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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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医聖 張仲景7

 張機は拳を揉みながら土手沿いの道を歩いていた。


 揉むと、痛い。


 しかし于双を半殺しにした二十日前に比べれば随分と良くなっていた。


(張羨もだいぶ動けるようになってたけど、人間の体ってすごいんだな)


 全身怪我だらけだった張羨だが、昨日はもう外を歩いていた。


 人間の体はある程度までなら日々回復していくわけだが、まこと上手くできているものだと思った。


 ただし、張機にやられた于双はそうはいかない。傷も後遺症も残るという話だった。


 あの日、あの夜の自分がやったことは今でも信じられない。思い出してみても、自分が自分でないようだった。


(いや……あれは僕じゃなかった。張羨の怪我を見て、僕の中の檻が壊れたんだ。壊れて僕じゃない僕が出てきた)


 出てきた自分はただ破壊衝動のみで形作られていて、その衝動の赴くままに動いていた。体が燃えるようだった。


(まぁ……結果としてそれで万事解決したみたいだけど)


 張機のあまりの狂態に、そして于双のあまりの壊され具合に、宴の参加者は完全に萎縮してしまった。それで反乱をでっち上げるだけの気力が失せてしまったらしい。


 そもそもそれを主導した于双は良くて再起不能だ。あえてそれに代わろうとする者はいなかった。


 そこへ蔡幹が、


『于双さえ押さえられれば他の参加者をどうこうするつもりはありません。速やかにお帰りください』


そう告げた上で、さらに兵たちへ他言無用であると宣言した。


 実際には人の口に戸は立てられないし、噂には上るだろう。


 しかしそれで参加者たちはそそくさと退散してくれた。


(屑とはいえ、人をあれだけ怪我させてお咎めなしっていうのも気が引けるけど……)


 張機はそこに関して自身で疑問を感じていたものの、実際になんの罰も与えられていない。


 むしろ周囲は皆褒めてくれた。詐欺の治療や無意味なお布施による被害から南陽郡を救ってくれたと評判になっていた。


 ただ張機としてはそんな評判よりも、許嫁が助かったことの方が嬉しかった。


 玉梅は張伯祖の治療を再開してからみるみる良くなり、ついに今日久しぶりに会えることになったのだ。


 ほとんど完全に回復しており、もう人にうつすこともないだろうと張伯祖が診断してくれた。


 それで今の張機は玉梅の家へと向かっているところだ。


「何日ぶりだっけ?」


 思わず声が出てしまい、そんな自分に笑った。


 とにかく嬉しい。世界で一番好きな女の子に会いに行く途中なのだ。下手をすると実際に会っている時よりも幸せかもしれない。


 足がやけに軽く、曇っているはずの空は明るい色に見えた。きっと目に映る景色は、その時の気持ちで色合いを変えるのだろう。


「玉梅……」


 いつか自分と結ばれる女の子の名をつぶやいた時、その声が聞こえた。土手の下の河川敷からだ。


 見ると、玉梅がいた。しかも自分の大切な親友、張羨も一緒だ。


 二人は以前、張機と張羨が張伯祖と話をしていた岩の上に座っている。並んで川の方を向き、張機からはその背が見えた。


 とても大切な幼馴染たち。この二人がそばにいれば、それだけで自分は幸せだ。


 そう思っていたのだが、次の瞬間玉梅が取った行動で張機は考えを改めざるを得なくなった。


 玉梅が張羨に抱きついたのだ。


(……え?)


