医聖 張仲景14
(……あの男、なかなか落ちないわね)
雪梅は台所で鍋を煮込みながら、だんだんと憎らしく思えてきた張機の顔を思い浮かべた。
その顔が鍋の中身に映ったように思えたので、柄杓を突っ込んでグルグルとかき混ぜた。
張機の家でやっかいになり始めて、もうすぐ三月が経つ。
この三月の間、雪梅は張機と男女の仲になるべくあれこれと努力した。その方法は幼い頃から学ばされている。
「男を褒める、励ます、話を聞く、よく笑いかける、気を利かす、さり気なく触れる、肌を見せる、質素に見せる、清潔でいる、家事や料理をしっかりこなす……」
指折り数えながら、やるべきことを口にした。全てやってきたつもりだ。
今作っている料理もしっかりと美味しいものができていると思う。男は胃袋を掴まれると逃げられなくなるらしい。
張機はいつも美味しそうに食べてくれるし、いつも褒めてくれる。
ただし、それだけだ。
(劉表様は『初心な男らしいから簡単に落とせるだろう』とおっしゃっていたけど……)
張機に取り入るよう命じられた時、そのように言われたのだ。
劉表は魔窟のような今の中央政府で生き残るため、あらゆる情報を集めていた。
劉表自身が力ある男であるため、下手な動き方をすると標的になりかねないという事情もあるのだ。それを避けるためにも情報が要る。
だから劉表の書斎の一角には官吏たちの能力、好み、人間関係などがまとめられた竹簡が積み上がっており、そこには張機の名前もあった。
『張機……見るべきところは官僚としてではなく、医師としての力だな。荷顒という役人が絶賛していたという情報がある。役人たちの間で名医という噂になっているようだから、頼られることも多いだろう』
劉表は竹簡を流し読みながらそう言っていた。
頼られるということは、力があるということだ。よほど傲慢な人間でなければ借りがあれば返そうとする。
『張機は未婚なだけでなく、女遊びもしないらしい。もしかしたらあの齢で女を知らんのかもしれんな。そういう男なら落とすのも難しくないだろう』
そんな話をされたのだが、現実問題として落ちる気配もない。
一度など、足の治療中にクシャミをした振りをして足を広げてやった。股が丸見えだったはずだ。
しかし張機はごく冷静に風邪の心配をして、鼻を診察してくれただけだった。初心な男ならもう少しうろたえても良さそうなものだが。
(張機様は私に優しくしてくださっている。いつも親切で、やること全てに感謝してくれて……)
ただ、それだけなのだ。
良くしてくれているとはいえ、それ以上の踏み込んだ関係になりそうな雰囲気が無い。
踏み込むのを堪えているならまだしも、踏み込みたそうな気配すら無いのだ。
(そばかす、褒めてくれたのに……)
それを思い出すと雪梅の胸はキュッと締まる。それから沸々と怒りが湧いてきた。
やはりあれは冗談で、馬鹿にされただけだったのかも知れない。
(……絶対に落として、手のひらの上で転がしてやるんだから!)
雪梅が怒りに任せて荒々しく鍋の蓋を閉じた時、張機が帰ってきた。
雪梅は怒りなど露とも見せない笑顔でそれを迎えた。
「お帰りなさいませ。お仕事ご苦労様でした」
「ただいま帰りました。雪梅さんも食事の用意、ご苦労様です」
張機はそう言って労ってくれるのだが、つまるところ他人行儀なのだ。未だに劉表から預かっているという感覚なのかもしれない。
さっさと手を出して妾にしてくれた方が雪梅としてもありがたいのだが、張機からはその意志がまるで感じられなかった。
しかし雪梅はそこをなんとか突破しなければならない。
どうしたものかと考えていると、張機が何か持っていることに気づいた。
「それは……どなたかからの文ですか?」
張機の手に握られているのは竹簡だった。
「そうです。父からの文を職場に届けてくれた人がいて」
「お父様からですか。張機様のことを気にかけてくださっているんでしょうね」
「……いやぁ」
張機は苦笑して応じた。
どうにも嬉しそうな様子ではない。
「……?文に何か、良くないご報告でも書かれていたんですか?」
「うーん……そうですね……まぁいつもの事と言えばいつもの事なんですが……」
「よく分かりませんが、もしお話できることなら聞かせていただけませんか?私にお手伝いできることがあれば何でもいたします。張機様の助けになりたいのです」
(これは好機!)
