医聖 張仲景15
その日の張機はひどく疲れていた。
雪梅を妾にしてからしばらく経った日の仕事帰りだ。道端の石につまづいて転びそうになった。
さして大きくもない石で、いつもならつまづくほどのことはなかったろう。
しかし今日の張機は本当に疲れている。頭が石を乗せたほどに重い。
単に仕事が忙しかったということもあるが、それに加えて診療希望の官吏が多くやって来たのが大きい。しかも突然来るから仕事が寸断され、効率が著しく落ちてしまうのだ。
(飯の時間もろくに取れなかった。本当に何しに役所に行ってるんだか)
自分は行政官僚のはずで、決して役所付きの医師ではないはずだ。
(むしろ医師として雇ってくれた方が楽だし、楽しいだろうな)
最近はより一層そう思うことが多くなった。
官を辞して医師に戻る。そんなことを想像すると、少しだけ気が晴れた。
(もしそうしたら、雪梅さんはいなくなるんだろうな)
ただの医師に利用価値は無い。価値がなければ離れていくのだろう。元々そういう関係だ。
(寂しいな……)
ふと思ってから、自分の思考に驚いた。
そういう関係だから、いなくなっても張機の方も何も感じないのだと勝手に思っていた。しかしどうやら、共に過ごす間に人の暖かさに慣れてしまったようだ。
(僕が退職すると言ったら、どんな顔をするんだろう?)
失望する雪梅の顔を思い浮かべながら家の戸をくぐった。
「お帰りなさいませ、ご苦労様でした」
迎えてくれた雪梅の笑顔は張機の頭に浮かんだ顔とは対照的で、少し考えさせられることがあった。
だから一拍置いてから応える。
「……ただいま帰りました」
雪梅にはその一拍が気になった。
気の利く女といえば聞こえはいいが、人が表に出す気がない心情まで気づいてしまう。
「今の間は、何か?」
「え?あ……いや、雪梅さんは相変わらずの愛想なんだなって」
「……?それはどういう意味でしょう?」
「ほら、もう劉表様のこととかお互いぶっちゃけてしまいましたし、無理に愛想笑いとかしてもらわなくても大丈夫ですよ」
雪梅は張機へグッと詰め寄り、不満げに眉を寄せた。
「それは少し非道くありませんか?私が愛想笑いでしか笑わないみたいではないですか」
「そういう意味じゃありませんよ。もし頑張って疲れるようなことをしてるなら、無理する必要はないって言いたかっただけです」
「そうおっしゃるのは多分、張機様の優しさからなんでしょうが……」
雪梅はさらに一歩前に出て、張機の背中に腕を回した。それから優しくて力を込める。
そうされると、女を知ってまだ日の浅い張機の脳は溶けたようになった。
「もし、仮にですよ?劉表様のことがなかったとすると、私がこんなふうに張機様を抱きしめることもなかったでしょう」
「そう……ですね」
だからこそ、張機は雪梅に気を遣ってしまう。だからこそ、悩むことがあるのだ。
望まれてこの娘を妾にしたものの、棘のような罪悪感が喉に刺さっていた。
雪梅はそんな張機を労るように背中を撫でた。
「それだけではありません。もし張機様が孝廉に挙げられるような有力者でなければ、という仮定も同じです」
「ええ、そうでしょう」
「ですがだからといって、私が嫌々こうしていると思うのは極端な決め付けではありませんか?」
(違うのか?嫌々じゃないのか?今の笑顔は演技じゃないのか?)
張機はそんなふうに思ったが、そうは言わずに否定した。
「いや、決めつけてなんか……」
「私の笑顔が演技だと思っているわけでしょう?」
図星を突かれた張機は言葉を詰まらせてしまう。
ただ、その次の言葉でさらに意表を突かれて声を上げてしまった。
「まぁ演技なのですけど」
「……ぇえっ?」
その流れだと、演技ではなく本物だと言うべきではなかろうか。
しかし雪梅は重ねて断言した。
「演技です」
「そ、そうですか……」
「でも、張機様の笑顔が私に向ける笑顔だって演技なのですよ」
「え?いや、僕は演技なんてしてませんけど」
張機にそんなつもりはない。
しかし雪梅はその言葉をはっきりと否定した。
「いいえ、演技です。例えば私の料理を褒めてくれる時、笑顔で褒めてくれます」
「それは演技では……」
「ではお聞きしますが、あの笑顔は完全に料理の味によるものだけで構成されていましたか?百のうち、私を喜ばせるために作った部分が一つも無いと言い切れますか?」
「それは……まぁ……微塵も無いとは言えませんが」
「私が張機様に向ける笑顔だって同じです。劉表様の利を考えてという部分もあります。私の生活を保障してくれるという打算もあります。ですが張機様に対する私の気持ちだって、ちゃんとあるのですよ」
雪梅は張機の胸に耳を押し付けた。
鼓動は不思議だ。ドッ、ドッと低い音がしてどこか落ち着いた気分になるくせに、胸の高鳴りも感じさせる。
(この人は優しい……腹の立つくらい初心だけど、それも含めて善い人だって本当に思う)
そういう男の妾になれたのは、雪梅にとって任務とは関係なく幸福なことだと心から思った。
「ただこうしていること自体が幸せ……これは嘘偽り無い気持ちです。張機様はそんなふうには感じませんか?」
「いえ……感じますよ。ちゃんと感じています」
張機も雪梅を抱きしめた。優しく抱きしめて、背中を撫でる。
それからそばかすに口づけをした。
こうされると雪梅は恥ずかしがるが、内心喜ぶのだ。
それは隠せないほど強い気持ちのようで、張機も嬉しくなるから繰り返し口づけをした。
確かに幸せだ。そう思う。
しかし張機にとって残念なことに、それでも頭の隅にこびり付いた玉梅への恋心は消えていない。
ただそれでも十分過ぎるほどの幸せを感じられる辺り、恋は人の幸福におけるほんの一隅しか占めていないのだということは分かった。




