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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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小覇王の暗殺者5

『江東の虎』と呼ばれた男がいる。


 名を孫堅(ソンケン)といい、数々の戦で武功を上げてその勇名を天下に轟かせた。多くの反乱を鎮圧し、暴虐の限りを尽くした董卓(トウタク)をも負かして洛陽から除いている。


 きらびやかなまでの戦歴を持つ武人だが、その最期は果たして戦死と言えるものかどうか。


 孫堅は死の直前、黄祖(コウソ)という武将と争い、一戦してこれを破った。しかしその後の包囲戦で近辺の山に一人いる時、黄祖の部下に射殺された。


 戦の過程とはいえ、暗殺のようなものだろう。


 横死した孫堅は子を幾人か残した。その長男が孫策(ソンサク)だ。


 孫策は父の死後、雌伏の時を経て、現在は袁術(エンジュツ)配下の武将として働いている。孫堅の軍勢は袁術に吸収されていたので、それを返してもらう形でその配下の将になったのだ。


 といっても孫策に返されたのは軍勢のほんの一部で、たったの千人あまりだった。


 本来ならそのまま飼い殺しにされてもおかしくない立場にあったが、孫策はその逆境を乗り越える。


 戦いに明け暮れ、孫堅の旧臣にも助けられ、ついには郡一つをもぎ取った。


 丹陽(たんよう)郡といい、許貢(キョコウ)が太守を務める呉郡の西隣りにある郡だ。孫策にとって、ここが初めての地盤となった。


 だから雲嵐(ウンラン)も孫策という名には聞き覚えがあった。この頃、街の噂でよく耳にする名だ。


(孫策って確か、最近隣りの丹陽郡を落とした武将だよな)


 呉郡の多くの人間にとって、孫策とはそういう認識の存在だ。


 その孫策は、まずはとぼけてみせた。


「孫策?なんのことだ。俺はここに狩りに来ていただけで……」


「つまらん嘘はよせ。呉郡を攻める準備をしている奴の人相書きくらい目にしている」


 許貢の言葉を受け、雲嵐は孫策へ向ける視線を険しくした。


(攻めてくる!?こいつが!?)


 孫策は今のところ袁術の配下だが、それだけで終わるような器の男ではない。独立心も強いから、そのための力を得ようとしていた。


 丹陽郡を手に入れた後は、すぐに隣接する呉郡、会稽(かいけい)郡へと目を向けて準備している。そしてそういった軍事情報は、当然のことながら呉郡太守である許貢にも入ってきていた。