雪梅は心の中でグッと手を握りながら、実際の手はそっと張機の肩に置いた。
どうやら困っているらしい。ここで力になれば点数を稼げるはずだ。
「ありがとうございます。でも父が言ってきているのは結婚しろ、子供を作れ、ということですからね」
張機は苦笑に頬を歪めたまま、その頬を竹簡で叩いた。
息子として父の心配が分からないでもないし、この時代は祖霊の祭祀を途絶えさせることは大変な不孝に当たる。
張機には兄がいるとはいえ、父の言っていることがこの時代の倫理観に照らして悪いわけではないのだ。そして、だからこそ始末が悪い。
「親として当然のことを言っているんでしょうし、僕のことを考えてのことだって分かるんですけどね」
(やっぱり好機だわ!)
雪梅はここが攻め時だと判断した。標的はまさに雪梅の望むことを父からも望まれている。
(どういう風に攻めようかしら?焦ってはダメ。まずはお義父様の言うことを肯定して、張機様をその気にさせて……)
「しかも今回の文を読む限り、もう強引に相手を決められそうなんですよ」
「……ぇえっ!?」
「候補を連れて上洛するから会えって」
それは困る。正式に結婚などされては雪梅の目論見は破綻したも同然だ。
ただ、張機は雪梅の反応に少しズレた理解をした。
「雪梅さんはそんなの来たら困りますよね。身の置き所がなくなってしまう」
「いえ、それは、その……」
それはその通りではあるのだが、雪梅はそれよりも大きな目的の元ここにいる。張機を籠絡し、劉表の手駒とし、併せてより良い人生を掴むのだ。
しかし嫁などもらってしまえば、しばらくは新たな妾を持てないだろう。
(もう悠長なことは言っていられない!押しまくって一刻も早く落とす!)
雪梅は決心した。
はしたない女だと思われてはいけないので控えめにしていたが、もはや猶予がない。捨て身でやるしかないだろう。
(それに、初心な男は押しに弱いらしいから)
そこに期待して、張機の手を握った。さらに指を絡ませる。
「私が気にしているのは、身の置き所とかそういう話ではありません。張機様がご結婚なさると思うと胸が苦しいのです。私は……」
雪梅は張機をじっと見つめ、それから目を伏せた。
もし自分のまつ毛がもっと長かったら見栄えがした仕草なのだろうが、これが限界だ。
そして限界いっぱいの切ない声で囁いた。
「私は……張機様をお慕い申し上げています。好きです、張機様」
雪梅は出来るだけ熱っぽい瞳を作り、張機を上目遣いに見た。
心の中では、
(どうだ!!)
と気合の声を上げている。
(初心な男ならきっと大きく動揺して……)
雪梅はそう期待していたのだが、期待外れなことに張機の顔には一切の動揺は浮かばなかった。
微妙な顔つきで笑っただけだ。
「えーっと……」
その顔に浮かんでいるのはどう見ても困惑で間違いない。困っている。
「雪梅さんがそういう任務を受けてるっていうことは分かるんですけど……分かってるとどうにも反応しづらくて」
その台詞に、むしろ雪梅の方が動揺してしまった。頭を木槌で殴られたような気分になる。
「な、何のことでしょう?任務とは一体……」
「隠さなくていいですよ。僕みたいに鈍い人間は『なんか変だな』って思うだけでしたけど、僕には頼りになる同期がいるので」
「同期……というと、許靖様?」
「そうです。許靖から『劉表様は恐らく張機との繋がりを作るために雪梅さんを同居させてる。よく考えて接するんだぞ』って忠告されました」
(余計なことを!!)
