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三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地〜 家族愛の三国志大河  作者: 墨笑
短編・中編や他の人物を主人公にした話
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小覇王の暗殺者3

(腹が空いて眠れない……)


 雲嵐(ウンラン)はそのことを不思議に思っていた。


 山賊の中で暮らしていた時には空腹のまま床につくことも珍しくはなくて、それで眠れないことなどなかった。


 しかし許貢(キョコウ)の屋敷で暮らし始めてから、毎日十分な食事を口にできている。すると夕食を一回抜かすだけで、空腹で眠れないという状況が出現したのだ。


(人間ってのは、贅沢には簡単に慣れちゃうもんだな)


 そんなことを思いながら、寝具から抜け出した。


 台所に行こうと思ったのだ。許貢の妻が、そこに簡単な食事を置いておくと言ってくれていた。


 許貢の家族は許安だけでなく、その兄や姉、母も皆優しい人たちだった。


(夕飯、ちょっとでも食べておけばよかったかな……)


 そうも思ったが、やはり晩餐の席に顔を出す危険は冒せなかった。あの許靖という人物鑑定家と顔を合わすわけにはいかない。


 だから雲嵐は腹痛の仮病で部屋に引きこもり、一切の夕食を断ったのだった。


(本当に、目を見るだけで人格が分かるのかな?)


 冷静に考えてみれば眉唾ものだとも思うのだが、少なくとも魅音の評は当たっていた。許安の評も正しいと思う。


 それに、確かに許靖の視線は普通と違うようにも感じられた。物の表面を見ているようで、その視線はもっと奥深くへ向いているようにも思えるのだ。


(もしあの視線が本物なら、絶対に避けないと)


 自分の罪を知られるわけにはいかない。


 雲嵐は山賊の一員として多くを殺し、多くを奪ってきた。間違いなく戦力の一翼を担っており、十歳にも関わらず頼りにすらされていた。


 その罪が明らかになれば、首を斬られる。


(ここにいたい……許貢様の所に、いたいんだ……)


 いざそれが不可能になるかもしれない事態を前にすると、自分が強くそれを望んでいることが自覚された。


 許貢の側は、居心地がいい。大好きだと言ってもらえる。愛されていると実感できる。


 それがどれだけ幸福なことなのかを噛み締めながら、雲嵐は暗い廊下を歩いた。


(でも、実は俺の鑑定も終わってるかもしれないな……)


 人物鑑定にどのくらいの時間を要するのかは分からなかったが、もしかしたら一瞬でも目が見えれば分かるのかもしれない。ならば、すでに全てがばれており、自分の仮病も無駄ということになる。


 その想像に怯えなが廊下を歩いていると、部屋の一つから明かりが漏れているのが見えた。


 もう皆寝静まっていると思っていたが、誰かが起きているらしい。


 耳を澄ますと、二人の男の笑い声が聞こえてきた。どうやら許貢と許靖が酒を酌み交わしつつ、談笑しているようだ。


(そうか……そりゃそうだよな。久しぶりに友達と会ったら、遅くまで飲むもんだよな)


 大人たちの間で生きてきた雲嵐には、そういうこともよく分かる。


(……俺のこと、話してないかな?)


 それが気になった。もしかしたら、自分の罪について今まさに暴露されているかもしれない。


 雲嵐は山賊仕込みの忍び足で音もなく歩いた。


 子供なら捕まった時のごまかしも利くだろうと、盗みの術も仕込まれている。


 部屋の前で身をかがめ、聞き耳を立てた。


「……しかし、さすがは許靖と王朗(オウロウ)だな。こっちの下剋上は大した抵抗もなく完了したのだが、そっちはしっかり鎮圧したか」


 そう言ったのは許貢だ。


 許靖は含み笑いを漏らしながら応じた。


「ああ。私は南隣りの会稽郡で下剋上を防ぎつつ、北隣り下剋上の片棒を担いでいたわけだ。しかも知らぬ間に」


 この少し前、許靖は豪族のドラ息子である謝倹(シャケン)が起こしかけた反乱を抑え込んでいる。


 しかしその一方で、ここ呉郡にいた時には郡内の有力者たちの人物鑑定を行い、その評を許貢に伝えていた。それは許貢が反乱を成功させるために、非常に有力な情報になったのだった。


(まさか反乱のための人物鑑定とは思わなかったが……)