 だから許貢は孫策の類まれなる勇武をよく耳にしていたが、それを実際に目の前にして、さらに強く感じ入るものがあった。


「それに……どれだけ誤魔化そうが、その覇気までは隠せんぞ」


 『覇気』という単語を聞いて、雲嵐は孫策に対して感じていた迫力の正体を知った。


 確かに孫策の全身から放たれているものは、覇気で間違いないと感じる。


 孫策はニヤリと笑い、とぼけるのをやめた。


「……俺も呉郡太守の人相くらいは知っている。許貢、だな?」


「だとしたらどうする?息子を人質に、俺を殺すか」


 その言葉に聞いた孫策は、片眉をピクリと上げた。


「息子……これは、お前の息子か」


 問い返された許貢は心中で後悔した。


 不用意に情報を与えてしまった。これでは脅迫してくださいと言っているようなものだ。


 が、孫策はそうしなかった。なぜか許安の首に当てた刃の力を緩めた。


「……言う通りにすれば、お前も息子も殺さん。互いにこのまま引こう」


 許貢はその反応を意外に感じた。


 そして何となくだが、目の前の青年は本当にそうしてくれるような気がした。


「どうすればいい?」


「まず武装解除だ。弓をこちらに放れ」


「こちらだけ丸腰になれと言うのか。それは都合が良すぎるだろう」


「……そうだな。では一人だけ弓を持っていていい。どちらにせよ、弓では俺を殺せん」


 許貢は脳内でこの後の様々な展開を検討した。が、結局は孫策の言ったことを信じてみる気になった。


「いいだろう。雲嵐、お前が弓を持て。何かあればすぐに射つんだ」


「はい」


 許貢と魅音は弓を孫策の足元へ投げた。


「すまんが、自信作を足蹴にするぞ」


 孫策は許安にそう断ってから、弓を遠くに蹴飛ばした。


「よし、では……」


 と、次の指示を出そうとした時、山の奥から別の声が上がった。


「孫策様!!ご無事ですか!?」


 見ると、馬を二頭連れた男がこちらに駆けて来るところだった。


 四十がらみの男だ。木が生い茂っているから馬を降りた方が速いと判断しているらしい。自分の足で駆けていた。


 駆けながら腰にはいた剣を抜き、それを上段に構えて気合の乗った声を上げる。


「貴様ら賊か!?子連れであろうと容赦は……」


「止まれ朱治(シュチ)!!」


 と、孫策が止めなければこの朱治という孫家の功臣は、この時死んでいたかもしれない。雲嵐の弓がその心臓へ正確な狙いを定めていたからだ。


 朱治は主命に従い、足を止めた。


 雲嵐はなおも弓を引いたままだったが、その指を離すのはいったん差し控えた。


「朱治、心配させてすまなかったな。もう帰るところだから大丈夫だ」


 孫策は平常通りの笑顔を見せたが、その剣はまだ許安の首筋に添えられている。朱治からすれば、状況を見る限り平常とは言い難い。


「大丈夫とおっしゃられましても……ん?貴様はまさか、呉郡太守の許貢か!?」


 朱治の目は許貢をとらえて大きく見開かれた。剣を握る手に力が込め直される。


「これは僥倖(ぎょうこう)。今回はただの敵情視察のつもりだったが、ここで許貢を(たお)せれば呉郡は容易に孫家のものに……」


「いや、もう帰ると言っただろう。さっさと帰って酒でも飲もう」


 孫策は相変わらず緊張感を欠いた物言いをした。


 しかし、朱治には納得できない。


「で、ですが……こんな好機……」


「呉郡はこのような形で得るべきではない。今の我らはただの成り上がりの小勢力で、誰からも見くびられている。周囲を従わせ、大きな流れを掴むためには天下に武を示す必要がある」


 想像以上に深い考えを述べられた朱治は、多少の感動を覚えながらうなずいた。


 朱治は孫策の父孫堅の代から仕えている古武者だが、若過ぎる孫家の棟梁をどうしても心配してしまいがちだ。しかし、どうやらそれも杞憂だったらしい。


「孫策様……ご立派になられましたな」


「まぁ実際に呉郡攻めの苦労をするのは、俺ではなくお前だがな」


「なんと!?」


 そんな朱治の顔が面白くて、孫策は笑い声を上げた。


 が、その明るい声を許貢が遮った。


「天下に武を示す……だと?ふざけるなよ。お前、どういうつもりでそれを言っている?」


 許貢の言葉には静かな怒りが込められていた。


 言われた孫策は、不思議そうな視線を許貢へ向けた。


「どういうつもりも何も、そのままの意味だ。戦に勝ち、我らの強さを天下に示し、その認識によってまた力を増す。この乱世に男として産まれた以上、これほど栄光な道のりはあるまい」


 孫策の言うことは、群雄割拠のこの時代をよく表している。


 しかし、許貢はそれを認める気はなかった。


「戦に男も女も栄光もあるか。お前はその道のりで犠牲になる兵のことを、民のことを考えたことがあるか」


「ほぉ……許貢とは、そういう男か。前太守を追放してその座に就いたと聞いていたから、もっと武人らしい武人を想像していたが……どうやら俺の見当違いだったようだ」


「俺は、戦は嫌いだ」


「そのようだな。俺のような戦人(いくさびと)とはそもそもの価値基準が異なるようだ」


「戦人……そうか、戦人か。許靖はお前の中に父である孫堅殿の甲冑を見たと言っていたが、今はおそらく甲冑だけではあるまい」


 孫策はその懐かしい名を聞いて、少し驚いた顔をした。


「許靖……覚えているぞ。俺は幼い頃、瞳を覗かれて確かにそう言われた」


 孫策にとって、それは温かい思い出だった。その頃はまだ優しく強い父がおり、手を引かれる自分はその手の大きさに安心しきっていた。


 あの時、許靖は自分の瞳の奥に父の甲冑が見えると言ってくれた。それは父を尊敬する自分にとって、この上なく嬉しいことだった。


 しかし、その父はもういない。その代わりとなる自分は、偉大な父の強さを受け継いだのだ。


「貴様の思う通り、今の俺の瞳にあるのは甲冑どころではなかろう。俺は俺の中に、江東の虎の武人としての本質のみが色濃く存在するのを感じる。そういう戦人というのが、俺の本質だろう」


