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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景17

 曹操は門をくぐるなり、目に入った盛り上がりを眺めて破顔した。


「おお、これは立派な腹だ。元気な子が産まれるぞ」


 曹操の前にはそれをよく感じさせる、めでたい腹があった。


 臨月の腹だ。人の体はここまで膨らむのかと驚くような丸みが迎えてくれた。


「妻の雪梅です。もういつ産まれてもおかしくないんですよ」


 大きなお腹をした雪梅の後ろから、張機が顔を出した。


 それを聞いた曹操は少し申し訳ない気持ちになった。張機の方から申し出があったとはいえ、こんな時に家に来るのはどうかと思ったのだ。


「張機殿、奥方が大変な時なのにお邪魔してよかったのだろうか?」


「構いませんよ。僕も医師ですし、産婆さんの家も北に三区画離れているだけで近いんです」


「ああ、あそこの産婆は腕がいいと聞く。では奥方が産気づいたら私が全速力で呼びに行こう」


 冗談めかしてそう言った曹操に、雪梅は笑って応じる。


「ふふふ、元大長秋(だいちょうしゅう)(宦官の最高位)のお孫様を使い走りにするようで恐縮してしまいますわ」


「なに、大長秋の孫だろうと三公の孫だろうと、体はただの人間だ。頭痛一つから逃れることもできない」


 曹操は軽くこめかみを叩きながら笑い返した。


 この男は若い頃から頭痛持ちで、長いこと苦しんできた。もちろん薬も飲んでみたが、難治性らしく一向に良くならない。


 それで名医と噂される張機の診療を受けてみたことで縁ができた。


 張機の処方でも頭痛は完全には消えなかったのだが、多少は楽になったように思う。


 それで今日はさらに踏み込んでみようと家まで来ているのだ。


「張機殿の蔵書は洛陽一だという噂だからな。楽しみにして来た」


 この多芸な男は医療を受けるだけでなく、もう医学を大元から学んでやろうと思った。


 それで張機が医学書を山ほど抱えているという噂を聞き、蔵書の貸与を依頼してきたのだった。


「洛陽一は言い過ぎですよ」


 張機はそう言ったが、実際に張機の家の書庫に入った曹操はこれが謙遜であると断定した。


 山のような書物だった。


 きちんと棚に整理されてはいるが、それでも量からして山のようだと形容して間違いではない。


「このうち……どのくらいが医学書なのだろうか?」


「え?いや、全部医学書ですよ。他の書物はないです」


「…………」


 曹操は絶句して、それから呆れた。


 書店でもこの何分の一かしか置いていないだろう。


 その気持ちがよく分かる雪梅は二人の後ろでため息をついた。


「曹操様からも何か言ってくださいませんか?放っておいたら居間まで書棚だらけになりそうです」


 それは本気の苦情だったのだが、張機にはまるでこたえた様子がない。


「いいじゃないか。居間に書棚があるのもなんだかお洒落じゃない?」


「……じゃないです」


 雪梅はこんな夫にうんざりしているようで、苦虫でも噛んだような顔になった。


 曹操も同意だ。


「洒落て書棚を置くことは否定しないが、考えてやらなければただの収納にしか見えないだろう。そして張機殿の思うようにやらせたら、ただの収納になるのだろうな」


「いや……でも、僕はきっちり整頓する派ですし」


「整頓されたものが美しいというのには賛成だが、それは機能美だ。内装の美しさとは分野が違う」


「…………」


 曹操に正論を言われるとぐうの音も出ない。


 張機と曹操は診療以上の繋がりはほぼ無かったのだが、その有能さは聞き及んでいた。話すと、確かに理路整然としている。


 曹操も張機と同じように孝廉に挙げられて官途に就いたのだが、孝廉の枠は年に二百人を越える。有能なのと低能なのがいるのは仕方ない。


 曹操はその中でも群を抜いて有能である上、先に話していた通り権力者の孫であり、しかも父親はこの数年後に三公に昇る。


 雪梅からすると、そういった有力者が夫のおかしさを指摘してくれるのは頼もしい。夫婦では何か文句を言っても妙な理屈で煙に巻かれるものだ。


「ほら、やっぱりあなたの感覚は普通じゃないのですよ。医学書の収集癖はもう少し控えてください」


 張機は自分で収集癖だと思ったことはないが、確かに新しい医学書を見るとすぐに欲しくなる。癖と言うのが正しいのかもしれない。


「でも、それで雪梅のつわりだって少し楽になったじゃないか。新しく買った医学書からいい処方を見つけたんだから、悪いことばかりじゃないだろ?」


「それは……確かに助かりましたけど……」


 雪梅は妾になって一年と少しが経った頃、子を宿した。


 つわりが酷く、まともに動けないほどだったのだが張機の処方でいくらか楽になった。


 ちなみに妊娠を機に正式な妻にしたのだが、医師として体調第一の張機は儀礼らしいようなこともまともにしなかった。それほど酷いつわりだったのだ。


