとて騙し打ちを警戒しているだろう。恐怖心もあるはずだ。
(どうか、助かりますように)
張機はその者のために祈ったが、直後に悲鳴が上がって徒労に終わったことを知った。
やはり命を賭けるのに分の良い勝率とは思えない。
(走る!張羨を助けるために走っていた時と同じくらい走れば逃げられるはずだ!)
あの時のような若さはもうないから、同じだけ走るのは当然無理だ。
しかしあの時と同じように、走らなければならない理由がある。妻と娘たちを置いて死ぬことはできない。
(そう思えば走れる!)
このことは確かな力となり、疲弊した足を動かしてくれた。
が、残念なことに走ること自体にあまり意味がなくなってしまった。前方から兵が出てきたのだ。
(回り込まれた!?いや、僕たちが回ってしまったのかも……)
今は地獄と化した庁舎を出て、よく知らない森の中を進んでいる。まっすぐ走っているかどうかなど知れたものではない。
ただ何にせよ、走るだけでは逃げられなくなった。
(兵は三人!)
とりあえず視界に入っているのはそれだけだ。三人ともすでに剣を抜いている。
張機はほとんど無意識に体をかがめ、起き上がった時には両手に石を掴んでいた。
若い頃に蔡幹の私塾で習っていたのはごく実戦的な武術であり、使えるものは何でも使う。
振りかぶり、先頭の兵へと投げつけた。
素早い対応に反応しきれなかった兵は顔面に投石を受けてうずくまった。
張機はさらにもう一投し、二人目の兵にも命中させた。
ただしぶつけたのは手首であり、一人目のように無力化はできていない。だが張機にとっては失敗ではなかった。
(これで十分!)
満足に剣を振れなくなった兵へ、ぶつかるような前蹴りを食らわせた。
その兵は飛ばされ、狙い通り三人目にぶつかってくれる。張機はその横を駆け抜けた。
(上手くやれた)
張機は少しだけ安堵したが、後ろに続く宦官たちはそうではなかったらしい。
一人が絶望的な嘆き声を上げた。
「前からも兵が……もう無理だ!私は入水する!」
ここまでの道のりで体力を使い果たしていたのだろう。斬殺ではなく溺死を希望したようだ。
方向を変えて、右手の森の中へと入っていく。
入水自殺は悲しいことだが、今の張機にはそれを憐れんでやる余裕はない。むしろ喜んだ。
(こっちに川があるのか!!)
そのことに希望を見出し、自分もその宦官を追った。
そして追いつき、追い越した。
木々を避けつつ駆けながら、腰の帯を解く。枝に服が引っかかって脱げた。
そして下帯一枚になった時、おあつらえ向きに川音が聞こえてきた。その音に向かって飛び込んでいく。
ザバンッ
という水しぶきが上がり、全身が水の冷たさに沈んだ。ずっと走り通しだったので、心地の良い冷たさだ。
とはいえ、それを喜んでいる余裕などない。走り通しの次は泳ぎ通しになる。
元の師である蔡幹は本当になんでもできる男で、夏の私塾では水練も行っていた。数年通った生徒ならよほどの激流でなければ溺死などできない。
(来年の夏は、家族全員を泳げるようにしよう)
結局のところ、最後の最後に助けてくれるのは己の技能だ。それが強く実感できた。
妻や娘たちに泳ぎ方を教える。張機はそれを想像しながら泳いだ。
(でも……僕は泳ぐのあんまり上手くないんだよな)
例によって、張羨と玉梅の方がだいぶ上手い。
(そうだ、二人に教えてもらえばいい。もう中央の役人なんて辞めだ。落ち着いたら荊州に帰って、子供は張羨の私塾に通わせて……)
張機は水を強く掻きながら、そう心に決めた。
自分はあわや死ぬところだった。もはや政界などという魔窟に身を置いていたくはない。
「荊州に帰る。ただの医師に戻る」
やってられるか。
そんな気持ちでつぶやきつつ、また強く水をかいた。
ただ腹立たしいことに、官吏は辞職を許されないことがある。
特にこんな凄惨な事件があったのだ。離職希望者が増えそうだし、そうなると止められるかもしれない。
厄介だ。
「……そうだ、劉表様に頼ろう」
これまで雪梅を通してそれなりに役に立ってきたはずだ。こんな時こそ利用させてもらわないでどうする。
「帰る、荊州に帰るぞ」