許靖も張機と同じように人の好さそうな顔をしていたから油断していた。ああ見えて政治向きのことにも気が回るのだろう。
というか、考えてもみれば官僚なのにそういったことに鈍感な張機の方が特殊なのだ。そしてこの医学馬鹿でも言われればさすがに理解する。
「言われてみれば、おかしな事だらけなんですよね。皇族で名士の劉表様なら僕みたいなのに預けなくても伝手くらいあるでしょうし。雪梅さんやたら愛想いいですし」
雪梅は言葉に詰まった。見透かされていたと思うと恥ずかしくなる。
顔を赤くしてうつむく雪梅に、張機の方が申し訳なくなった。
「あ……でも雪梅さんがニコニコしてくれるから最近は家が楽しかったんですよ。家事も本当に助かってますし」
張機は気を遣ってくれているようだが、それも辛い。
雪梅はまだ握ったままの手に力を込めた。ただし、それは先ほどよりもずっと弱々しいものだった。
「あの……劉表様のご指示とかではなくて、私は本心として……」
なんとかそう押し切りたいが、自分でも無理を感じている。
案の定、張機ももうそこの返事はしなかった。
「そもそもの話なんですけど、僕のような男と繋がりがあっても大した力にはなりませんよ?僕は権力のある宦官たちとは距離を置いていますし、正直に言うと力が無いんです。銭の方も、診療代で給金より多少は稼いでますけど上手くやってる他の官吏に比べたら全然です」
「……張機様のそういうところですよ」
雪梅はそう言ってから、静かなため息を吐いた。
作り物の熱っぽい瞳から、どこか諦観の混じった瞳になっている。
「張機様は色々と分かられた上でなお、私を置いてくださっています。しかも抱こうともなさらない。そういう人の好さを劉表様は情報としてお持ちだったのでしょう」
「いや、人が好いからって力には……」
「人が好い人間は利用しやすいんですよ」
そんなことを面と向かって言われ、張機は可笑しくなった。
「アハハハ、確かにその通りですね。いいカモだ」
「それに張機様は力がないなんておっしゃいますが、名医であるというだけで力はあるのですよ。どんな権力者でも病になれば医師に頼らざるをえません」
「それはまぁ、そういうところはあるかもしれませんが」
「古来より権力者に近い医師は力を持ち、情報もよく入ります。それをただ利用させろとは言いません。張機様も劉表様を利用されればいいのです」
「利用って言われても……僕には野心とかありませんし、利用することなんかありませんよ」
「こんな時代です。張機様にその気がなくても火の粉が降り掛かってくることはあるでしょう。しかし張機様は賄賂などを使って宦官に取り入ることはなさらないのでしょう?それならば劉表様との繋がりを持つことは利益になるはずです」
「でも劉表様は逃亡されてて」
「一時的なことです。断言できますが、宦官だけが力を持つ状況がずっと続くことはありえません。彼らは政治的に無能かつ有害で、数年のうちには劉表様たち清流派が帰ってくることになります」
それは劉表の部下という立場から見た希望的観測だろう。
張機にはそう理解できる程度の頭はあったが、そう指摘しても雪梅が納得しないであろうことも理解している。
だから全く別の感想を口にした。
「ようやく雪梅さんの本音を聞けた気がしますね。なんだか嬉しいです」
そう言った張機の笑顔に肩透かしを食らった雪梅は、何を言うべきか分からなくなった。
どう言えばこの男を説得できるのか、良い方策が思いつかない。
一方の張機はさらに話を飛ばした。
「僕はね、いまだに初恋の女の子が忘れられないんですよ。馬鹿みたいな話だと思われるでしょうが」
「……初恋?」
突然の告白に、雪梅は妙な顔をしてしまった。
急激な話題転向について行けないし、なにより二十代も半ばを過ぎた男が初恋を忘れられないというのはどうなのか。
「そうなんです。その子が忘れられないから父に何を言われても結婚する気になりません。だから結婚の話はちゃんと断りますし、雪梅さんはこのままここに居てもらって大丈夫ですよ」
「……そう言ってくださるのはありがたいのですが……あの……その初恋の女性というのは、今どうなって?」
「僕ら共通の幼馴染と結婚しました。だから僕とその子が結ばれることはありません。だから僕は一生独身なんです」
あまりに無茶苦茶な話に、雪梅はクラクラと目まいのするような思いがした。
世の中にこんな男がいるとは。
(こ、この人は……初心過ぎる!!)