 本来なら劉表が朝廷に帰参してから劉表の縁者として妻にするつもりだったが、それが叶わぬまま妊娠したため、結局はただの町娘として結婚した。


 その辺りの事情は父にちゃんと話したから、特に文句も言われていない。


 というか、結婚の知らせで洛陽へ赴いた父はひたすら雪梅への感謝を連発して帰って行った。あれほど『ありがとう』を繰り返す父は見たことがない。


 どうやら頑なに結婚しなかった息子をその気にさせてくれたのが本当にありがたかったらしい。張機は何だか申し訳ない気持ちで父を見送った。


 今は一緒に住み始めて二年半が経っている。もはや夫婦としての掛け合いも慣れたものだ。


「とにかく、これ以上書物が増えるなら全部あなたの寝室に持っていきますからね」


「別に構わないけど、それだとこの書庫と寝室分しか持てないじゃないか」


「……それ以上に買い込むつもりですか?」


「もちろん」


 即答され、雪梅はもはやため息も出せない。


「分かりました。そうなったら私とお腹の子は出ていきますから、その部屋を好きに使ってください」


 妻は夫をジロッと睨んでいるが、夫は完全に冗談だと思っている。軽く笑っていた。


 曹操もこれを微笑ましい夫婦のやり取りだと思ったようで笑っていたが、同時に感心もしていた。


「張機殿は本当に大した研究家だな。ここの蔵書を見ただけでも張機殿に頼んでよかったと思うが、これをすべて読むのは無理だな」


「もちろん全部は無理ですよ。僕の方でいくつか目星を付けていますから、それを持って行って下さい」


「助かる」


「ただし、いきなり医学書を読んでもちんぷんかんぷんだと思いますから、今日僕の方で基礎的なことを解説しておきます」


「本当に、助かる」


 曹操は感謝するとともに、当初の方針を転換した。


 医学という分野を広くさらってやろうと思っていたが、どうやらそれをやるには膨大な時間がかかるらしい。


 最大の関心事である頭痛を中心に、基礎的なことだけ学ぼうと思い直した。


 それから曹操は客間に案内され、張機から講義を受けた。


 張機の話は分かりやすい。きちんと情報が整理されており、理論立った解説をしてくれた。


「なるほど……陰陽、虚実、寒熱、表裏、気血水、五臓六腑か……」


「医家によって理論は異なりますが、基礎的なところだとこの辺りかと」


「これらのことは、実際に人間の体の中で起こっていることなのだろうか?」


「正直に言うと、その辺りははっきりしません」


「やはりそうか。つまるところ、診療に有用な概念ということだな」


 張機は曹操の言葉に目を見開いた。


 この短時間でこの理解。あまりの頭脳に驚いたのだ。


「……おっしゃる通りです。物質としてそこに存在していなくとも、この理論で考えれば病の治癒に近づきやすくなるという概念です」


 現代の中医学や漢方理論もそうだが、西洋医学や物理学に必ずしも沿っていない。しかしその概念のもと患者を診て治療すると、治ることが多いのだ。


 もちろん何でも治せるわけではないし、むしろ西洋医学を優先しなければならないことは多い。しかし代替・補完医療としての伝統医療の価値は依然として小さくはないのだ。


「曹操殿はさすがですね。ただ頭がいい人、特に現実主義の人は実際に存在していないものを否定するものですが……」


「ああ、そういう人間は多いな。だが本当に必要なのは、それが現実を良くするという効果、結果だ。極端な話、有用な効果があればその他のことは些事だろう。それが合理的というものだ」


(つまりこの曹操という人は、真の現実主義者、合理主義者なんだ)


 張機はそう理解した。


 ここまで考えを進められる人間はあまりいない。話をしていて頭がいいのはよく分かったが、頭がいいだけの人間ではないということだ。


(僕とは住む世界が違う)


 講義の間、幾度か質問をされるたびに張機はそう思った。一聞いて十を知る人間は本当にいるのだ。


 そして講義もほぼ終わり、教える側の張機の方が感心しきってしまった頃、それは起こった。


 居間で休んでいた雪梅が大きな声を上げたのだ。


「あっ、あなた!破水したみたいです!」


 張機は慌ててしまった。


 医師として、人の命が関わる場面には何度も遭遇した。しかしお産は初めてだし、何より自分自身の妻と子だ。


「破水!?あ……えっと……」


 頭が真っ白になってしまう。


 この辺りが人の器の大きさなのだとしたら、曹操はその器も見せつけた。


 すぐに立ち上がり、なんの逡巡もなく玄関へと向かう。


「私は産婆を呼んでくる!張機殿は奥方に付いてあげてくれ!」


 来た時に言っていたその通り、全速力で駆け出した。


 甲斐甲斐しく息を切らせて走ってくれたのだが、曹操は後年躍進に躍進を重ねて一国の祖となる男だ。


 つまり無事産まれた娘は、人生の一番初めにそんな男を使い走りにしてしまったことになる。


 張機と雪梅は曹操の勇名が耳に届くたび、幾度となく笑い話としてこの時のことを話して聞かせることになった。

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