 許靖は今思い返してもそう思う。


 もちろんそればかりが目的ではなかっただろうが、許貢の瞳の奥の「天地」を見ても、反乱の意図はまるで察せられなかった。


(許貢の「天地」は今も変わらず『門』だな。その中の何かを『守りたい』という意志が強く感じられる、重厚な門だ)


 あの時も、許貢の門からは『守りたい』という気持ちしか感じられなかった。それはつまり、許貢にとって反乱自体が何かを守るための行為だったということだろう。


「別に許靖を騙すつもりはなかったんだよ。とにもかくにも、呉郡の民のために働いてもらったつもりだ」


「反乱も含め、民のためか……盛憲(セイケン)殿は、民のためにならなかったか」


 盛憲は、許貢が追い落とした前太守だ。許貢はその下で働く都尉(とい)(軍の長)だった。


 許貢が軍を管理していたこともあって、反乱とはいえ荒事にはならなかった。


 盛憲の身も家臣に保護されており、怪我一つしていない。


「盛憲様は決して悪い人間ではないんだがな……実際、家臣の中には慕っている者も多かった。しかし、行動力という点では見るべきものは何も無いな」


 最後のは多少辛辣(しんらつ)な言い方ではあったが、許貢から見れば盛憲とはそういう男だった。


 ちなみにこの後の盛憲は最終的に孫権によって殺されることになるが、その頃の孫権は呉郡・会稽郡の有力者を次々に粛清していた。


 そういう状況が存在していたので、盛憲にも手が伸びることは自身にも予測できていたらしい。


 が、それでも結局は死を避けられなかった。確かに迅速な行動力のある人間ではなかったのかもしれない。


「呉郡では賊や群盗と呼ばれる者たちが多い。中にはすでに一部地域を治めるほどに膨らんで、手がつけられない集団までいる。ただ、俺たち役人が本気になれば潰せるものも多いのだ。そういう本腰を入れて攻めれば叩ける賊を、盛憲様は被害を恐れて攻めなかった。都尉の俺がいくら頼んでも、大規模な出兵の許可は出なかった」


 許貢の持った酒盃は震えていた。その時の口惜しさが蘇り、無意識に筋肉が痙攣してしまった。


 許靖は過去のこととはいえ、友人の辛い心情を憐れんだ。


 守るべきものを守れない。それが許貢のような「天地」を持つ者にとってどれほど辛いことか、想像するだに苦しかった。


 一方で、廊下で盗み聞きをしていた雲嵐の心臓は大きく脈打っていた。賊の話が出たので、自分の方に話が向くのではないかと思ったからだ。


「盛憲様も治世の太守であったなら、善い為政者だったのではないかと思うが……少なくとも乱世の行政を担うのに向いている方ではなかったな」


 そういう許貢の結論に、許靖は首を二度縦に振った。許靖も盛憲に会っているが、否定はできない。


「民にとって良い結果となったのなら、私からは何も言うまい」


 治安を乱す山賊がいくつか潰された、というのは、確かに民にとって分かりやすく良い結果だ。喜んでいる者も多いだろう。


「それに盛憲殿を武力追放した時にも、死人どころか怪我人すら出なかったのだろう?」


「まぁ、軍を掌握していたのが俺だからな。許靖の方は息子が大怪我だったんだよな?」


「ああ、あれには肝が冷えたよ。しかしそのおかげでようやく結婚の決心をしたようだし、悪いことばかりでもなかった」


「それは結構なことだ。家族はいいぞ。本当にいい」


「ああ、それは私もそう思う」


「守るものが増えるというのは幸せだ。守るものの幸せが、自分の幸せにもなるのだからな。そうすれば、幸せはどんどん増える」


「お前らしい考え方だよ」


 二人の会話を聞きながら、雲嵐は安堵の息を吐いていた。賊のことから話題が逸れたので、もう自分の話は出ないだろうと思った。


(そろそろ部屋に帰るか……腹が減って仕方ないけど、我慢して寝よう)


 そう思い、廊下を引き返そうとした。


「家族といえば……許貢の新しい家族になった雲嵐という少年のことだが」


 突然自分の名前が口にされ、雲嵐は全身を緊張させた。


「おう、雲嵐な。そういえば昼間は魅音の話だけしていたが、雲嵐の瞳も見たか?」


「ああ、見た。そのことだ」


(やっぱり見られていた!!)


 雲嵐は奥歯を強く噛んで拳を握りしめた。


 部屋に帰るのをやめ、耳をより一層そばだたせる。


(何を言われるんだ……?頼むから、余計なことを言わないでくれよ!!)


