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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景10

「張機……本当にあの日は一人で一羽まるごと食べたのか?二人でこれだと、絶対に無理だと思うんだが……」


 許靖は絶え間なく襲ってくる圧迫感に苦しみながら、同期の顔を覗き込んだ。


 そしてその苦しげな表情を確認し、自分も同じ顔をしているのだろうと推測できた。


「あー……正直に言うと、食べきれなかった分は持ち帰りに包んでもらったんだ」


「……だよな。あの量は無理だ」


 許靖と張機は二人で鶏に挑みに来ていた。


 先日この店の鶏を食べた張機が『一羽まるごと食べたら世の中の色々なことがどうでも良くなる』と言っていたから、許靖も食べに来てみたのだ。


 ただ、他の客が複数人で鶏を囲んでいるのを見て許靖は怖気づいた。そして二人で一羽を注文することになったのだが、それで正解だった。


「でもさ、実際に世の中の色々なことがどうでも良くなったただろ?一人で一羽まるごとじゃなくても」


 張機の言うことに、許靖は腹をさすりながら同意するしかなかった。胃からせり上がってくる圧迫感は確かに色々なことをどうでも良くしてしまう。


 この苦しさから逃れるにはどうしたらいいか。基本的にはどうしようもない思考で頭がいっぱいになる。


「張機の言う通りだよ。今晩は嫌なことを全部忘れて眠れそうだ」


「だろ?」


「それに、美味いのは美味かった」


「どこかの岩塩を使ってるって言ってたな。どこだっけ?」


「えっと……ああ、駄目だ。腹にばかり血が回って何も考えられない」


 多用すると危険なことではあるが、これこそがヤケ食いという魔術の種だろう。やり過ぎれば本当に死期を早めるが。


「まったく……医者の不養生とはよく言ったもんだ」


 張機は重くなった腹を抱えるようにしながら店を出た。


 許靖もそれに続き、二人がフラフラと数歩歩いたところで後ろから足音が聞こえてきた。


 ひどく慌てているようで、地面を蹴る音がバタバタと騒がしい。その足音はすぐに張機たちを追い越して行った。


 足音の主は女だった。


 一瞬だが、張機の目に女の横顔が見えた。


(そばかす……)