 その本質を理解した許貢は、怪物でも見るような目を孫策へ向けた。


「恐ろしい……お前は、項羽(コウウ)のような存在だな」


「項羽?古の高祖と戦った覇王・項羽のことか」


「そうだ。お前や項羽のような人間は、戦の中にしか己の生を見いだせないのだ。だからお前たちが存在しているだけで、戦は終わらない」


「なるほどな。確かに戦のない人生など考えられん」


「……この小覇王めっ!」


 吐き捨てるよう許貢の言葉を耳にして、孫策は満面の笑みを浮かべた。


「小覇王、か。いいな、気に入った」


 孫策は小覇王、小覇王、と何度もつぶやきながら許安を開放した。剣を離し、優しく背中を押してやる。


「悪かったな。こんな世の中だ。皆生きるのに必死なのだと思ってくれ」


「いえ……」


 と、許安は大層なことをされたのに、孫策を気遣うような声を出した。


 そんな許安の反応に、孫策は苦笑した。そして一番近くにいた許安にも聞こえるかどうかという小声でつぶやいた。


「許貢をここで殺さなくてよかったよ……父を殺された子の気持ちは、痛いほどよく分かるからな」


 それから孫策は朱治のところへ行き、連れられてきた馬にまたがった。


「許貢。先ほども言った通り、呉郡との戦には朱治を派遣する。この男は強いぞ。武人としての年季は長く、陽人の戦いでは父孫堅とともに董卓をすら負かしている。悪いことは言わんから、戦わずに降伏しろ」


 許貢は一瞬だけ迷うような表情を見せたが、すぐに首を横に振った。


「いや……そういうわけにもいかんという事が、お前と話してよく分かった。孫策という男は、今止めねばならん男だ。お前はこの乱世が長引く原因の一つになってしまう」


「俺が、乱世を長引かせるか」


「そうだ。俺は曹操(ソウソウ)袁紹(エンショウ)が大きな力を持って周囲を併呑していくと思っているが、お前がこのまま力を持てば、少なくとも簡単には併呑されんだろう。そうなれば乱世は長引き、民が苦しむ。俺はその民を守りたい」


「……貴様の気持ちは分かった。しかし、その息子を悲しませるような行動は控えることだな」


 孫策はそれだけ言うと、背を向けて馬を進ませ始めた。


 これでこの偶然の邂逅は終わりかに思えたが、最後に一つ行動を取った者がいる。


 雲嵐だ。


 雲嵐は去りゆく孫策の背中めがけ、一瞬の動作で弓を放った。


(こいつは呉郡を、許貢様を攻めてくる。俺の家族を傷つける、敵だ!!)


 そういう憎しみのもと、はっきりと殺意を持って放った渾身の矢だった。


 その矢によって、孫策は落馬した。


 しかし、矢が当たって落馬したのではない。矢をかわすために、自ら馬を落ちたのだった。


 雲嵐は驚愕した。完全に背後から射ったのだ。しかしかわされた。


 驚きながらも、素早く第二射の準備をした。が、許貢が飛びついてそれを止める。


「雲嵐、よせ!!」


 その言葉によって、孫策は抜きかけていた剣を止めた。


「……許貢に守られたな。もしもう一発射って来るようなら、問答無用で殺していたところだ」


 その静かな言葉を浴びて、雲嵐は全身の血が凍るような思いがした。


 小覇王の殺気を正面からぶつけられたのだ。後ずさった拍子にこけて、尻餅をついた。


 冷や汗が吹き出してくる。腰が抜けたのか、立てる気がしない。


「先ほども言ったが、弓では俺を殺せん。流れ矢ならともかく、今のように殺気のこもった矢ならなおさらだ。かすりもせんぞ」


 と、言ってから、孫策は己の頬を撫でた。


 手のひらに薄っすらと血が付いた。それは少し前に許貢が放った矢がかすり、小さく滲んでいた血だ。


「……ふん」


 孫策は軽く鼻を鳴らして許貢を一瞥した。それは何か、奇妙なものへ向けるような視線だった。


 ただ、それ以上は何も言わない。再び馬にまたがると、朱治とともに山の奥へと消えて行った。

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