 祈りつつ、握る拳に力を込めた。


 許貢はまさかすぐ近くにそこまで緊張している人間いるとは思わず、ごく軽い調子で尋ねた。


「雲嵐の瞳には、何が見えた?」


「そうだな……ある意味、お前と似たようなものが見えたよ」


「俺と似た?……というと、門か何かか?」


「いや、盾だ」


(盾?)


 雲嵐は自分のことながら、それを聞いてもいまいちピンとこなかった。


 自分は弓なら上手く使えるが、盾はあまり使ったことがない。


 許貢も同じようなことを思った。


「意外だな。弓ではないのか?あの子の弓は、あの齢ですでに神業とも思えるほどだぞ」


「そうなのか。しかし、見えたのは盾を構えた兵だった。ただし、普通の盾じゃない」


「と、言うと?」


「ほら……アレだ。あの……なんて言ったかな?盾の上下に鉤爪(かぎづめ)とか棒とかが付いた武器……」


「ああ、鉤鑲(こうじょう)のことか」


 鉤鑲は漢や三国時代などの特徴的な武具であり、長い中国武器史の中でもごく一時期にしか使われなかったマイナーなものだ。


 小さな盾の上下に鉄製の棒や鉤爪が付いており、それで主に相手の武器を防いだり、絡め取ったりする。それを片手に持って敵の攻撃を捌きつつ、反対の手に持った剣などで反撃する。


 三国時代によく使われた(げき)を相手にするには便利だったらしいが、その後は武具の発達に伴ってあまり使用されなくなったようだ。


「確かに雲嵐らしい武具かもしれんが……」


 許貢はそう思った。


 鉤鑲は相手の武器を絡め取ったりするものだから、使い方にやや技巧的なところがある。万人に扱いやすいものではないが、それは雲嵐の器用さや賢さに繋がっているようにも感じられた。


「……鉤鑲って、それほど珍しいものじゃないだろう。相変わらず軍事には興味が湧かんか」


 やや呆れるような許貢の言い方に、許靖は苦笑した。


「いや、興味が湧かないというわけじゃないんだが……まぁ性には合っていないな」


「それで、鉤鑲だとどうして俺に似てるんだ?」


「盾部分がとても大きいんだよ。鉤鑲は普通、盾はすごく小さいだろう?」


「そうだな。防具と言うよりは攻撃補助具という感じだ」


「雲嵐の鉤鑲はその盾部分がとにかく大きい。一見した時には、矢避けの盾かと思った」


「矢避け……それは確かに、鉤鑲にしては大き過ぎるな」


「だろう?だから私は、雲嵐の本質は許貢と同じように『守る』ということなんじゃないかと思ってな」


 許靖の得た推察はそうだった。


 瞳の奥の「天地」において、現実よりも明らかに強調されてる部分があった場合、それがその者の持つ人格的な傾向であることが多い。


 雲嵐の場合、それが盾の大きさだった。


「なるほどな……しかし、盾ではなく鉤鑲なんだな。そんなに大きな盾なら、もう鉤鑲ではなく盾として存在すればいいと思ってしまうが」


 許貢の意見に対し、許靖は表情をやや暗くして首を横に振った。


「彼は誘拐されて山賊の所で暮らしていたわけだろう?きっと、ただの盾ではいられなかったんじゃないか?」


 それを聞いた許貢も表情を暗くし、無言でうなずいた。


 それから二人は幼い少年の身に起こった事々を想像しながら、酒を一口二口、口に含んだ。


 しばらくして、許貢の方が先に口を開いた。


「なぁ……雲嵐の鉤鑲だが、鉤爪の部分に血でも付いてたんじゃないか?」


 廊下にいた雲嵐の心臓が、爆ぜたように鼓動した。


 それはつまるところ、雲嵐の手が血に汚れているのではないかという質問だからだ。


 許靖も許貢の意図を理解し、その上で首肯した。やや緊張した声で答える。


「……そうだ。ひどく血で汚れている。鉤鑲を構えた兵も、血まみれだな」


 雲嵐は茫然とそれを聞きながら、平衡感覚を失いかけていた。


 クラクラとめまいのようなものが起こり、ただ立っているだけなのに足元がおぼつかなくなる。


(終わった……俺の罪を、許貢様に知られてしまった……もう、ここには居られない)


 そう覚悟した。神は、運命は、自分からまた一つ奪ったのだ。


(もう、抱きしめてもらえない……もう、大好きだと言ってもらえない……)


 そのことは雲嵐にとって、とても悲しいことだった。


 しかし、それでも妹とともに逃げなければならない。妹を守らなければならないからだ。


(許貢様は何て言うだろう?自分を罵倒するだろうか?)