 張機はまず呆然とし、それから慌てて木の陰に隠れた。


 自分で自分の心臓の音が分かる。それほど強く拍動していた。


 頭の中を真っ白にしながら耳をそばだてると、二人の声が聞こえてきた。


「おい、そんなに泣くなよ。この通りもう元気なんだから、俺の怪我は気にしなくていい」


「元気って、まだ片腕は吊ってるじゃない。それに顔だってアザだらけで……」


「見た目ほどひどくはないし、何よりお前が責任を感じることじゃないよ。俺は俺の意志で、俺の責任で行動したんだからな」


「でもお父様が言ってたわ。私を助けるために張機と二人で無茶したんだって。張羨が主導してやったことだとも言ってたし」


「ああ……まぁ言い出しっぺは俺だけど……」


 どうやら玉梅は張羨の怪我に責任を感じ、申し訳無さが感極まって抱きついたらしい。


 許嫁の張機として気分のいい光景ではなかったが、自分の心配するような抱擁ではなかったことに安堵した。


 とはいえ抱きついているところに出ていくのも気まずいから、もう少し隠れていることにした。


「その怪我のおかげで私は死なずに済んだんだから、すごくありがたいことなのは分かる。でもそれで張羨が死んだら私はその方が嫌なんだからね」


「玉梅……」


「張羨は私の大切な人。私自身の命よりも大切な人。だから、こんな無茶はもう二度としないでね」


 再び雲行きが怪しくなったような気がして、張機の心臓は再び強く脈打った。


 鼓動が大きすぎて気管が潰されたように感じる。呼吸すら苦しくなってきた。


 そんな張機とはまるで異なる心情だろうが、張羨の方もどこか苦しげな声を出した。


「お、おい……やめろって」


「何を?」


「こんなふうに抱きついて、そんなこと言うもんじゃない」


「なんで?」


「なんでって……お前は張機の許嫁だろう」


「そんなの親同士が勝手に決めたことじゃない。しかも私にはなんの確認も無しに」


「いや、でも張機はすごくいいやつで……」


「それは私だって知ってるわよ。私もそう思う。張機と結婚する人は、きっとすごく幸せな家庭を築けるわ」


「それなら」


「ここで大きな鯉を上げたことを覚えてる?」


 突然話題を変えられたと思い、張羨は戸惑った。


 しかしその時のことはよく覚えている。


「あ、ああ……でかい鯉だったよな。お前、泣いてたから」


「そう、私泣いてたの。それで張機は優しく慰めてくれて、張羨はひどいこと言って無理やりこんなところに連れ出した」


「そ、そうだよ。アハハ……やっぱり優しい男と結婚した方が、女は幸せになれるんだ」


「そうね。でも……だからって私が優しい人を好きになるとは限らないでしょ?私は大きな鯉を見て、好きだなって思ったの……私が好きなのは……」


 隠れている張機はその言葉の先を、まるで崖からゆっくり落ちるような気分で待った。


 その先は聞かなくても分かるから、断崖絶壁の崖なのは間違いない。


 しかし玉梅は先を言うのをやめ、今度は質問した。


 張羨から体を離し、その代わりに熱い視線を押し付けながら問うた。


「張羨は?」


「……え?」


「だから、張羨は?」


「………………」


 具体的なことは口に出さずとも、質問の意味は分かった。


 そして張機には、その後の張羨の長い沈黙の意味も分かった。


(張羨も玉梅が好きなんだ……)


 この段になって、ようやくそのことに気づくことができた。


 だから張羨はあそこまで無茶をしたわけだし、考えてもみればそれが分かるような言動はいくらでもあったように思う。


 蔡幹の私塾を継ぎたがっていたのも、それが理由で間違いないだろう。


(僕が……僕さえいなければ……)


 張機が究極の自己否定で満たされた時、玉梅でも張羨でもない声が聞こえてきた。


「おや、ついこの間まで重症だった二人じゃないか」


 そう言って現れたのは張伯祖だった。


 手には引き抜いたばかりの植物を持っている。薬草を取りながら川沿いを歩いていたようだ。


 張羨と玉梅は慌てて立ち上がり、頭を下げた。


「伯先生」


「お陰様で重症者ではなくなりました。ありがとうございます」


 張伯祖は自然な動きで二人の脈を取りながら、目を覗き込んだ。


 舌を出させ、体のあちこちを押して体調を確認する。


「ふむ……二人とも順調のようだが、まだ無理はするなよ。特に張羨は今転倒したりしたら大事になる。よく気をつけるように」


「はい」


 その忠告に、玉梅は張羨の背中を押した。


 張羨は思わずつんのめったが、足を出すこともなく踏みとどまった。


「おい、何するんだ」


「伯先生、張羨の体幹はうちの生徒の中で一番ですから簡単に転倒なんかしません。大丈夫ですよ」


 そう言って、いたずらっぽく笑った。


 その笑い方が大好きな張機は胸を締め付けられるような気持ちになったが、張伯祖はただ感心してうなずいた。


「蔡幹先生のところは優秀な生徒がたくさんで羨ましい。それに比べて私のところは……」


「え?もしかしてまたお弟子さんに逃げられたんですか?」


 玉梅は悪気なく、開けっぴろげに聞いてしまった。


 実は張伯祖の弟子がすぐに辞めるというのは有名な話で、すでに両手で数えられないほどの人間が入門しては逃げている。


 それでまたか、くらいの気持ちで尋ねたのだが、張伯祖の方は重い重いため息を吐いた。


「最近の若者はどうしてこう、長続きしないのだろうな……私はきつく当たったりもしていないし、それほど大変なことをやらせているつもりもないのだが」


 そうは言っていたが、噂ではありえない量の医学書を渡されて丸暗記するよう命じられるという話だった。


 しかも張伯祖は弟子がそれを覚えている前提で話をしてくるし、その前提で診療の手伝いを命じられる。弟子たちは指示や指導の言葉がまるで理解できないらしい。


 それに真綿で絞められるような圧を感じて、


『無理』


という結論を出す若者が多いとのことだった。


 それを聞き知っている玉梅と張羨は何も言えずにただうつむいたが、逆にハッと顔を上げた者がいる。


 張機だ。


 張機は今まで隠れていた木の後ろから出て、土手を走り下った。


 そして玉梅と張羨の横を大股で駆け抜け、張伯祖の前に来た。


「伯先生!」


「おお、張機。お前も来ていたのか。拳の方は……」


「僕、医師になりたいんです!弟子にしてください!」 


「……何?」


 張機の突然の申し出を、張伯祖は聞き間違えだと思った。


 医師になりたいと言われても、張機は蔡幹に婿入りして私塾を継ぐことになっている。だから聞き間違いだと思ったのだ。


 張羨と玉梅もまさかの台詞に我が耳を疑っていた。


 しかし張機は己の意志を強調するように、張伯祖の腕を掴んで鼻先が触れるほど顔を近づけた。そして繰り返す。


「伯先生の弟子にしてほしいんです!僕は医師になります!」

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