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034 曹操

「久しいな、許靖殿。一目で私と分かってもらえて嬉しいぞ」


 そこに立っていたのは、曹操その人だった。


 多少背は低いものの、見栄えのする三十前の美丈夫だ。洒落た戦袍(せんぽう)に身を包み、許靖へと笑顔を向けている。


 許靖は驚きながらも礼をとった。


騎都尉(きとい)たる曹操殿を分からぬわけはありません。この度の戦勝と凱旋、おめでとうございます」


 現在の曹操は騎都尉という役職にあり、形としては皇帝直属部隊の一軍を指揮するということになっている。かなり高い地位だ。


 ちなみに許靖の役職である侍郎(じろう)は、今でいえば課長級の若手官僚が就くような地位だろう。


 行政の実務上は最も能力を要求される役職であり、実際に特に有能な者が選ばれる場合が多い。ただし、曹操の方が地位も俸給も上だ。


 曹操は少し残念そうに眉根を寄せた。


「騎都尉ではない私の事は記憶にないかな?もう十年以上前になるが、私は許劭(キョショウ)殿の評を受けたことがあったのだ。その時に許靖殿とも話しているが……さすがに覚えていないか」


 許靖は曹操があの時の自分を覚えていたことに多少の驚きを覚えた。


 かぶりを振って答える。


「覚えておらぬわけはありません。あの日見たあなたの瞳を、私は今も忘れられない」


 許靖は思ったことをそのまま口にした。


 それを聞いた曹操の顔は、ご褒美をもらった子供のように明るくなった。


「本当か?嬉しいな。それに今『瞳』と言ったな。噂通り、許靖殿は瞳の奥にその人物の器を見ることができるのだな」


「いや、それは……」


 許靖は瞳の奥の「天地」に関して、ごく限られた人間にしか話していない。


 単純に頭のおかしい人間だと思われても嫌だし、手品師や詐欺師、宗教家のようなものだと思われるのも嫌だった。


 全く誰にも話していないというわけではないので一部で噂されてはいたが、許靖自身がそれを否定していた。


 逆に、本人が否定するのでちょっと神秘じみた話になって盛り上がっている、という面もあったが。


「隠さなくともよい。戦場で会った人間から聞いたのだ。この手の話を鵜呑みにする私ではないが、その者はそんな下らん嘘はつかん人間だ」


 曹操は許靖の瞳を覗き込むようにした。 


「それに…ろ私もそれなりに多くの人間を使っている者だ。相手が嘘をついているかどうかぐらい、ある程度察することができるぞ」


 許靖は苦笑した。


「……そうですね。どうしてもという方には座興として、私の妄想として、そういったお話をすることもあるのですが」


 それはこの話題から逃れるか、座興として済ましてしまうための常套句だった。


 曹操は言葉の表裏に構わず、白い歯を見せて笑った。


「そうか。なら今日はその座興を聞きに来たのだ。十数年前に会ったあの日、私は許邵殿の評をもらえたことに舞い上がって許靖殿の評を聞かなかった。それを後悔している。それに私は今回の戦場で多くの経験を積んだ。私の器がどのように変わったかも聞いてみたい」


 畳みかけるようにしゃべりながら、半歩前に出た。すでに家に入る気配を見せている。


「突然の訪問、失礼は承知している。しかし今夜からはしばらく予定だらけで全く動けんのだ。頼む。今見てくれないだろうか」


(これは断れそうもないな)


 そう思った許靖は早々にあきらめた。


 実際、急ぐ曹操の気持ちも少しは分かる。


 今の曹操は戦勝の英雄の一人だ。これから数多くの宴や行事が予定されているはずであり、しばらくは時間を作るのが難しいだろう。


 それに、正直なところ許靖自身も曹操の瞳をじっくりと眺めたいと感じていた。


「分かりました。しかし、突然のことでかなり散らかっております。ご勘弁ください」


「感謝する。なに、どんな荒れた家でも戦場よりはよほどマシだ」


 許靖に先導された曹操は、客間への廊下で許欽とすれ違う時に笑顔で声をかけてくれた。


「息子殿か。これは賢そうだ。父上のように、民のためになる仕事をしてくれよ」


 普段の許靖の仕事ぶりを聞いているのか、曹操はそのような事を言ってくれた。


 騎都尉、曹操は反乱鎮圧の英雄だ。当然子供たちにも人気がある。許欽は恐らく、明日この話で友人たちから羨望の目で見られることだろう。


 花琳は突然の高貴な来客に慌てながらも、急いで茶と菓子を出してくれた。


 曹操は出された茶の香りをじっくりと楽しみ、それから口に含んだ。


「これはいい香りだな……美味い。茶とは、これほど美味いものだったのか」


 普段飲んでいる茶との違いに驚いたようだ。許靖も初めて王順から茶を振る舞われた時、その違いに驚いたのを覚えている。


 花琳は微笑んで頭を下げた


「ありがとうございます。父が茶道楽でして、私もいくらか教わりました。お口に合えば幸いです」


「普通の茶と全く違うが、何が入っているのだ?」


「逆に茶葉以外、何も入っていないのです。父は正しい製法や煎れ方が世間に根付いていないことをいつも嘆いております」


 この時代の茶は汁物のように扱われることも多く、様々な食材が一緒に煮込まれることもあった。


 今のような茶が庶民の間で一般的になるのはもう少し後の時代で、製法や煎れ方がしっかりと広められてからになる。


「なるほど……奥方、後で人をやるのでその方法を教えてくれないだろうか。秘伝なのであれば無理にとは言わないが」


「いえいえ、そのような大層なものではありません。喜んでお教えいたしますわ。よろしければ、私のおすすめの飲み方も。牛やヤギの乳、砂糖などを入れても美味しいんです」


(そうだ、曹操殿の恐ろしさはこういったところだ)


 許靖は二人のやりとりを見ながら一人そう納得していた。


 花琳が奥へ下がると、曹操は許靖へと向き直った。


「それで許靖殿、早速だが先ほどの座興を聞きたい」


「はい。座興ですが、お話ししましょう」


 許靖も居住まいを正して、改めて曹操の瞳を見た。


「まず、以前会った時の私の瞳には何が見えていたのだろうか?」


 許靖はうなずいて茶を一口含み、舌を湿らせてから答えた。


「子供、ですね」

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