もはやあきれるしかない。初心だから落ちやすいかと思いきや、初心過ぎて落ちなかったわけだ。
雪梅はまずあきれてから、次に馬鹿馬鹿しくなった。
自分はこんな男相手に何をいそいそと頑張っていたのか。
「張機様、初恋の人とかどうでもいいので抱いてください」
「…………え?」
「聞こえませんでしたか?私を抱いて、妾にしてください。すぐに結婚してくれとまでは言いませんから」
「え?いや、えーっと……」
張機はこの流れでなぜそうなるのか分からず頭を掻いた。
「えっと……だから別にそんなことしなくても、雪梅さんはこのままここに居てくれていいですから。それに劉表様への協力はそういうのが無くても無理のない範囲で……」
「それじゃ私のいる意味がないでしょう!!あなたと太い繋がりを作って維持するのが私の仕事!!孝廉に挙げられたんだからそれくらい理解する頭ありますよね!?」
「はっ、はい!……ごめんなさい……」
突然の鬼のような剣幕に、張機は驚いて肩をすくめた。そして思わず謝ってしまった。
武術を修めていた玉梅でさえ、怒ってもここまで恐ろしくはなかったように思う。
「そもそもですよ!?初恋の人を忘れられないのと結婚しないのって関係あります!?」
「いや……恋をしてない人と結婚するのも良くないかなとか……」
張機がそんなふうに思ってしまうのは、一つには玉梅と張羨の両想い繋げてやったという自負心による。
それに関して自分が善いことをしたという気持ちがあるから、自身もそうでないといけない気がしていた。
ただし、雪梅からすれば本当に馬鹿馬鹿しい話だ。だからそう叫んでやった。
「馬っ鹿じゃないですか!?そうじゃない結婚してる人なんてごまんといるでしょう!?しかもその人たちはちゃんと幸せになってますよ!!」
「そ、そうですよね……」
「いいですか!?ただ楽しんでればいい恋と違って結婚というのは生活なんですからね!!恋は娯楽!!結婚は生活!!はい復唱!!」
「こ、恋は娯楽……結婚は生活……」
「そうです!!生活なんだからむしろ恋した相手が適当でないことだって多いでしょう!!あなたが初恋の人を忘れられないから結婚しないというのは、ただの思い違いです!!」
「そう……かもしれません……」
「『かも』じゃない!!」
「そ、その通りです……」
雪梅はひとしきり怒鳴って満足したのか、深い深い息を吐いた。
それからまだ握ったままの手をグイと引き、爪を立てる。
張機はその痛みと絡まった指から、猫に捕食される鼠になった気分がした。
「分かったら、私を抱いてください」
「いや、それは、ええっと……」
「遠慮は要りません。任務というだけでなく、私の人生にとっても医師で官僚の旦那を持てるのはありがたいことです」
「でも……」
「でもじゃない。いいから抱く。抱きなさい。今すぐ」
雪梅は据わった目で張機を睨み、帯の紐を解いた。片手でハラリと服を脱ぐ。
露わになった肌に、女慣れしていない張機はドギマギしてしまう。
「ちょ、ちょっといきなり」
「いきなりではありません。いつそうなってもいいように、毎日張機様が帰ってくる前に身を清めて待っていたんです。……今思い返すと腹ただしい限りですが」
「ご、ごめんなさい……」
「……というか、ちゃんと反応してるじゃありませんか。前に股を見せた時に無反応だったのはどういうことですか」
「股?……ああ、足の包帯を換えてた時ですか?医師にとって治療中に患者の体が見えるのは日常ですからね。日常には興奮しようがありませんよ」
「つまり、張機様は非日常感に弱いというわけですね。今後の参考にします」
「今後って……」
「妾が旦那様を喜ばせようと努力しているのです!!旦那様も素直に喜ぶ!!」
「は、はいっ」
この肯定の返事一つで張機と雪梅の関係は決定してしまった。妾という立場が確立した瞬間だ。
それで張機にも逃れようはないという認識が定まったものの、すぐに抱こうとはせず雪梅から一歩下がった。
「……何ですか、その足は?」
地獄の底から響いたような声に張機は怯えながらも、己の意図を釈明した。
「いや……その……雪梅さんは身を清めてるって言ってましたけど……僕は仕事帰りで汗かいてますし、その前に湯浴みでもさせてもらえたらって……」
この言い様に、雪梅の苛立ちは頂点に達した。
(初心過ぎる!!)
後で思い切り噛みついてやろうと思った。