 そばかすのある、若い女だということは分かった。


 その女は通りをまっすぐ走っていく。女にしては足が速いが、張機はふと、玉梅よりはずっと遅いなと思った。


「えらく急いでいるけど……あっ」


 と、張機が小さな声を上げたのは女が転んだからだ。横合いの小道から突然子供が飛び出してきて、それを避けようとしてこけたらしい。


 しかも足首をひねったような転び方だった。捻挫しているかもしれない。


「大丈夫ですか?」


 張機と許靖は重い胃を揺らしながら女へ駆け寄った。


 女はすぐに立ち上がってまた走ろうとしたが、案の定ひどく捻挫していたらしい。再び転んでしまった。


 これでは歩くこともできないと思った張機は女の肩を押さえた。


「無理しないで。動かすと悪くなりますよ」


 しかし、女はそれでも立とうとした。


「ですが私、急いでおりまして……一刻も早く行かなければならないのです」


 そう言う女の顔には苦渋の色が浮かんでいて、それは足首の痛みからだけではないようだった。


 その必死な様子に張機と許靖は顔を見合わせた。何か軽くはない事情があるようだ。


 とはいえ医師である張機から見て、とてもではないが自分の足で移動できるようには見えない。


「とりあえず、僕がおんぶしますから……」


「いたぞ!!あそこだ!!」


 張機が背を向けかけたところで大きな声が上がった。


 そちらを向くと、男二人がこちらへと駆けていた。


 二人とも一目見て鍛えていると分かる良い体格をしていて、しかも腰に剣を下げている。それが眉を吊り上げながら走って来ていた。


 一方の女は明らかに焦った顔をしている。どうやら男たちに追われているようだ。


 この両者を見比べた許靖は、とにもかくにも男たちを落ち着かせようとその間に立った。


 男たちの形相が恐ろしくて足が震えたが、女の様子を見るに放っておく気にもなれない。


 とりあえず止めるだけだと己に言い聞かせ、両手を胸の前に上げた。


「あの、ちょっと落ち着いて……」


 しかし男たちは落ち着くどころかさらに激しい怒声を上げた。


「何だてめぇゴラァ!」


「その女の仲間か!」


 叫びつつ、一人が出会い頭に許靖の顔を殴りつけた。


 そこへもう一人が足裏で蹴りを加えてくる。


 許靖は張機と女のそばを吹き飛んで倒れた。


「うぅ……」


 地面を転がる許靖を見た張機の頭にカッと血が上った。


 この感覚は以前にも一度覚えがある。張羨が于双の屋敷で傷つけられた時、激昂のあまり我を忘れて暴れてしまった時だ。


 今日また大切な友人を傷つけられた張機は、その時と同じように激しい怒りに包まれた。


 そして自分ではない自分が現れて、荒い叫び声を上げた。


「お前らぁ!!」


 地を激しく蹴り、一人に思い切り体当たりした。それと同時に足をかけている。


 男は倒され、(したた)かに後頭部を打ちつけた。


 それでその男はもう戦えなくなっていただろうが、張機はさらに顔を殴った。二度殴った。


 鈍い音がして、男は完全に気を失って動かなくなる。


 これを見たもう一人の男が剣を抜いた。吹き出すような張機の怒りと過剰な暴力に怯えたのかもしれない。


 鈍く光る刃を振り上げ、張機の頭へ振り下ろす。


 当たれば確実に死の訪れる一撃だったが、頭蓋が割れる音は鳴らなかった。代わりに金属同士がぶつかる高い音が鳴り響いた。


 張機は倒した男から剣を奪い、それを抜いて斬撃を受けていた。


 そして立ち上がりながら男の剣を押し返し、体勢が崩れたところへ前蹴りを食らわせた。


 さらに勢いを殺さず剣を叩き落とし、丸腰になった男の側頭部に剣をぶつけた。


 刃をぶつけず、剣の腹で殴ったあたり完全に理性は消えていなかったのかもしれない。


 しかしちょっとした角度で刃が当たっていたかもしれず、実際に張機はそうなっても構わないという気持ちで剣を振っていた。


 胸の内でそれだけ感情が荒れ狂っているのだ。


 その激流に身を任せ、張機は剣を振り上げた。血走った目で倒れた男を見下ろす。


 あとは腕を下ろせば一つの命が消えたはずだが、その前に横合いから許靖が抱きついてきた。


「張機!もう十分だ!もう二人とも意識がない!私も大丈夫だから!」


 張機はそれでハッとして己を取り戻した。


 まだ胸の中で何かが暴れてはいたが、これ以上の暴力が不要であることは理解した。


「許靖……僕は……」


「大丈夫、大丈夫だから」


 許靖はまるで馬をなだめる時のように、どうどうと張機の背を叩いた。


 そして息が落ち着いてきたのを見計らってから離れる。


「前に張機の瞳に棚が見えるって言ったのを覚えてるか?」


「え?ああ……」


「その棚の一つに封がしてあるところがあったんだ。今、そこから凶暴な武器が弾け出た」


「凶暴って」


「釘のたくさん付いた棍棒とか、ノコギリのような刃の剣とか、そういう痛そうなやつだ」


 張機はそれを聞き、確かに今しがたの自分の心情に合っていると思った。


「今後も何かのきっかけで封が開くかもしれない。気をつけた方がいいぞ」


 かなり真剣な助言に小さくうなずきながら、音を立ててつばを飲み込んだ。


 許靖はそんな友人の肩を叩いてから改めて倒れた男たちへ目を向けた。


 しばらく起きなさそうではあったが、目が覚める前に安全を確保した方が良いだろう。


「とりあえず、衛兵を呼ぼう」


 突然殴られた身としては当然の対応なのだが、逃げていた女がこれに反対した。


「だめです、その人たち自身が兵なので」


「えっ!?」


「何だって!?」


 張機も許靖も、その事実にはさすがに驚いた。


 そして正規兵を殴り倒してしまった張機は焦りを覚える。


「まずいことをしてしまったな……というか、君は?」


 こうなると、むしろ女の方が犯罪者ということになるだろう。


 問われた女は口をつぐみ、張機と許靖の顔をじっと見つめてきた。


 何かを計るような瞳でしばらくそうしていたが、結局は諦めたように息を吐いた。


 自分で歩くことすらできない今、他に選択肢はないと思ったのだろう。


 女は二人に協力を仰ぐため、自らの素性を正直に告げることにした。


「私は劉表(リュウヒョウ)様にお仕えする雪梅(セツバイ)と申す者でございます。厚かましいことを承知でお願いいたします。どうか、私を劉表(リュウヒョウ)様のお屋敷まで運んでくださいませ」


 そこで出た名があまりにも意外で、許靖と張機は思わず眉を寄せた。


「劉表様?」


「劉表様というと、あの……」


「はい。清流派八及(はっきゅう)の劉表様でございます」

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