 それは聞きたくない。大好きだと言ってくれた人の声で、それだけは聞きたくなかった。


 だから雲嵐はすぐにその場から離れようとした。


 しかしその前に、許貢は雲嵐が予想していたものとは全く違う言葉を口にした。


「まぁ……山賊の所でだいぶ殺したみたいだしなぁ。そりゃ血まみれにもなるだろうよ」


 雲嵐は先ほどとはまた別の衝撃を受け、足を止めた。


 許貢の言葉を聞いた許靖の声音は、安堵で緩いものになっていた。


「……なんだ、知っていたのか。私はてっきり純粋な被害者だという認識で家族にしているのかと思っていた」


「許靖はそれを言おうか悩んでくれていたんだな。ありがとう」


 許貢は酒盃を掲げて礼を言った。こういう優しいところのある友人が好きだった。


「捕らえた山賊連中からそういう証言が得られている。それにうちの兵からも『山賊には凄腕の弓兵がいて、かなりの死傷者が出た』という報告を受けていた。雲嵐は、かなり山賊の役に立っていたみたいだよ」


(ぜ、全部知られてたのか?)


 雲嵐は驚愕の思いでそれを聞いていた。


 しかし許貢は大したことを話している風でもなく先を続ける。


「そもそも、だ。俺が雲嵐を初めて見た時、あの子は兵に馬乗りになって、その目玉に矢を深々と突き刺していたからな。血に汚れていないなんて、全く思っていないよ」


 それを聞いた雲嵐の頭の中には、驚きに混じって疑問が湧き出てきた。


 許靖が代弁するようにその疑問を口にしてくれた。


「それが分かっていながら、なぜ自分の家族にしたんだ?仮に子供だということに同情したとしても、普通の孤児たちと同じように郡として保護すればいいだけだろう。身内にすることが危険だとは思わなかったのか?」


 許貢は少し遠い目になって、その時のことを思い出した。


「雲嵐は確かに兵を殺していたが、それは妹を守るためだった。ひと目見て、俺にはそれが分かった。よく分かったんだよ。だから、二人に火のついた瓦礫が落ちそうになった時、絶対に守らなければならないと思った」


 許貢は服を少しはだけて、肩口を見せた。そこには消えない火傷の痕があった。


「熱かったがな。しかし、こんなものは何ということはない。雲嵐の『守りたい』という気持ちの熱さに焼かれたんだと思えば、気持ちがいいくらいだ」


 許靖は許貢の肌の歪みを見て、心配になった。


 この男はいつか何かを守ろうとして、命を落とすのではないかと不安に思った。


 しかし、許貢はそれでも守りたいのだ。そういう気持ちを体中から発しながら言葉を続けた。


「……しかしな、じゃあその雲嵐は誰が守ってやればいい?まだ十歳で親もおらず、必死に妹を守ろうとしている雲嵐のことは、誰が守ってやればいいんだ」


 許靖は答えられない。この乱世では守られるべき子供たちが守られず、大人たちも仕方ないと諦めていることも多かった。


 しかし、許貢はそれが嫌なのだ。


「俺は、このえらい兄を守りたいと思った。このえらい子に、お前も守られるべき存在なんだよと、そう教えてやりたかった。だから俺の家族にしようと思ったんだ」


 廊下に立ちつくす雲嵐の目から、ポロポロと涙がこぼれてきた。


 誘拐されてから誰も頼れず、ずっと張り詰めていた心が解きほぐされていく。


 自分を守ってくれる人がいる。それがどれほど安心できることか、初めて理解できた。


 許貢は明るく笑いながら、雲嵐の一番嬉しいことを言ってくれた。


「だから俺は、明日も雲嵐を抱きしめてこう言ってやるんだ。『大好きだ。世界で一番お前が大好きだ』ってな」


 それを聞いた雲嵐は、自分も明日言うことを決めていた。


(大好きです。俺も、許貢様のことが世界で一番大好きです)


 明日には、初めてそれが言える。


 雲嵐はそれが楽しみで、空腹とは関係なくその夜はあまり眠れなかった。

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